牧師メッセージ

8月2日(日)聖霊降臨節第10主日礼拝説教「食べ物は誰のために」

更新日: 2020.08.05

聖霊降臨節第10主日/平和聖日(2020.8.2)礼拝説教     牧師 野田和人

列王記上17章8~16節、ローマの信徒への手紙14章10~23節

牧会祈祷
 慈愛に富み、忍耐に勝る私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2020年の聖霊降臨節第10の主日にあって、私たち神戸栄光教会の属する日本基督教団の定める行事暦に基づいて、あなたの御前にこの平和聖日の礼拝をささげることのできる恵みを心より感謝いたします。私たちに与えられた「主の平和」を覚えて、平和を求める祈りをおささげいたします。
 平和の主である神さま
  私たちはあなたのあらわしてくださる平和を祈り求めます。
 命の主である神さま
  私たちは戦争のために流された多くの人々の血と涙とを忘れません。
 悔い改めへと導いてくださる神さま
  私たちは日本の侵略によって犠牲となったアジアの人々のことを忘れません。

 私たちは悔い改めます。
  虐殺された多くの人々のことを覚え、性奴隷とさせられ傷ついた多くの人々のことを覚えて。
 私たちは平安を祈ります。
  原子爆弾の犠牲となった多くの人々の魂のために、沖縄戦の犠牲となった多くの人々の魂のために、空爆の犠牲となった多くの人々の魂のために、そして病や災害によって失われた多くの人々の魂のために。

 癒しの主である神さま
  戦争によって、また理不尽な暴力によって傷つけられた、今も癒えない人々の心を癒してください。
 正義をあらわしてくださる神さま
  今も続く紛争や戦争を止める勇気を私たちに与えてください。戦争のために準備されるあらゆる手段を止める勇気を私たちに与えてください。
 和解の主である神さま
  私たちが人種・宗教・肌の色・国籍を越えて、隣人とつながることができますように、私たちのイマジネーション-想像力を導いてください。
 平和の主である神さま
  私たちがあなたの平和を生きることができますように、私たちの決意を確かなものとしてください。
 慈愛に富み、忍耐に勝る私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。
 アーメン。

説  教          「食べ物は誰のために」

 流行はもうすでに2月から始まっていましたが、特に今年3月からの新型コロナウイルス感染症の流行が収束の兆しを見せるどころか、今や第2波の渦中にいるのではないかと思われる中、私たちの暮らしているこの日本では例年になく長い梅雨がやっと明け、年を追うごとにますます暑いと感じる、たいへん暑い8月を迎えました。

 1945年6月23日の沖縄戦に続く8月6日午前8時15分-広島、8月9日午前11時2分-長崎、そして8月15日、私たちはわずか75年前、心からなる深い悔い改めとともにもう後戻りすることのない平和を目指して、再生の道を、神さまから大切な命を与えられた私たちが共に生かされる共生の道を辿り始めました。
 私たち教会もそうでした。毎年この平和聖日にお配りしている日本基督教団の「第二大戦下における日本基督教団の責任についての告白」-「戦責告白」の真ん中あたりに記されている告白をお読みします。
 「『世の光』『地の塩』である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。
 しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを内外にむかって声明いたしました。
 まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主にゆるしを願うと共に、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、また我が国の同胞に心からのゆるしを請う次第であります。」と。

 8月、教会の暦は必ず聖霊降臨節の真っただ中にあります。そしてこの講壇に掛けられる典礼布の色は、聖霊の炎・情熱を表す赤の聖霊降臨節と重なりながらそれに続く三位一体節の緑-生命・再生・成長を表す緑色となっています。
 私たちの教会学校は3月1日の受難節第1主日からお休みとなっていて、いつもは2階の小礼拝堂で行っているJC-中高科の礼拝もずっとお休みになっています。皆さんは普段はパイプオルガンの向こう側にある小礼拝堂に行くことはあまりないかもしれませんが、小礼拝堂の説教台-1923年にランバス先生を記念して寄贈されたもので、震災までこの礼拝堂で使われていたものです-その説教台に掛けられているJC制作の典礼布も、この講壇の典礼布と同じように、受難節-悔い改めの紫色から復活節の白、そして聖霊降臨節の赤から三位一体節の緑色へと、誰もいない小礼拝堂の中で変わっていっています。祈りつつ変えています。聖霊の赤とともに、生命・再生・成長の緑色が子どもたちの帰ってくるのを待っています。
 私たちはキリストの教会に連なる者として、どのような困難の中にあっても、平和を目指して再生の道を、神さまから大切な命を与えられた私たち一人ひとりが共に生かされる共生の道を、聖霊に導かれ一歩一歩進んで行くことを心から願い、そのように誓うものです。

 そしてその聖霊は祈り求める私たち一人ひとりに等しく注がれます。選り好みはしません。聖霊は祈り求める私たちを選り好みしません。
 今回の感染症も、今回に限ったことではないのですが、感染症が私たちを選り好みしないということでは、これはもちろんネガティヴな意味でですが、選り好みしないということでは聖霊と同じなのですが、今回の感染症が新型なる所以は、例えばこの感染症が私たちの間にある種の差別感情を引き起こすものとなっている所にあるのではないかと思うのです。
 先日の新聞記事からですが、日本、アメリカ、イギリス、イタリア、中国の5ヵ国で行った一般市民調査によると、新型コロナウイルスにひとたび感染すると、「感染する人は自業自得だと思う」と答えた日本人が、調査対象者の11.5%を占めたそうです。そしてこの割合が(11.5%と低く見えるとは言え)、他国との比較では何倍もの断トツの一位だったそうです。この結果は、もちろん一概には言えませんが、例えば私たち日本人に特有の「世間」の同調圧力の強さに由来する差別感情の表れと言ってもいいかと思います。

 今日お渡ししている教団の「戦責告白」の「解説」にも記されていますが、教団創立の後、「教師は…皇国民(皇国民とは「天皇の国民」ということです)、皇国民たる自覚に立ち、臣道(これは「臣下として守るべき道」ということです)、臣道の実践を志し、周囲に誤解せられざるやう努むること」との教団の方針、こんな方針があったんですね、この方針に従わなかったホーリネス教会を切り捨てていった私たち教団の歩みとも重なってくる所があります。教団の創立記念日は1941年6月24日なのですが、この「解説」をお読みになれば、教団がなぜ自らの創立記念日をほとんど祝うことがないのか、よくお分かりになるかと思います。

 しかし聖霊は、祈り求める私たち一人ひとりを選り好みはしないのです。3週間前にお話しした“SDGs-Sustainable Development Goals”(持続可能な開発目標)の理念/合言葉、「誰ひとり取り残さない」のです。今日後からお読みしたローマの信徒への手紙の「食べ物」のお話も、例えば現代の、今お話ししたような視点から見ることもできるのではないでしょうか。
 今日のローマの信徒への手紙の14章では、使徒パウロはまだ直接は知らない、しかし聞こえてはきていた、ローマの教会に起こっていたと思われる実際の問題を取り上げつつも、この手紙に特徴的な、その問題の根本に、根っこに注視していきます。コリントの信徒への手紙一では8章から11章にかけて、コリントの教会での、偶像に供えられた肉を食べてもいいのかどうかという問題について複雑な議論がありましたが(この議論については「聖書の集い」でも何年か前に詳しく見たところですが)、今日の所ではそれとよく似た形で「強い者」と「弱い者」との交わりについて述べられています。
 当時のローマの教会には、「信仰の弱い者」と「信仰の強い者」という分け方、対立があったようです。「信仰の弱い者」とは、キリスト者といえどもまだユダヤ教の食物規定の影響を受けていた人たちのことで、例えば野菜だけを食べる、肉を食べない、偶像に供えられた肉-汚れた肉を避ける。断食をする。さらに一定の日を決めてこれを特別に守る人たち、当時の、ユダヤ教を基本にした生活上の決まり事や習慣を捨てきれない人たちのことです。
 一方、「信仰の強い者」とはその逆ですね。今お話ししたようなことに全く束縛されない、何を食べても差し支えない、断食もしない。そしてどの日も同じだと考える。何ものにも妨げられないという意味で自由な人たちのことで、当時のローマの教会ではこちら(強い者)の方が多数派だったようです。そしてそこでは、強い者が弱い者を軽んじ、弱い者は強い者を裁いていました。

 パウロ自身は、律法といえども結局は人間によって定められた規則を厳格に守ることを第一義とする律法主義に生きる「弱い人」(当時はこちらの方が「弱い人」だったんですね)、その「弱い人」から、主イエス・キリストによってそこから解放された「強い人」へと転換した人でしたから、自由で強い人は人を軽蔑しやすく、弱くて真面目な人は人を裁きやすいという両者の陥りやすい誘惑をよく見抜いて、互いに軽んじ合い、互いに裁き合う理由のないことを明らかにしていきます。
 なぜなら、今日お読みした直前の箇所で言えば「神はこのような人をも受け入れられたからです」(14:3)。今日お読みした所で言えば「キリストはその兄弟のためにも死んでくださった」(14:15)からです。神さまが受け入れてくださったものを軽蔑し、裁くということは、神さまご自身をもそのように扱うこととなり、自らを神に代わる審判者としかねません。
 「そうではない。あなたの基準がすべてであり、絶対なのではない。神があなたを受け入れてくださったという事実が、あなたの裁く心を砕いたのではなかったのか。神が、御子イエス・キリストの十字架の死に至るまでの従順ゆえにあなたを受け入れてくださったという事実が、あなたの侮る心を砕いたのではなかったのか。それなのに、そのあなたがなぜ自分の兄弟を裁くのか、侮るのか。その理由がないではないか。」とパウロは訴えつつ、今日お読みした箇所の前半部分で、最後の審判の座の前に立つ一人ひとりの姿を示して、やがてすべての者、私たち、命を与えられた者すべてが神を賛美する幻を語るのです。

 そして今日の後半部分13節からは、「裁き」、「侮り」を「躓き」に変えて、コリントの信徒への手紙一8章9節の「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘う(躓かせる)ことにならないように、気をつけなさい」という言葉の具体的な内容を語っていきます。
 この所で「汚れた」は「清い」の反対語として、「俗な、不浄な、聖別されていない」という意味です。「それ自体で汚れたものは何もない」、「すべては清い」とは、私たち人間を汚れたものにし得るような食べ物、人が神さまに近づいていく可能性を人間から取り上げてしまうような食べ物などはないということです。
 けれども、もしたとえそうであっても、パウロはここでもう一度、ある兄弟が汚れた食べ物のことで物怖じしているからといって彼がキリスト者でないとするのは、その兄弟のためにも死んでくださったキリストの示してくださった愛に基づいて歩んでいないことになると指摘するのです。このキリストの愛が私たちに信仰的良心-「良い心」と書いて良心ですが、その信仰的良心というものを芽生えさせるわけですが、その信仰的良心はそれぞれの人において異なっているという現実を私たちが受け入れ、そのことを大切にし、最も弱い人を躓かせないように配慮すべきであるとパウロは勧めるのです。
 「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい」、皆さんは肉も好きだしぶどう酒もお好きかと思いますが、ここでは「肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟を罪に誘うようなことをしないのが望ましい」。これはそのような飲食を控えることの勧めですが、こうした飲食を控える勧めは、強い者が弱い者のために自ら進んで自分自身の主張を断念することを通してキリストの愛に学ぶことを表しているものと言えるでしょう。
 これは例えば現代の構造的な、富んだ国と貧しい国との間の格差の著しい食糧危機への警告と考えても良いものではないかと思います。

 けれども、そのキリストの愛の根本はやはり「それ自体で汚れたものは何もない」、「すべては清い」ことの内にあります。そして、ここが大切なところですが、肝心なところですが、そのことはただ、主イエスによって、主イエス・キリストを通してのみ私たちが知り得ることなのです。ところがそれがいつの間にか自分の中で絶対的なものとなってくることの危険性について、パウロはここで訴えているのではないでしょうか。

この絶対化が、自分は信仰によって何ものにも妨げられない自由と真の知識を所有しているという誇り、高ぶりが、ここでは「すべては清い」ことを受け入れることのできない、生活上の決め事や慣習から抜けきれない人たちを軽んじ、侮り、差別することへと繋がっていくのだと、パウロは指摘しています。

 ところが、この意味での「弱い人」が、例えば「穢れ」という社会通念に囚われて、教会の聖餐の場で、そこに被差別部落の人がいるから自分はパンとぶどう酒には与らない(実際にあった話です)、そこに部落の人がいるから自分はパンとぶどう酒には与らないという陪餐拒否を起こしたという現実もあるのです。ここでの「弱さ」は「穢れ」という幻想から抜け出せないでいることですが、ではこうした差別までをも受け入れなさいということかと言えば、それはもちろんそうではありません。
 配慮するとは、何でも受け入れることではなく、そこで「すべては清い」ことの本当の意味を、今日の説教題でもある「食べ物は(一体)誰のために」あるのかを私たちが問うていくところにあるのだと思います。それが信仰的良心のなせる業であり、その業が、なぜイエスさまがこの人のために、この私のために、あなたのためにも死んでくださったのかを、お互いのこの地上の生の具体的な関わりの中で問うていくことを可能にするのではないでしょうか。
 
 使徒パウロの答えは今日お読みした箇所の直前(14:8,9)にあります。たいへん有名な言葉ですが、「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。
 パウロがここで、今日の箇所で私たちに伝えたかったことは、私たちの思いや行い、行動は、ただ主イエス・キリストの真理と愛のみに基づいているのだということを私たちが絶えず確認する作業が、私たちの日常生活において欠くことのできないものであるということです。その確認作業の中で、今日最初にお読みした列王記上の言葉「壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならない」(17:16)ことに私たちは気づかされるのではないでしょうか。
 祈りましょう。

 命を与えてくださる神さま、あなたの与えてくださった何ものにも代え難い豊かな命が一つも損なわれることのないよう、誰ひとり取り残されることのないよう、私たちが互いに互いを尊び合う中で、神さまの平和をこの時代、この世界にあって証ししていくことができますよう、私たちを諭し、導いてください。
 主の御名によって祈ります。アーメン。

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