牧師メッセージ

8月30日(日)聖霊降臨節第14主日礼拝説教「神の国の食卓で」

更新日: 2020.09.04

聖霊降臨節第14主日(2020.8.30)礼拝説教     牧師 野田和人

出エジプト記34章4~9節、ローマの信徒への手紙7章1~6節

牧会祈祷
 天と地とそこに住むすべてのものに命の息を吹き込んでくださった主なる神さま、御名の栄光を心よりほめたたえます。
 主の年2020年の聖霊降臨節第14の主日にあって、私たち一人ひとりがそれぞれの生活の場から召し出され、この安息の日に、信仰の証しに向けてこの礼拝をささげることのできる大きな恵みに心より感謝いたします。離れた所でこの礼拝のライヴ配信をご覧になっておられる方々と共に、様々なご事情で礼拝そのものに与ることのできない私たちの信仰の友、あなたの友お一人おひとりを覚えます。その場にあって、あなたの変わらないお守りとお導きが豊かにありますよう、心よりお祈りいたします。
 私たちは、あなたの安息のリズムとあなたの御腕の確かさに包まれてあなたへの信頼のうちに眠り、安心して週の初めの新しい一日に目覚めました。このように繰り返される一日一日を、あなたの平和に覆われたものとしてください。私たちの前にはその平和を崩す多くの障害や困難が横たわっていますが、あなたの正義をもってこの世界に働きかけ、私たちに汲めども尽きないあなたの命の水を得させてください。あなたの愛の炎をもって私たちに働きかけ、傷つき倒れている一人ひとりをどうか癒してくださいますように。
 病のため、治療、療養のため、術後のリハビリのため、老いのため、孤独と向き合いつつ、困難の中にあってこの礼拝の時を覚え、その場で共に祈りをささげてくださっているお一人おひとりの傍らにあなたが共にいてくださって、私たちと共にそのお一人おひとりの支え、また助けとなってください。特に被災からの再生の道の途上にある人々を力づけてください。あなたの慰めと憐れみの内に私たちは避け所を与えられ、あなたの平安に生きる希望を持つことができるのですから。
 このお祈りを、私たちの平和の主イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。アーメン。

説  教           「神の国の食卓で」
 私たちは8月2日(日)の平和聖日、牧会祈祷での「平和を求める祈り」の中で次のように祈りを合わせました。「和解の主である神さま、私たちが人権・宗教・肌の色・国籍を越えて、隣人とつながることができますように、私たちのイマジネーション-想像力を導いてください」と。この祈りは、新型コロナウイルス感染症のパンデミックが起きていなければ、この夏に東京で、日本で開催されていたはずのオリンピックの精神をまさに表している祈りと言うことができるかと思いますが、私たちは、私たちの内なる隣人とさえつながることができないのが現実です。
 例えば、7月第2週は「部落解放祈りの日」としても覚えた主日でしたが、私たちの間に未だに根強く残っている部落差別や民族差別と、そこに端を発するヘイトスピーチなども、私たちが私たちの内なる隣人とさえつながることができないところから生み出されてくるものの一つと言うことができるでしょう。

 日本基督教団に属する活動団体の一つに部落解放センターがあり、現在の運営委員長は当教会でも伝道師として務められた斎藤成二先生ですけれども、部落解放センター通信「良き日のために」の最新号21号に、「聖書と部落差別『ちょっと待ってください』」との説教を寄せておられます。その説教の最後の方を抜粋しますと、「…部落差別もその姿を変え、…インターネットという自分の姿を見せない高い場所から被差別部落出身の人を痛めつけます。…しかし差別される人は、時代がどう変わっても、あい変わらず人としての尊厳を奪われ、痛みにとどまり続けます。教会もまた、時代に遅れまいとインターネット宣教に力を入れ始めました。その努力と成果は恵みです。しかし主の身体なる教会の使命は時代の先端に立つことではなく、時代の進化の中でなお苦しんでいる人に出会い続けることだと信じます。どれだけインターネットの世界が進歩しようが、どれだけ新型コロナウイルスによって時代が変えられようが、神さまの御心はいつも、時代の先頭を競う競争に勝てない人々と共にあるのですから。」と語っておられます。
 そしてこうした考え方に基づいて、今年は残念ながら中止となりましたが、毎年8月に関西を中心に「部落解放青年ゼミナール」も開催されています。

 もう10年以上前になりますが、長崎の諫早教会時代、私が諫早教会で務めていた時に、大阪の南海地区にあるいずみ教会で行われた青年ゼミナールにエルザさん特製のブラジルのソウルフード、フェイジョアーダ数十人分を乗用車に乗せて、諫早から和泉市まで運んで参加した話をこちらでしたことがあります。覚えておられるでしょうか。
 その時のテーマが「被差別の食卓」で、ブラジルのセンザーラ(奴隷小屋)から始まって、ブラジルを代表する料理となったフェイジョアーダと、さいぼし、こうごり、あぶらかす、フクの天ぷらなど、日本の一般の人たちが食べずに捨てたり、見向きもしなかったりした食材を工夫して調理した部落のソウルフードをあわせて、青年ゼミナールの参加者と一緒に「被差別の食卓」を囲みました。そこで、聖書に記されている貧しい人々、罪人とされている人々と共に食事をされたイエスさまの食卓も、実はこんな食卓だったのではないかと思ったのです。
 イエスさまは神の国を祝宴に例えておられましたが、その祝宴-神の国の食卓に並ぶのは、時代の先頭を競う人たちが頬張るご馳走ではなく、貧しい人たち、罪人たちと囲むこの被差別の食卓に並ぶ料理なんだろうと。

 今日後からお読みした新約聖書のローマの信徒への手紙の箇所の最後の所で使徒パウロが語る「霊に従う新しい生き方」とは、例えばこのような、私たちの足元を見つめ直すような、イエスさまが共におられる食卓のことを指しているのではないかと思うのです。単純に比較すれば、私たちのほとんどが目指しているご馳走は、ここでは、この聖書の箇所では「死に至る実」ということになってしまいます。
 パウロは今日お読みしたすぐ後の段落で、律法そのものが悪、律法そのものが罪なのではなく、律法に対する私たちの関わり方が「律法主義」という罪を引き起こすのだと語っています。本来律法は神の律法、神さまの律法なのですから、その律法の文字を通して、私たちは神さまの語りかけられる声を聞かなければならないはずなのですが、私たちは律法を文字に限定してしまい、その文字から離れると自分自身の正しさが成り立たなくなってしまうことを恐れるあまり、その文字にのみ仕え、その文字の背後にある神さまの声に聞かなくなってしまうのです。
 そのように生きる者から見れば、貧しい人たち、罪人たちと一緒のイエスさまの食卓は穢れたものであるがゆえに、まさに裁かれるべきものでした。そして彼らの食卓には、穢れていない、自らを誇るご馳走の一つひとつが並べられたことでしょう。けれども、そのご馳走こそが死に至る実なのだとパウロは語るのです。なぜならそこでは、穢れている、あるいは穢れていないとの判断の基準-穢れている、いないの判断の基準を神さまに求めるのではなく、いつも自分の側、自分の正しさに求めてしまうからです。

 私たちは、例えば十戒の第六戒-第六戒は何だったでしょう、覚えておられますねー
 第六戒の「殺してはならない」との律法の文字を通して、「兄弟に対して怒ってはならない」との神さまの声を聞かなくてはならないのに、自前の正しさに執着する者にはその神さまの声は聞こえないで、平気で人を裁くのです。第十戒の「むさぼってはならない」-「隣人の家を欲してはならない」との律法の文字を通して、私たちは「兄弟に仕えなさい」との神さまの声を聞かなくてはならないのに、これもお話ししたことがありますが、16世紀の南アメリカの植民地宣教時代のキリスト教徒たちは、世界に類を見ないほど飽くことのない欲望と野心とを抱いて、宣教という自らの正しさの下に、南アメリカ中をむさぼり尽くしていったのでした。
 その後に起こってきた、例えばブラジルの「解放の神学」や韓国の「民衆神学」、また世界的なエキュメニカル運動などは、そうした野心的な宣教に対するカウンターミッションとして考えることができるでしょう。

 「死に至る実」-この言葉には、律法の文字に執着することを通して現れ出てくる、量り知れないほどの罪の重さ、罪の支配が表されています。この重さが分からない私たちに、その重さを分からせてくださったのが、私たちのための贖いの死としての、私たちを罪から買い戻してくださった主イエス・キリストの十字架でした。
 先にお読みした旧約聖書の出エジプト記のモーセの祈り、「主よ、ご好意を示してくださいますならば、かたくなな民であるわたしたちの罪と過ちを赦し、わたしたちをあなたの嗣業として受け入れてください」との赦しを求めるモーセの祈りは、このキリストを通して成就しました。このキリストの出来事を通して私たちの荷は本当に軽いものとなり、遂には自らを捨てて生きることが容易になったのです。自分自身の人生を、自分の手から離して生きることが可能になったのです。
 そのように、キリストの十字架の死は、律法の文字に対する私たちの関係に大きな影響を及ぼしました。そう、私たちの生き方を転換させたのでした。これが、パウロが今日の箇所で、現代ではたいへん理解しにくい私たちの間の婚姻関係を例にして語っている事柄です。
 最後の6節に関連させてまとめますと、「しかし今は、キリストゆえに、自分を縛っていた律法に対して死に、律法の文字に従う古い生き方ではなく、バプテスマ(洗礼)によって私の内に与えられる神のいのちの霊に従う新しい生き方で隣人に仕え、神に対する実を結ぶことができるのだ」と言うことになります。未来を持たない罪の支配の下から、永遠の命を持つ、死者の中から甦らされた方の支配の下への転換です。

 イエスさまの食卓-被差別の食卓は、この支配の転換の先取りでした。そしてこの恵みの食卓こそが、私たちが神さまに対する実を結ぶようにと神さまが私たちに整えてくださる、備えてくださる神の国の食卓-いのちの食卓となるのです。
 私たちは、私たちに与えられているこの神の国の食卓を、イエスさまの食卓を先取りすることのできる特権を十分に用いるべきであり、その特権を十分に用いて、神さまから与えられた嗣業であるこの地で、一つひとつの、一人ひとりのかけがえのないいのちを育み、養っていきたいと切に願うものです。祈りましょう。

 神さま、私たち一人ひとりは、あなたによってあなたの国の食卓へとみんなが招かれていることをしっかりと受け止め、その食卓での食事を感謝していただき、私の隣人との交わりに生かしていくことができますよう、私たちを導いてください。
 今日これから行われる教会学校の「夏の集まり」の上に、集まってきてくれる子どもたち一人ひとりの上に、あなたのお守りと大きな祝福が与えられますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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