牧師メッセージ

9月13日(日)聖霊降臨節第16主日礼拝説教「私たちの命ー永遠の命」

更新日: 2020.09.19

聖霊降臨節第16主日(2020.9.13)礼拝説教     牧師 野田和人
エレミヤ書28章1~17節、ヨハネの手紙一5章10~21節

牧会祈祷
 慈しみに富み、憐れみ深い、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2020年の聖霊降臨節第16の主の日、ご受洗・信仰告白から半世紀を迎えられ、また年齢を積み重ねられる中で、あなたによって生かされてきたこの地上の人生の機微を私たちに伝えてくださった多くの信仰の先達の方々と共に、「神に属する者」の礼拝をささげることのできる大きな恵みを心より感謝いたします。
ライヴ配信をご覧になりながら、あるいはこの礼拝の時を覚えて、ご自宅で祈りを合わせてくださっているお一人おひとりの上にも、あなたよりの恵みの光が豊かに注がれますよう、心から願います。
今、私たちが生きている、生かされている現代においても、新型コロナウイルスの影響のみならず、様々な要因によって私たちの間の分断が進行しつつあります。あなたと私たちの間を分かち、私たち同士の間を分け隔てし、私たちの存在そのものを脅かそうとする力に対して、主が、にもかかわらずこのような私たちを受け入れてくださったがゆえに、私たちが根気よく、忍耐しつつ、互いを受け入れ合い、近い、また遠い隣人と共に生きる道を辿っていくことができますよう、私たちを諭し、励まし、導いてください。
 私たち神戸栄光教会の教会学校を覚えます。あなたの愛する子どもたちの活力と共に、教会学校を一日も早く再開できますよう導いてください。
 今、様々な困難の中におられるお一人おひとりを、私たちが祈りと慰め、共感と励ましのうちに覚え、お一人おひとりが日々の健康へと立ち帰る道をあなたが備えてくださることを確信して、恐れることなく希望をもって愛する皆さんと共に生きていくことができますよう、私たちを支え、導いてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

説  教         「私たちの命―永遠の命」
 昨日の土曜日は、朝の9時過ぎから、教会員の堀 忠さんが設立者であられる元町映画館の開設10周年記念礼拝を映画館の中で、スクリーンを背にして行ったのですが、その礼拝の中で、堀 忠さんが10周年記念礼拝のために選ばれた詩編121編から少しお話ししました。礼拝の式次第を玄関の自動扉前に置いていますので、ご自由にお取りください。
 詩編121編は、皆さんもよくご存知かと思いますが、「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは主から、天地を造られた方のもとから。」で始まり、その後に主なる神さまの「守る」、「見守る」、「見守り」と言う言葉が6回繰り返されることで、私たちの人生の旅路を支え、慰めてくださる神さまへの信頼と、その神さまによる救いの確かさを歌った詩編として、多くの人に親しまれている詩編のうちの一つです。
 終わりの方に「あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださる」とあり、昨日はこの御言葉についてこんな風にお話ししました。「この『出で立つのも帰るのも』というのは、旧約聖書的には、例えばイスラエルの民がエジプトへと出て行って、そこでの苦難を経て約束の地カナンへと戻ってくること、また新約聖書的には、例えばイエスさまが荒れ野へと出て行かれ、そこでの様々な試練を通して神さまの働きに触れること、このどちらも私たちが神さまに立ち帰ることを表していますが、では私たちの人生ではどうかと言えば、例えば、私が今までの古い自分から新しい試みへと出て行き、そこでの様々な経験を通して新しい自分と出会うことと言ってもいいでしょう。新しい自分へと帰ってくるということです。そしてこのすべての過程を、プロセスを見守ってくださる方がおられるということです」と。

 では、この「私たちの人生」を「キリスト者の人生」と置き換えてみるとどうでしょうか。私が、それまでの古い自分から新しい試みへと出て行き、そこでの様々な経験を通して新しい自分と出会う、新しい自分へと帰ってくる-これはまさに私たちの信仰の経験と言ってもよいものではないでしょうか。私たちの人生は、そしてキリスト者の人生は、神さまの前で、この、出で立ち、経験し、帰ってくることの、神さまへと立ち帰ってくることの繰り返しではないでしょうか。
 そこでは、「信仰の炎が揺らぎ、消えかかったことがある」かも知れませんし、信じることが重荷に思われることも度々だったかも知れません。けれどもその度ごとにあらためて信仰が起こされ、確かめられ、深められ、重荷は軽くされ、自分が重荷だと思っていたものも、実は恵みとして与えられたものであったことに気づく時もあるのではないでしょうか。
 私たちはそこで召し出されて共にこの場に集い、あるいはリモートで共に礼拝をささげ、この礼拝から押し出されて、信仰という経験に支えられてこの世界で働くことができるのです。

 ところで、全く同じ経験を持っている人はいないわけですが、私たちの信仰の経験は、一人ひとりの異なった経験が信仰へと向かう知恵によって一つとされた、私たちの共同の経験と言っていいでしょう。そして信仰へと向かう知恵とは、キリストが私たちのところへ来られて、教え、癒し、失われた者、見捨てられた者たちを探し出し、最後は十字架へと向かわれることによって私たちを永遠の命に、神さまの命に生かしてくださったことを知ることです。
 今日後からお読みした新約聖書のヨハネの手紙一の最後の言葉、「子たちよ、偶像を避けなさい。」との言葉は、今お話しした「信仰へと向かう知恵」の行き着く所と言っていいでしょう。

 今日最初にお読みした、旧約聖書エレミヤ書での預言者エレミヤとハナンヤとの対決の場面は、「二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる」と安易に平和を語るハナンヤが、主の言葉を通して「神を偽る者」とされたことがエレミヤによって証言されている所です。この「神を偽ること」、私に、私たちに命の息を吹き入れ、生きる者としてくださった私たちの創造主なる神さまに信頼することをせず、自らを神とすること、これこそが先程の「偶像」が意味していることであり、手紙の著者ヨハネの語る「死に至る罪」なのです。
 それは、私たちがこの世の富と権力、満足のみを追い求め、造り主なる神さまへの従順から離れ、自分自身と隣人への、造られしものすべてへの尊厳を損なわせるように唆す反キリストの力として働きます。この力に抗い、キリストの権威の下に生きようとする知恵が「信仰へと向かう知恵」であり、それを私たちの身近な言葉、例えば「主の祈り」の言葉で言い表せば、「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」に当たります。この祈り、願いを通して、私たちは「死に至る罪」を乗り越え、主にある永遠の命に生きることができるのです。

 永遠の命とは、霊魂の不滅でも、私たちの死後の生のことでもありません。使徒パウロが永遠の命について語る時は、主イエス・キリストの十字架の死とそこからの復活との関連で説明がなされます。すなわち、私たちの洗礼において起こっている出来事です。
 先々週の主日礼拝でのお話、「神の国の食卓で」の中でお話しした、「未来を持たない罪の支配の下から、永遠の命を持つ、死者の中から甦らされた方の支配の下への転換」、罪の下から恵みの下へ、キリストと共に死に、キリストと共に生きる生への転換です。
 これが聖書の語る永遠の命であり、この永遠の命が、神さまの命が、主に信頼する者すべての命にすでに宿っているのだと、手紙の著者ヨハネは今厳しい迫害にさらされているヨハネの教会の人たちを励ましているのです。

 この永遠の命の具体的な現れ方は一人ひとり異なっていますけれども、それらが信仰へと向かう知恵によって一つとされて私たちの共同の信仰の経験として現れ、この教会を通して、礼拝から押し出されて、私たちがこの世へと働きかけていく力となるのではないでしょうか。
 手紙の著者は最後に「すべて神から生まれた者は罪を犯しません。」と語りますが、これはもちろん無条件にそのように言っているのではなく、私が、私たちが、このままでは、聞く耳を持たないままでは救いはないことを悟りつつ、にもかかわらずその私を救ってくださるものがあるということ、そしてその救ってくださった方に対して、私が誠実、率直であるということだと思います。そこに、私たちの命を超えた、永遠の命があるのではないでしょうか。
 祈りましょう。

 神さま、主イエスは死を滅ぼし、その福音を通して不滅の命を現してくださいました。そのキリストと結ばれて、新しく創造され永遠の命を賜っている恵みに私たち一人ひとりが生かされ、再開しつつある集会や組会の交わりの中で共同の信仰の経験を深め、分かち合い、証ししていくことができますよう、私たちを導いてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

page top