牧師メッセージ

11月15日(日)降誕前第6主日礼拝説教 「約 束」

更新日: 2020.11.27

降誕前第6主日(2020.11.15)礼拝説教     牧師 野田和人
申命記18章15~22節、使徒言行録3章11~26節

牧会祈祷
 慈しみに富み、憐れみ深い私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2020年、降誕前第6の主日礼拝に、私たち一人ひとりが、どの一人ひとりもあなたによって招かれてこの御堂に集い、あるいはリモートで、あるいは思いを合わせて、共に神さまの家族の礼拝をささげることのできる大きな恵みを心から感謝します。
 私たちはあなたの赦しを得て、主イエス・キリストにおいて告げ知らせることができます。「今ここに、新しい天と新しい地が実現しました。古い秩序は過ぎ去り、新しい創造が私たちの目の前にあります」と。
 神さま、私たちは新しい天と新しい地に憧れています。私たちは搾取と迫害、争いと分断、また感染症によって打ちのめされている人々の痛みを見ます。被造世界のうめきを聞きます。私たちをあなたの新しい創造の一部としてください。
 神さま、私たちは私たちの住んでいるこの地を愛しています。どうかこの地であなたがいつも私たちと共にいてください。
 神さま、私たちは愛する教会を見ます。教会は主の平和を証しし、主の福音の意味と力を告げ知らせるために力を注ぎます。教会がそのために用いられますように、神さま、この教会の中で、この教会の外で、私たちと共にいてください。
 私たちが信仰を失いそうになる時、現実に打ち負かされそうになる時も、互いに助け合い、あなたとの交わりの中で、あなたの造られたこの世界に生きる希望を失うことのないように、私たちをいつも守り導いてください。
 収穫の主、慈しみの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

説  教           「約  束」
 先週の「別れ」と題したお話の中で、後にアブラハム(多くの国民の父)との名を与えられるアブラムを例にとって次のようにお話ししました。「イスラエルにはその最も初めの試みにおいて欠けがあった、裏切りがあったことが(これはアブラムがエジプト人やファラオの家臣たちに対して、美しい妻のサライが奪われることのないように彼女を妹と偽ったことですが)ここで明らかにされています。にもかかわらず、主はその救いの御業を放り出されるようなことはなさらなかったのです」と。そして最後に新約聖書のガラテヤの信徒への手紙3章18節から引用しました。「神から相続財産のように与えられる恵みは、律法に由来するものではなく、約束に由来するものであり、神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです」と。
 私たちにとってこの恵みは、エジプトからカナン(現在のパレスチナ/イスラエル)へと戻ってきたアブラムと甥のロトとの「別れ」から長い時を経て繋がっているイエス・キリストという約束を通して与えられたわけですが、その間に、やはりエジプトを出て、紅海の北に位置するシナイ半島での40年に及ぶ荒れ野の旅を経て、イスラエルの民を約束の地カナンへと導いたモーセの存在、その役割を忘れることはできません。紀元前13世紀のことです。先ほどは「エジプトのイスラエルに」-”Go Down Moses“との勇ましい歌も歌いましたが、ペトロが聖霊降臨後、エルサレム神殿で初めて行った説教の中で引用した人物がモーセでした。

 「モーセは言いました。『あなたがたの神である主は、あなたがたの同胞の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。彼が語りかけることには、何でも聞き従え』」(使徒3:22)。この言葉のもとになっているのが、今日最初にお読みした申命記18章15節のモーセの言葉でした。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に-彼とはモーセ自身のことですが-聞き従わねばならない」。

 使徒言行録の記事は、ペトロがエルサレム神殿入り口の「美しの門」のそばに置かれていた、生まれながら足の不自由な男を癒したところから始まります。ペトロはその男を見て、「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立ち上がらせます。するとその男は、足やくるぶしがしっかりとしてきて立ち上がったのです。
 そして踊り歩くように神を賛美しながらペトロらと一緒に神殿の境内へと入っていくと、その男が「美しの門」のそばに置かれていたあの男だということに気づいた民衆は我を忘れるほどに驚き、彼らの回りに集まってきます。
 そこでペトロは言うのです。「なぜこのことに驚くのですか」、「なぜ、わたしたちを見つめるのですか」と。そこには、「あなたがたがこのことにこれほど驚いて私たちを見つめる必要は全くないでしょう。もしあなたたちがナザレの人、イエス・キリストの名を覚えてさえいれば。あなたたちの心の中にその名を刻んでさえいれば」との思いがあったのではないかと思うのです。
 そしてこの後、ペトロは彼ら民衆がイエスをローマ兵たちに引き渡し、ユダヤ総督ピラトによるイエス釈放の提案も拒んで人殺しのバラバを赦すよう要求し、命の導き手であるイエスを殺したことを、彼らの前で明らかにしていくのです。

 民衆はもう忘れていました。イエスさまがおられたことを。ペトロはその民衆の目を、目の前の男の癒しの奇跡に対する驚きから、その癒しを引き起こしたイエスさまの名の力へと、そしてそのイエスさまを殺した自分たちの罪と、そこからの悔い改めへと向けさせようとしています。「そもそもあなたがたは、あなたがたの神である主があなたがたの同胞の中から立てられた預言者の子孫、契約の子らではなかったのか」。そう語りかけながら、彼はイスラエルの同胞に自分たち本来の姿を思い起こさせようとしたのでした。「あなたがたは自分の足だけでこの所に立っていると思っているのか。あなたがたは、皆、救われてここに立っているのではなかったのか」と。

 申命記は、この救いが主の立てられた預言者から始まっていることを示しています。確かに、当時も今も、人がいかにして神さまの御心を知ることができるのかということは、たいへん難しい問題です。申命記は、今日お読みした箇所の直前の所で、易者や呪術師を例に出して、魔術や占いで神さまの御心を知ろうとする慣習的な方法、私たち人間の側から神さまの意思を知ろうとするあらゆる試みを否定し、「その口にわたしの言葉を授けた預言者が、わたしが命じることをすべて彼らに告げる」と、御心は神さまから知らされることを強調します。そのために召された預言者でした。
 そしてその言葉の正しさは、「語られた事柄が確かに起こり、実現することによって知られる」と語ります。しかしそうだとすると、その言葉が正しかったかどうかは結局あとになってからしか分からないのではないかと私たちは思ってしまいますが、ここでの強調点は、語られた言葉の正しさがいつ分かるのかという所にではなくて、預言者によって語られる言葉が、もっぱら私たちの創造主なる主なる神さまのみを礼拝することへと向かっているかどうかという所にあります。

 ここでモーセが告げる主の約束は、この申命記の文脈では終末に現れるメシアについての預言ではなく、モーセ以後いつの時代にも、例えばアモスやイザヤのように預言者が続いて現れるということを表していますが、新約の時代を生きる私たちにとっては、この箇所を、ただそれだけではなく、やはり将来私たちの前に終末的にただ一度到来する神さまと人との仲保者、仲介者としての預言者を約束する言葉、すなわち「メシア預言」と解釈することは可能です。ペトロも、また使徒言行録を著したルカもそのように理解したからこそ、イスラエルの民に彼ら本来の姿を思い起こさせようとしたときに、ここから引用したのでしょう。
 ペトロは語ります。「あなたがたはこれら預言者に連なる者、契約の子らではなかったのか。にもかかわらずあなたがたは悪へと陥った。しかしそのあなたがた一人ひとりをそこから立ち返らせて祝福するために、神はご自分の僕を立ててこの世へと遣わされたのだ。そのイエスをあなたがたは拒絶し、今、その罪さえも忘れ去ろうとしている。だから、神の救いの力を目の当たりにしながら、語られた言葉の実現を目の前にしてなお、その意味も分からず慌てふためき、ただただ驚くようなことになるのだ」と。
 私たちはどうでしょうか。忘れ去ってはいないでしょうか。

 イスラエルの民も、出エジプトという神さまの救いに続く40年に亘る荒れ野の旅の途中、似たような体験をすでにしていました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった」とまで語ったのですから。
 何度かお話ししましたが、かつての西ドイツの元大統領で、ドイツ福音主義教会の評議員でもあったヴァイツゼッカー氏が、ドイツの敗戦40年に当たって1985年5月8日に連邦議会で行った演説の題目が「荒れ野の40年」というものでした。当時、多くの人々の共感と感動を呼び起こした演説です。その最後の部分を少し長いですがあらためてお読みします。
 「人間の一生、民族の運命にあって、四十年の歳月は大きな役割を果たしています。ここで改めて旧約聖書を開くことをお許し願いたい。信仰の如何に関わりなく、あらゆる人間に深い洞察を与えてくれるのが旧約聖書であり、ここでは『四十年』が繰り返し本質的な役割を演じています。古代イスラエルの民は、約束の地に入って新しい歴史の段階を迎えるまでの四十年間、荒れ野に留まっていなくてはなりませんでした(出エジプト記、民数記)。当時責任ある立場にいた父たちの世代が完全に交替するまでに四十年が必要だったのです。しかし、ほかのところ(士師記)には、かつて身に受けた助け、救いは往々にして四十年の間しか心に刻んでおけなかった、と記されています。心に刻んでおくことがなくなったとき、太平は終わりを告げたのです。ですから、『四十年』というのは常に大きな転換を意味しています。暗い時代が終わり、新しく明るい未来への見通しが開かれるのか、あるいは忘れることの危険、その結果に対する警告であるのかは別として、四十年の歳月は人間の意識に重大な影響を及ぼします。私たちのもとでは新しい世代が政治の責任を取れるだけに成長してきました。かつて起こったことへの責任は若い人たちにはありません。しかし、歴史の中でそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります。私たち年長者は若者に対し、夢を実現する義務は負っていません。私たちの義務は率直さです。心に刻み続けることがきわめて重要なのはなぜか、このことを若い人々が理解できるよう手助けしなくてはならないのです。ユートピア的な救済論に逃避したり、道徳的に傲岸不遜になったりすることなく、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめることができるよう、若い人々の助力をしたいと考えます。人間は何をしかねないのか。これを私たちは自らの歴史から学びます。ですから、私たちは今や別種の、よりよい人間になったなどと思い上がってはなりません。道徳に究極の完成はあり得ません。いかなる人間にとっても、また、いかなる土地においてもそうです。私たちは人間として学んできました。これからも人間として危険にさらされ続けるでしょう。しかし、私たちにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力が備わっているのです」。

 第二次大戦終結から40年の1985年の言葉です。そしてそこから35年を経た今も、私たちは人間として危険にさらされ続けていると言えるでしょう。けれどもそこで「私たちにはこうした危険を繰り返し乗り越えていくだけの力が備わっている」と言うときの「力」とは、歴史の真実を冷静かつ公平に見つめるところから出てくる力、その真実を心に刻み続けるところから出てくる力にほかなりません。
 エルサレム神殿でのペトロの説教は、危機的な状況、切迫した状況の中にあっても、出エジプトの出来事を通して荒れ野の民がかつて身に受けた神さまの救いへと立ち返ること、主イエス・キリストの出来事を通して、ペトロの前で彼の語る言葉に耳を傾けている者すべてが、そして私たちが、救われて今を生かされているという現実に立ち返ることこそが、この力の現れであるということ、歴史の真実を心に刻み続けるところから出てくる力の現れであるということを私たちに明らかにしてくれています。
 この力を通して、私たちはモーセと共に、ペトロと共に、今この身に受けている救いを、その真実を証言する者としてこの世界へと押し出されています。
 主の約束に信頼して祈りましょう。

 神さま、あなたが私たちの闇の中にもたらしてくださった灯を、どうか明るく輝かさせてください。そのために用いられてきた、愛する神戸栄光教会に連なるお一人おひとりと共に、教会創立以来134年の間になされた主の御業に私たちが心を留め、その御業を心に刻みつつ、歴史の真実である主の平和の証を私たちが引き継いでいくことができますよう、私たちを力づけてください。主の御名によって祈ります。アーメン。

page top