牧師メッセージ

10月4日(日)聖霊降臨節第19主日礼拝説教「知恵をとらえる人」

更新日: 2020.10.13

聖霊降臨節第19主日/世界聖餐日・世界宣教の日(2020.10.4)礼拝説教
牧師 野田和人
箴言3章13~20節、ローマの信徒への手紙11章32~36節

牧会祈祷
 憐れみ深く、慈しみに富みたもう、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、今日、聖霊降臨節第19主日、10月第一主日は、私たち日本基督教団も大切にしている世界聖餐日・世界宣教の日です。今年2020年は新型コロナウイルスのパンデミックの影響で、3月以来、神戸栄光教会では礼拝の中で皆さんと共に聖餐の恵みに与ることができていませんが、今後再開される聖餐を通して、世界中の教会との一致と交わりを確認させてください。また教会が、世界のあらゆる所で平和の主を証しし、主の平和の福音を宣べ伝えることができますよう、私たちを力づけてください。

日本人の作による讃美歌429番「世界のどこかで」を祈ります。
1 世界のどこかで 神さまの愛している人々が 戦い、傷つけあっています。
憎しみの血は流れ続けて、悲しみの叫びは 今も止むことがありません。
2 かつては私たちも 神さまが愛している人々の いのちと望みをふみにじりました。その罪は何と重いことでしょう。それなのに今なお 心たかぶる私たち。
3 主イェスの御前で 神さまの愛している人々に 赦しを求め、誓い、祈りましょう。「神さまのくださる平和に生きる 新しい平和の民にしてください」と。

 神さま、私たちが「知る力と見抜く力とを身に着けて、本当に重要なことを見分けられるように」(フィリピ1:9-10)導いてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

説  教          「知恵をとらえる人」
 先週の日曜日の夜は、午後9時から、朝日会館にある「シネリーブル神戸」で、“JAZZ ON A SUMMER‘S DAY”、日本語題は「真夏の夜のジャズ」という映画を妻と一緒に見ました。今から62年前の1958年7月にアメリカで開催された「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」-フェスティバルそのものは1954年から毎年、現在まで続いているそうですが-その「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」を撮影したドキュメンタリー・フィルムです。皆さんもよくご存じの、ルイ・アームストロングらも登場する、日本では1960年に公開された映画の、カラーも鮮やかな4K版です。
 なぜこんなお話から始めるのかと言いますと、映画の最後に登場したゴスペルシンガー、マヘリア・ジャクソンの、フェスティバルのMCによる紹介が私にはたいへん印象深くて、この日曜日の礼拝を思い起こさせるものだったからです。
 こんな風に始まります。“Ladies and gentlemen”、今なら“Everyone”と言うところかもしれませんが、とにかく“Ladies and gentlemen, it is Sunday.”と来て、マヘリア・ジャクソンが紹介されるのです。“Ladies and gentlemen, it is Sunday.”「皆さん、今日日曜日。マヘリア・ジャクソンのゴスペルをお聴きください。」というわけです。
 彼女はそこからリズミカルなゴスペルを2曲歌います。最初は「神の国を歩もう」-これはゴスペルそのもののような歌で、2曲目が「雨が降ったよ」-これは皆さんも想像が付くかもしれませんが、旧約聖書に出て来るノアの物語、あの40日40夜降り続いた雨を歌ったもので、人々がノアの箱舟のドアをノックしてノアに中に入れてくれるように頼んだところ、「だめだ。あなたたちは罪人だから。それにこのドアのカギは神さまが持っているんだから。」とノアが答えるという、なかなか厳しい歌です。そしてこの2曲を歌って最後に(映画でも最後の曲ですが)、圧倒的な静寂に包まれた「主の祈り」-“LORD’S PRAYER”を歌って終わります。

 彼女のゴスペルももちろん素晴らしいのですが、私はとにかく最初のMCの紹介、“Ladies and gentlemen, it is Sunday.”の”It is Sunday.“-「今日は日曜日。」の言葉が持っている響きに魅せられたのです。”It is Sunday.“-「今日は日曜日」。そう、福音と「主の祈り」の日だ。”It is Sunday.“-「今日は日曜日」と来れば、後に続くのは聖書の御言葉と「主の祈り」しかないんだ、と。この言葉は、毎週巡り来る日曜日が習慣になってしまっている自分を、あらためて揺り動かしてくれる言葉でした。皆さんはどうでしょうか。
 ”It is Sunday.“-「今日は日曜日」。「知恵は、それをとらえる人には、命の木となり、知恵を保つ人は幸いだ」との御言葉に聴き、「国も力も栄えも、限りなくあなたのものです。」と歌い、祈る日曜日。”It is Sunday.“-「今日は日曜日」。「ああ、そうだ。」となるでしょうか。

 そして、今日の日曜日は「世界聖餐日」、「世界宣教の日」でもあります。本来ならば今日、今この時に皆さんと一緒に与るはずの聖餐は、十字架の上で私たちのために、私たちがキリスト者であろうとなかろうと、私たちが互いに憎み合っていようがいまいが、私たちが互いに全く違った価値観に立っていようといまいと、そのような私たち一人ひとりの、自分でも気づいてさえいない罪を贖うために、死んでくださったキリストが今ここにおられ、そのキリストと私が、そのキリストと私たちが一つになっている、ご自身を献げ尽くす愛で私たちを包んでくださったキリストを通して、互いの様々な違いを超えて私たちが一つになっていることを実感する場です。
 主イエスは、ヨハネによる福音書によれば、ギドロンの谷の向こうで逮捕される前に次のように祈られました。「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(ヨハネ17:11)。

 聖餐に与るという、静寂と主への志を表す行為を通して、私たちには主イエスの死の事実とその意味を告げ知らせる力が与えられました。そしてこの力が、今日、世界中で共に主の聖餐に与ることを切望しているすべての人々の思い、一人ひとりの祈りと併せて世界宣教の原動力となり、その働きを支える原点となっています。
 そのようにしてこの日本にも福音の種が蒔かれ、私たちにも、あらゆる人たちと心を合わせて一つとなって主を礼拝する機会が与えられました。そして現在では逆に日本から世界へ向けて約20名の宣教師の方々が派遣され、価値観や文化の違いもあるそれぞれの地において福音宣教に励んでおられます。
 イエスさまが生きておられた時代、またイエスさまが天に挙げられた後の最初の教会の時代、弟子たちをはじめ一体誰が現代のこうした状況を想像し得たでしょうか。

 今日与えられた新約聖書の箇所の少し前の所で(ローマ11:25)、使徒パウロは「秘められた計画」について語っています。「秘められた計画」-ギリシア語では「ミュステーリオン」、英語では「ミステリー」で、普通は「神秘」ということですが、日本語の聖書では「奥義」(おうぎ、おくぎ)、あるいは「秘義」と訳します。
 パウロはこの「ローマの信徒への手紙」の9章から、イスラエルの選びと躓きについて語ってきました。詳しくは、現在ローマの信徒への手紙を読み進めている「聖書の集い」でもあらためて学びますが、その議論の結論が今日の32節となっています。すなわち、「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです。」
 パウロの時代のことですから、ここでの「すべての人」とは、地中海世界(沿岸)に住むイスラエル人/ユダヤ人と異邦人とを合わせた全体としての「すべての人」であり、また、当時「今日こそ彼が来給う。今日こそ復活の主が来給う。」という熱い思いを持って朝毎に目覚めていた、まさに当時の終末の時を生きていたパウロを初めとする最初のキリスト者たちもそこに含まれるわけですが、ここに示されている神さまの「秘められた計画」、「すべての人を憐れむためにすべての人を不従順の状態に閉じ込めた」という神さまの「秘義」が、キリストの出来事を通して私たちの生きている現代にも示されている、啓示されているということでは、私たちもパウロと共に今日の33節以下にある神さまへの賛歌へと導かれているということになります。

 32節は、「私たち人間の不従順は確かに一つの事実ではあるけれども、そうかと言ってそれが最後の事実なのではなく、神さまの審き、神さまの怒りも確かに現実ではあるけれども、それがただ一つの、唯一の現実でもないこと」、「それらは私たち人間とこの世から生じたものであるだけでなく、遂には神さまから出てきたものでもあるゆえに、そこには希望が残っているということ」、「不従順が神さまから出てきたものではない時、そこには希望は残らないのだけれども、それが神さまから生じたものであるのならば、そこにはたとえ不従順といえども希望があるということ、そこに神さまの『秘められた計画』、『秘義』があるということ」を語っているのではないでしょうか。
 私たち人間の不従順と神さまからの審きにもかかわらず、いやむしろこの世の知恵としての不従順、頑なさという閉じ込めの中にこそ、すべての人を憐れむ、すべての人類を救うという神さまの目的が、その知恵が貫かれているということでしょうか。
 いまだに憎しみや差別、争いの絶えない現代においても世界宣教の種が蒔かれ、全世界のすべてのキリスト者と共に聖餐の恵みに与ることが許されているということは、まさに秘義以外の何ものでもないでしょう。

 パウロはこの32節で、この手紙の9章から始まったイスラエルの選びと躓きについての彼の議論を終え、神さまへの賛歌へと導かれていきます。
 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」。「神の富」というのは、神さまの憐れみの圧倒的な豊かさのことです。そして「神の知恵」とは、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(Ⅰコリント1:18)とパウロが語ったように、これまでは隠されていたけれども、十字架の出来事によって明らかにされた、この世の知恵が、人間の知恵が理解しない、理解し得ない「十字架の愚かさ」としての「神の知恵」のことです。そして「知識」は、洞察力-物事を見通す力といっていいでしょう。
 これら三つが、神さまの憐れみと十字架の知恵と洞察力とが結び付いて、主イエス・キリストにおいて啓示された神さまの救い、限りなく深い神さまの秘義を指し示すのです。そして、「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」。
 すなわち、神さまの審き、神さまの救いの道筋は、その深さと広さにおいてまさに隠されており、私たちが神さまを知るよりも前に神さまが私たちを知っていてくださるということで、神なきもののような歩みをしてさえいる私たちを、神さまが先に知っていてくださるという神さまのイニシアティヴ-主導権を前にして、パウロはただ褒め称えるしかありません。

 先程、「私たちもパウロと共にこの賛歌へと導かれています」とお話ししましたが、本当に私たちがパウロと同じように神さまを褒め称えることができるかどうかは、はなはだ疑問です。
 あまり比べるのは良くないのですが、キリスト教が他の様々な宗教と根本的に違っている所は、おそらく他の宗教が私たち人間を神へと、あるいは真理へと導く道を何とか指し示そうとするのに対して、キリスト教は、その試みが、私たち人間を神へと、真理へと導こうとするその試みが、不可能であることを明らかにした所にあるのだと思っています。あるがままの人間は全体として神さまの審きの下にあり、神さまが私たち人間のもとへと来られて恵みを与えられるのです。それがイエス・キリストの道であり、救いの道であり、「啓示」ということでしょう。
 この世的な宗教の進む方向とは逆に、限りのない、ご自身を献げ尽くす愛において神さまが人間への道へと進まれて、功績や報いの彼方にある恵みを私たちに贈ってくださいました。しかし実はこのことが、この「神の知恵」が、人間である私たちにはなかなか分からないのです。知恵をとらえたと思っても、すぐにまたとらえられなくなってしまうからです。
 しかしそれでも私たちは、パウロの次のような言葉によって力づけられもするのです。皆さんもよくお聞きになっている言葉です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8:28)。
 私たちも、パウロと共にこの言葉の最後の「万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」との確信を力強く語ることのできる者でありたいと切に願います。
祈りましょう。

 神さま、あなたの霊を測り、主の企てを知り、主に助言し、理解させ、裁きの道を教え、知識を与え、英知の道を知らせうる者などは、ただの一人もいません。あなたによって霊を与えられ、企てを知らされ、導かれ、報いを与えられることを、心から素直に受け取ることができますよう、私たちの生活の中で私たち一人ひとりを照らしてください。私たちの贖いの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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