牧師メッセージ

8月9日(日)聖霊降臨節第11主日礼拝説教「主の食卓は誰のために」

更新日: 2020.08.15

聖霊降臨節第11主日(2020.8.9)礼拝説教     牧師 野田和人

箴言9章1~11節、コリントの信徒への手紙一11章23~29節

牧会祈祷
 慈しみと憐れみに富みたもう私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、今日、聖霊降臨節第11主日にあって、私たちがキリストの体と血によって立てられる新しい契約を思い起こしつつ、この礼拝をささげることのできる大きな恵みを心より感謝いたします。
 私たちは今週末の8月15日に、先の、悔いるべき戦争の敗戦の記念の日を迎えます。私たちが為すべきことは何か。今日、この礼拝を覚えながらもこの所でご一緒に礼拝をささげることのできないお一人おひとり、今礼拝のライヴ配信をご覧になっているお一人おひとり、そして平和を求めて止まないお一人おひとりの祈りに合わせて、今日行う予定だった教会学校「夏の集まり」の礼拝で子どもたちと一緒にささげる「こどもへいわせんげん」の祈りを、今年もここにおささげいたします。

こども へいわ せんげん - へ い わ を い の る
 かみさま わたしたちは へいわの イメージについて
 かんがえました。
 いえが ある。 ともだち かぞくが いる。
 テレビが みられる。
 はたけが いっぱい あって たべものと みずが ある。
 まいにち みんなが わらって すごせる。
 がっこうに いける。
 うれしいこと かなしいこと たのしいことが
 かんじられる。
 にゅうどうぐもが みられる。
 せんそうを しない。
 みんな しなない。だれも しなせない。
 まずしいひとが いない。
 みどりが いっぱい ある。
 …………………………………………
 かみさま いまは ほんとうに へいわでしょうか。
 75ねんまえに あった せんそうで おおくの ひとが
 きずつき ころされました。
 もう にどと こんな せんそうは いやだと おもって いるのに
 せかいじゅうでは せんそうが たえません。
 そして せんそうを とめようと しないで かえって
 いつでも せんそうが はじめられるように すこしずつ
 じゅんびを しています。
 …………………………………………
 かみさま へいわに なるために わたしたちは
 かんがえました。
 だれも せんそうに いかせない。じぶんも いかない。
 けんかを しない。
 たべものが ないひとに たべものを あげる。
 ぶきを なくす。かみさまに いのる。
 かみさま へいわを ください。
 かみさま わたしたちを へいわを つくるための
 どうぐに してください。
 へいわの しゅ イエスさまの おなまえによって
 いのります。アーメン。

説  教         「主の食卓は誰のために」
 今日の礼拝ライヴ配信は繋がっているでしょうか。……ああ、繋がっているようですね。良かったです。先週の礼拝では始まってすぐに配信が途切れたようで、すみませんでした。
 先週の礼拝と言えば、先週は「食べ物は誰のために」との説教題でローマの信徒への手紙、ロマ書14章15節の言葉、「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」といった御言葉などに聴きながら、この議論がすでにⅠコリント、コリントの信徒への手紙一の8章から11章にかけて、コリントの教会で、「偶像に供えられた肉-汚れた肉を食べてもいいのかどうか」をテーマに論じられていたことを見てきました。使徒パウロの答えは、これはロマ書に記されているものでしたが、「わたしたちは、生きるとすれば、このわたしのために、あなたのために死んでくださった、主のために生きる」(14:8)というものでした。「わたしたちは、生きるとすれば、このわたしのために、あなたのために死んでくださった、主のために生きる」。これがパウロの答えでした。
 今日後からお読みした新約聖書の箇所は、そのⅠコリント、コリントの信徒への手紙一での議論、「偶像に供えられた肉を食べてもいいのかどうか」に続いて、特にキリストの教会の中で、私たちのこの教会の中で、相変わらず自分中心に物事を考え、相変わらず自分中心に振舞おうとしている者たち同士の間の「一致」、そのような者たちが一つとなることについて語られている所です。それが、私たちはもう半年ほど新型コロナウイルス感染症の影響で与ることができていませんが、私たちが聖餐の恵みに与る度に何度も語られ、その度に何度も聞かされている「主の晩餐の制定」の言葉、聖餐の制定語と言われている今日の箇所です。

 「一致」ということでは、話は変わりますが、75年前の今日、8月9日午前11時2分に長崎上空500mで炸裂した原子爆弾による惨状を前にして、私たち人類が一致しなくてはならないのは、「核なき世界」の実現に向けたたゆみのない取り組みでしょう。NPT(核兵器不拡散条約)で定められた核軍縮は、あと数ヵ国の条約への署名・批准によって発効する、被爆国である私たち日本がまだ批准していない「核兵器禁止条約」の下でこそ、疑心暗鬼や馴合いを排して実効性のあるものとなるのではないでしょうか。緒方貞子さんのおっしゃるように、「世界はつながっており、自分の国だけの平和はありえない」のですから。
 私たちの愛すべきこの地球に思いを馳せながら、今日お読みしたⅠコリント11章の直前の段落での使徒パウロの言葉に注目したいと思います。愛すべきこの地球に思いを馳せて、この言葉に聴いてみてください。「…あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。わたしもある程度そういうことがあろうかと思います。あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです」(11:18~20)。

 イエスさまが直接私たちに残してくださった私たちの「信仰のための遺産」-最近はよく“legacy”(レガシー)と言ったりしますが、その「信仰のための遺産-レガシー」は二つあります。一つは「主の祈り」、そしてもう一つが「主の晩餐」です。
 イエスさまは会堂で、また海辺や山で人々に語りかけられましたが、それだけでなく、弟子たちや取税人、罪人と呼ばれる人たちとよく食事を共にされました。特にご自身の死の前夜、エルサレムの家の二階座敷で弟子たちと共に食事をとられました。最後の晩餐です。
 イエスさまの死後、弟子たちは集まって主であるイエスさまを想起して、イエスさまを思い起こして語り合い、会食を共にしました。そしてやがて異邦の教会で、ユダヤ人以外の異邦人の教会で信者たちが一カ所に集まる時、賛美、祈り、説教、告白などがなされる中で、そのクライマックスは「主の晩餐」にありました。今日お読みした所にはその「主の晩餐」の最古の伝承が記されています。

 この箇所でのポイントとなる言葉は、「ふさわしくないままで」、「主の体のことをわきまえずに」(11:27,29)という言い方にあるかと思います。皆さんが聖餐に与る時にいつもお伝えする「ふさわしくないままで」という言葉ですが、皆さんは「ふさわしくない」ということで、一体どういうことが「ふさわしくない」と考えておられるでしょうか。
 ここでの「ふさわしくない」ということが何を指しているかと言えば、実はたいへん具体的な事柄を指していることが先程お読みした所から見てとることができます。「…あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。…それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです」。続けて見ますと、「なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」(11:21)。

 ここで短く黙祷をお願いします。(1945年8月9日11時2分、長崎原爆を覚えて)

 話を続けますが、「あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。…それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」。これが「ふさわしくない」ということが意味していることですが、それは、その食卓がそこに空腹の者がいることに何ら痛手を感じることのない、自分だけの食卓になっているということではないでしょうか。

 今日最初にお読みした旧約聖書の箴言(9:1~11)によれば、知恵なる神が食卓を整えてくださったのは、浅はかな者、意志の弱い者のためでした。浅はかな者、意志の弱い者が命を得、分別の道を進むためでした。この箴言での「浅はかな者、意志の弱い者」とは、使徒パウロにとっては、今仲間割れをしているコリントの教会の人たちであり、広くは自分の回りに空腹の者がいることを痛手とは感じない、自分の回りに差別されている者がいることを何ら痛手とは感じない、現代の私たちにも当てはまるものです。
 それでも、そのような者を主はその食卓に招いてくださり、そこでパンと杯に与る者は命を得、分別の道を進むのです。この命を得ることについて、箴言では知恵と関連させて、それは「主を畏れること」であると語り、分別の道を進むことについては、それは「聖なる方を知ること」であると語るのです。皆さんよくお聞きになっていると思いますが、ヨブ記28章28節によれば、「主を畏れ敬うこと、それが知恵。悪を遠ざけること、それが分別」なのです。

 自分だけの食卓とは、私と私たち、この世界のすべてのものの創造主であられる主なる神さまに全く思いを寄せない食卓のことです。聖なる方を遠ざけ、悪に近づく食卓のことです。主イエス・キリストによって救われ、神の家族に入れられた者として、これほどふさわしくない食卓があろうか、これほど主の体のことをわきまえない食卓があろうかと、パウロは憤っているわけです。
 憤りつつ、「あなたがたのために裂かれた主の体であるパンを食べる度に、そしてあなたがたが新しく生かされるために流された主の血である杯を飲む度に、あなたがたに真の命を得させるために、あなたがたを悪から遠ざけるために、地上に生き、十字架に死んで葬られ、三日目に死より甦らされた主を思い起こすべきである」と、パウロは訴えるのです。
 「その主を思い起こす時、自分だけの食卓は、私とあなたの食卓、私たちの食卓、すべての者の食卓となり、私たちを真に生かす主の食卓、神の救いの食卓となるのだ」と、パウロは語っています。それは後に主を裏切ることになるユダも共に与った、驚きの食卓でした。

 パウロがここで「主の晩餐」の意味をコリントの教会の人たちに向けて語り直したのは、「主の晩餐」の根っこにある、その本質とも言える「聖餐の共同性」ということに彼らの目をもう一度向けさせるためだったのだと思います。聖餐は私一人で与るものではないということです。
 「わたし自身、主から受けた」とは、直接主イエスからの啓示があったというのではなく、伝承とは言え、「主から受けた」としか言い得ないほどに重要なものであったということです。そしてここでのイエスさまの言葉、「あなたがたのための」という言葉、「わたしの血によって立てられる新しい契約」の「契約」という言葉も、「あなたがたのための」、そして「契約」という言葉も、イエスさまとの共同性に基づくコリントの教会の人たちの、そして私たちの共同性、そこで彼らが、また私たちがキリストにあって一つとなる、一致することを求めるための言葉だと言うことができます。
 その上で、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と主は言われるのです。

「記念として」とは、想起する、思い起こすということですが、それは単に過去の出来事を回想することではなく、過去の出来事の意味を現在において受け止め、それを将来に生かすという行為のことです。貧しい者、病める者、小さな者と共に歩まれたイエスさまの過去を思い出すだけではなく、私たちの絶望的な欠けを満たして、私たちに真の命を得させるためにご自身の体を死に渡して甦らされた主、今生きて働きたもう主と共に、私たちが隣人を自分自身として、隣人を、その主によって新たに生かされた自分自身として愛するという共同性に生きるということに他ならないでしょう。
それがここで「ふさわしい」という言葉の意味している所ではないでしょうか。「ふさわしい」ということで、決して「完全に正しい」ことを言っているのではありません。「自分をよく確かめたうえで」というのも、自分がどれほど敬虔か、自分がどれほど正しいかとうことに注意を払ってというのではなく、私たちがこの共同性に、私たちが隣人を自分自身として、隣人を、主によって新たに生かされた自分自身として愛するという共同性に生きようとしているかどうかが問われているのだと思います。

 私たちの教会では、今でこそ新型コロナウイルス感染症の影響で、教会で共に食事をする機会をほとんど持てていませんが、普段ならこの時期にも歓迎会やコーヒーサービス、ランチサービス、各種食事会と、この神さまの家である、神さまの祈りの家である教会で食卓を共にする恵まれた機会が与えられ、そのために奉仕する人たちもたくさん与えられています。今日も「主にあってわれらはひとつ」と、この礼拝の中で、聖歌隊の皆さんの賛美の歌声をイメージしながら皆さんと一緒に「主の食卓を囲み」の賛美をささげることができ、本当に感謝です。
 そこでは、「空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」にはなっていませんけれども、ただそういうことだけではなく、この食卓が自分だけの、自分たちだけの自己満足の食卓に留まらないようにすることが大切なのだと、使徒パウロは伝えています。イエスさまの命じられた「主の晩餐」は、豊かな食卓を独占して小さな者を弾き飛ばしてしまう、そのような食卓ではなく、あらゆる人々を招く共同の食卓であるということです。

 私たちに与えられている食卓とはそのような主の食卓であり、そのような神の救いの食卓であるということ、そしてそれは与えられて当然のものではなく、まさに驚きの食卓であるということ、そのことを私たちは味わい尽くす必要があるということではないでしょうか。
 そこから生み出されてくる私たちのキリストと共にある交わりを、互いに受け入れ合い、互いに助け合い、互いに生かし合う交わりを、私たちが自分たちだけのものとせずにそこから広げていくこと、その交わりをそれぞれの生活の場で生かしていくこと、それが今日の御言葉が私たちに求めていることではないでしょうか。
 どのようにして。それは私たちが御言葉に聴き、祈り、出かけて行き-それはインターネットを通してもできることですが-出かけて行き、そして迎え入れることによって、です。祈りましょう。

 神さま、すべてのものは、私たちのためにその命を与え尽くして私たちを新たに生きるようにしてくださった主において一つにされるという確信を、私たち一人ひとりの心に刻みつけてください。そして今日の自分だけの食卓を明日の主の食卓として、私たちに与えられた命を私たちが分かち合い、悪を遠ざけて生きることができますよう、私たちを導いてください。
 私たちが最も小さい者の一人に為し、そして最も小さい者の一人として受けることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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