牧師メッセージ

11月1日(日)降誕前第8主日礼拝説教 「偶 像」

更新日: 2020.11.04

 

降誕前第8主日(2020.11.1)礼拝説教     牧師 野田和人

イザヤ書44章6~17節、ローマの信徒への手紙3章21~28節

牧会祈祷
 憐れみ深く、慈しみに富みたもう、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2020年の降誕前第8の主日に、この愛する御堂にあなたによって私たち一人ひとりが招かれ、集められ、あるいはライヴ配信を通して、またその場にあって祈りを合わせて、畏れと喜びとをもって心からなる礼拝をささげることのできる大きな恵みを心より感謝いたします。
 聖霊降臨節が終わり、主の到来を待ち望んで私たちの身も心も生活も整える期節に入り、主日礼拝では特に旧約聖書からの御言葉を通してあなたの御旨に聴く機会が与えられています。私たちの罪の闇に光を当ててくださる御言葉に押し出されて、新しい一週間の生活へとこの礼拝から足を踏み出していくことができますよう、お導きください。
 私たちは互いに受け入れ合い、互いに愛し合い、互いに一つとなることを目指していますが、そうはさせない大きな力、高慢、傲慢という闇が、偶像が私たちを支配します。どうかあなたが導いてくださって、その支配に抗う一歩を私たちに踏み出させ、私たちを生かしてくださる主イエス・キリストにあって、私たちが心の貧しい者同士として出会うことができますよう、導いてください。
 私たちはその出会いの中で、互いのために仕えること、互いのために祈ることの大切さを知らされ、お互いの平和への志を、あなたと共にある平和への志を立てていくことができます。私たちの志を、あなたの平和に向けてしっかりと立てることができますように。
 今、新型コロナウイルス感染症や新たな分断、排除、敵意などによって、平和と生存を脅かされている数多くの小さく弱くされた者たちと共にあなたがいてくださり、お一人おひとりをその孤独、闇、困難から両手で掬い上げてくださるよう、心から願います。
 私たちを和解と一致の真の出会いへと導いてくださる主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

説  教            「偶  像」
 昨日、10月31日は何の日だったでしょうか。ハロウィン……、宗教改革記念日……、あぁ、きちんとおっしゃってくださる方もおられますね。そうじゃないと神さまに怒られてしまうかも知れませんからね。ただ普通皆さんがおっしゃるのは、10月31日はやはりハロウィンでしょうか。
 教会近くの食べ物屋さんの方々にもよく聞かれるのです。牧師さんとか先生とか呼んでくださるのですが、「牧師さん、ハロウィンは教会やキリスト教と関係があるんですか」と。もちろん全く関係ありませんよね。
 ハロウィンは元々北欧のケルト人の冬の到来を告げるお祭りで、11月1日前後の夜に跋扈する悪霊や亡霊をなだめるために火を焚いて供え物をささげた風習が、イギリスのスコットランドやアイルランド、そしてアメリカに伝わり、キリスト教教会暦の11月1日-諸聖人の日、”All Hallows“,”All Saints‘s Day”-「聖徒の日」とくっついて、その「前夜」“Eve”あるいは「夕べ」“even(ing)”という意味で「ハロウィン」“Halloween”と呼ばれるようになったものです。
 しかし、この日10月31日は、プロテスタントキリスト教にとってはたいへん大切な日です。私たちも3年前にその大切な日の500年を記念して、そう、宗教改革500年を記念して、マルティン・ルター展をこの神戸栄光教会を会場にして行いましたよね。ルーテル教会の方々が驚いておられました。メソジストの神戸栄光教会がなぜルター展を開催するのかと。それはやはり教派に関係なく、プロテスタント教会にとっては大切な事柄だったからです。そうです。10月31日は宗教改革記念日でした。

 マルティン・ルターがドイツのヴィッテンベルク城教会の門の扉に95ヵ条の提題というものを貼り出して、当時のカトリック教会の免罪符の販売に対して「それはおかしいのではないか、反対だ」との意見をはっきりと述べたのが、今から503年前、1517年の10月31日だったと言われています。
 免罪符というのは、皆さんご存知だと思いますが、犯した罪に対する罰を軽くするために、あるいは、免罪ですから免除するために、特に死んでから後の、生きている時ではなく死後の刑罰を免れるために教会が発行した証書のことです。この免罪符を教会の財政を助けるために販売し始めたことに対して、それは魂の救いをお金で売り買いすることではないか、そこには悔い改めがないではないか、それは堕落ではないかと異を唱えたのが宗教改革の始まりとなりました。
 その後の宗教改革運動は、それを止めようとする多数派のカトリック教会に対して、改革を推し進めようとする少数派が抗議をする、プロテストするという形で進められ、運動開始から12年後の1529年、「信仰のみ」、「聖書のみ」、「神の前での平等(万人祭司)」の三つを三大原理とするプロテスタント教会が誕生したわけです。
 「信仰のみ」ということでは、今日お読みした新約聖書のローマの信徒への手紙の最後、今日お読みした箇所は先日の「聖書の集い」でも詳しく学んだところですが、お読みした最後、3章28節で使徒パウロが語った「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えます」の「信仰による」の所を、ルターが、オリゲネスに始まる教父たちの伝統を引き継いで、「信仰のみによる」と力強く訴えたことが始まりです。
 とにかく宗教改革のそもそもの始まりは、免罪符の販売に抗議したところにあります。免罪符を買うことで救いを得る、免罪符を売ることで救いを与えるという、まさに人間のなせる業ですが、これは実は偶像崇拝そのものと言っていいのではないでしょうか。プロテスタント教会はこのことに対して抗議をした、プロテストしたところから始まりました。

 私たちの教会の組会では、現在では日曜組会として交流会のみを行っていますが、2017年の11月からヨハネの黙示録を読み進めており、一昨年の組会で学んだヨハネの黙示録2章5節には次のような言葉があります。エフェソの教会に宛てた手紙です。「あなたはどこから落ちたかを思い出し、悔い改めなさい」。ルターはこの黙示録の声を聞いて宗教改革へと駆り立てられ、カトリック教会に呼びかけたのです。「あなたはどこから落ちたかを思い出し、悔い改めなさい」と。
 けれどもこの言葉の直前、2章4節には次のようにあります。「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」。新共同訳では「しかし、あなたに言うべきことがある。あなたは初めのころの愛から離れてしまった」。
 この「あなた」とは一体誰のことでしょうか。プロテスタント教会は10月31日を記念しますが、ただそこでお祝いすることはほとんどないのですが、それは、当時のカトリック教会やこの世に対しての抗議を思い起こすというよりもむしろ、今現在も私たちが神さまによって抗議されているということを思い起こすためではないかと思うのです。「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった」。このように神さまが私たちに対して抗議しておられる。このことに、私たちプロテスタント教会はあらためて謙虚に聴くべきではないでしょうか。

 初めの愛は、初めの教会は次のようでした。使徒言行録4章24節以下に次のように記されています。「信じた者の群れは、心を一つにし、思いを一つにして、誰一人その持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有していた。使徒たちは主イエスの復活について非常に力強く証しをした。そして大きな恵みが彼ら一同に注がれた」。「あなたはこの初めの愛から離れてしまった」と神さまが抗議しておられます。
 先週の礼拝では、山内先生が知恵の話をしてくださったと思いますが、その知恵の話で言えば、すべてのものに先立って在った、存在していた知恵が、人の子らを、私たち人間を喜ぶ、人間たちと共に楽しむ。そのことに対する応答として、私たちは主を喜ぶ、主を誇ることへと導かれるわけですが、実はそこで違うものを誇っているのではないか、主とは異なるものを喜んでいるのではないか、いわば象徴的に免罪符を売り買いし、偶像を誇っているのではないかと、私たち一人ひとりが厳しく問われているのです。
 10月31日は、神さまがそのようにプロテストしておられることを私たちがしっかりと思い起こすための記念日だということができるでしょう。そう、お祝いしている場合ではないのです。

 そしてそのプロテストが、マルティン・ルターより二千年以上も前の第二イザヤの預言-第二イザヤは、旧約聖書イザヤ書の40章から55章までを、イスラエルのバビロン捕囚末期に活躍したであろう書き手を特定できないところから便宜上「第二イザヤ」と呼び習わしているものですが、その第二イザヤの預言とも結びついていることを聖書は証ししています。
 今日お読みした箇所はその第二イザヤによって記された、イスラエルの民がペルシア王キュロスによってバビロン捕囚から解放される前、紀元前550年前後のことと思われます。当時、バビロンに囚われていたユダの人たちは、バビロンの守護神マルドゥクの圧倒的な影響の下に行われていたバビロンの宗教儀礼、宗教的祭儀へと取り込まれてしまう大きな脅威にさらされていました。特に偶像崇拝は、囚われの民がバビロンで直面した信仰上の切実な問題でした。
 第二イザヤは、今日お読みした9節から17節、あるいはその先の20節にかけて、偶像そのものを批判するのではなく、偶像を作りだしそれを拝む人間を痛烈に皮肉って風刺しています。この部分はそうした皮肉や風刺を指して「嘲笑歌(嘲り笑う歌)」と呼ばれている所です。
 すなわち、偶像を作りだす者は無力で空しい。彼らは人間に過ぎず、弱い。そしてその作る物は人間の似姿に過ぎず、木材を用いてまず初めに偶像から作るのならまだしも、先に暖房用や調理用に使った残りの木材から作られた偶像を拝むというのだから、まことに無駄で愚かな行いであるということです。
 人は、自分を創造してくださった神さまを離れ、また自分を喜んでくださる知恵に応答して主を喜ぶことも忘れ、無力で役に立たない偶像を作っては拝み、拝んでは作り、遂には自分自身を神とするところまで来たわけですが、その罪に気づかず、たとえ気づいたとしても、もはやその罪を悔い改める術を知らないのです。

 けれども、ここにおいて、この地点で、第二イザヤは力強く預言するのです。「わたしをおいて神があろうか。岩があろうか」と。この先の21節以下では、「イスラエルよ、あなたがわたしに忘れられることはない。わたしはあなたを贖ったからだ」と-新共同訳ではニュアンスが少し違うのですが、とにかく-「わたしはあなたを忘れない」と神さまは語っておられます。
 イスラエルをエジプトから導き出したのも、いまやイスラエルの民をバビロン捕囚から解放しようとしているのも、バビロンで苦しみの内にある彼らにとっては彼らの神は隠れておられるのかも知れないけれども、その苦しみからの解放は、イスラエル自身の悔い改めとは全く関係なく、神さまご自身がなされることであるというわけです。
 あなたたちはその証人ではなかったか。ここに神さまの決定的な愛があります。私たちが悔い改めるよりも先に、神さまは私たちの罪を赦しておられた。私たちが悔い改めたから罪が赦されるというのではなく、私たちが悔い改めるよりも先に、神さまは私たちの罪を赦しておられるということです。この神さまの愛が私たちを悔い改めさせる、私たちを本当の悔い改めへと導くのではないでしょうか。神さまが私に、あなたに、私たちに抗議をしておられる、プロテストしておられるのは、このことを私たちに気づかせるためではなかったかと思うのです。

 ヨハネの黙示録の言葉は次のように続きます。「あなたはどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めの業を行いなさい」。私たちがこの初めの業を行う時、その時、「信じた者の群れは、心を一つにし、思いを一つにして、誰一人その持ち物を自分のものだと主張する者がなく、いっさいの物を共有していた」という初めの出来事が再び実現されるのです。宗教改革の恵みはここにあります。
 未来は確かに私たちを不安に陥れますが、「あなたがわたしに忘れられることはない」、「わたしはあなたを忘れない」との神さまの約束は、私たちを慰め、私たちに初めの業を為す勇気を与えてくださいます。祈りましょう。

 神さま、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で、何の差別もなく義とされるのです」との使徒パウロの励ましに感謝いたします。
 先週、それぞれの礼拝での奉仕のために再び訪れることのできた兵庫教区・但馬地区の竹野伝道所、豊岡教会、香住教会、そして浜坂教会の、信徒お一人、お二人で、多くとも十数人で、初めの業を主に導かれて心を尽くして、力を尽くして為し続けておられるお姿に、私自身あらためて励まされました。
 どこにあっても、私たちがあなたからの生きた言葉によって生かされている恵みを心から喜び、分かち合っていくことができますよう、お導きください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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