12月6日(日)待降節第2主日礼拝説教 「執り成し人」
更新日: 2020.12.09
待降節第2主日(2020.12.6)礼拝説教 牧師 野田和人
イザヤ書59章12~20節、ローマの信徒への手紙16章25~27節
牧会祈祷
慈しみと憐れみの主、慰めと希望の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2020年待降節第2の主日を迎えた今日、世界中の主の民とされた友が様々な形で御前に集い、この礼拝をささげることのできる大きな恵みを心から感謝いたします。
アドヴェント・クランツには二つ目の明かりが灯りました。この灯が、他でもない私のために祈ってくださっている人がいることを伝えてくれる明かりであることを覚えることができますように。そしてこのイエスさまの光に導かれて、イエスさまの光と共に、私の内から外へと一歩を踏み出していくことが出来ますように。働き人のために祈り、支えていくことが出来ますよう、私たち一人ひとりを導いてください。
主はその正義を携えて、差別、迫害、暴力の闇の中にいる私たちの所へ来てくださいます。主は恵みを携えて、貧しさ、飢え、不公正の闇の中にいる私たちの所へ来てくださいます。主は希望を携えて、恐れ、不安、孤独の闇の中にいる私たちの所へ来てくださいます。
私たちはこの主の来られるのを待ち望んでいます。この主の光を大胆に携えて、私たちが私たちの内から外へと一歩を踏み出していくことが出来ますよう、私たち一人ひとりを導いてください。
今、悲しみの中にある者には、あなたの慰めと平安を、喜びのうちにある者には、落ち着きと謙遜を、そして私たちの国の将来と世界の民の将来に、主の平和を生きる希望を与えてください。
飼い葉桶の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
説 教 「執り成し人」
今日最初にお読みしたイザヤ書59章14節ですが、新しい聖書協会共同訳では次のように記されています。聖書協会共同訳では、新共同訳の「正義」が「公正」(公-おおやけに正しいの「公正」)に、「恵みの業」が「正義」と訳出されていて、「公正は後ろに退けられ、正義は遠くかなたに立つ。真実は広場でつまずき、正しいことは入ることができない。」とあります。
今日お読みした直前の9節(a)や11節(b)にも同じような言葉が記されています。「公正は私たちから遠く、正義は私たちに届かない」。「私たちは公正を待ち望むが、それは来ない。救いを望むが、私たちからは遠い」。
公正、正義、真実、救いは私たちから遠く、私たちに届かない。
これらは紀元前6世紀末、バビロン捕囚から解き放たれ、エルサレムへの帰還を果たし、喜びのうちにあるはずのイスラエルの民らの嘆きを表した言葉です。エルサレム帰還からすでに20数年が経ち、彼らイスラエルの民が、破壊され尽くしたエルサレム神殿の代わりにやっとの思いでエルサレム第2神殿を再建した頃ですから、宗教的にも、精神的にも、また経済的にも落ち着いた日常生活を取り戻していたはずですが、そうではなかったということです。
公正、正義、真実、救いは私たちから遠く、私たちに届かない。
エルサレムに戻ったとはいえ、人々はそこで経済的な、あるいは政治的な様々な対立に巻き込まれて、なお労苦しなくてはなりませんでした。そして、彼らの精神的な支柱となるべきエルサレム第2神殿にしても、その神殿を中心としてダビデ王朝を復興するという試みが失敗したことで、彼らは深い失望感を味わっていました。預言されていたメシア王国、新たな救いの時代は、結局来ることはありませんでした。そればかりか、今や公の場でさえも、真実は通用せず、正しさも受け入れられなくなっていました。
そこで人々は、自分たちがこのように堕落し、回りには不正がはびこっているという救いのない状態にある原因を、またしても自分たちの主なる神さまに帰そうとしたのでした。
イザヤ書59章1節の言葉を見てみましょう。「見よ、主の手が短くて救えないのではない。その耳が鈍くて、遠くて聞こえないのでもない」。この言葉は、エルサレムに帰還した人々が、自分たちの不幸な現状について、手の短い神、耳が鈍くて遠い自分たちの主なる神のせいにしていたからこその、預言者による彼らへの叱責、戒めの言葉です。
これは、この時代から二千数百年が経ち、なおも互いの間で様々なレベルでの争いを繰り広げ、より快適な生活を求め続けて人類に恵みとして与えられた自然を犠牲にしてきたことで、生活の根本からの改善、改革を否応なく迫られている現代の私たちの思いと重なるところがあるのではないでしょうか。
公正、正義、真実、救いが私たちから遠く、私たちに届かないことを、私たちも私たち以外の誰かのせいにしようとしていないでしょうか。
しかし預言者はそうは考えませんでした。「見よ、主の手が短くて救えないのではない。その耳が鈍くて、遠くて聞こえないのでもない」。「ただ、あなたがたの過ちが神とあなたがたとを隔て、あなたがたの罪が御顔を隠し、聞こえないようにしている」(イザヤ59:2)。預言者はこう考えました。
救いを妨げている原因は主にあるのではなく、自分たちの過ちと罪を棚に上げて、自分たちの神に不平や不満ばかりをぶつける民そのものにあるということです。そして、預言者によるこの容赦のない過ちと罪の指摘を受けて、人々の嘆きが、預言者と共に嘆く、民の心底からの嘆きが始まります。「公正は私たちから遠く、正義は私たちに届かない」。まことに茫然自失。神さまの憐れみは尽きず、神さまの恵みも無限とは言え、もはや私たちには届かない、と言うのです。今さらのように悔やんでも、光は遠く、闇は濃い。救いは遠い。
二千年前に主イエスが地上に遣わされたことをよく知っているはずのキリスト教国も巻き込んでの、止まることのない報復合戦、報復の連鎖、分断、排除、差別などが現代の私たちの闇をますます深めていることを思う時、私たちもユダヤの民と共に嘆かざるを得なのではないでしょうか。「救いを望むが、私たちからは遠い」と。
3週間前のお話の時、「3週間前」と言われても、もう覚えておられないかと思いますが、とにかくその時、西ドイツの元大統領ヴァイツゼッカー氏の、ドイツ敗戦40年に当たっての「荒れ野の40年」と題する演説を紹介しましたが、その中に次のようにありました。「かつて起こったことへの責任は若い人たちにはありません。しかし、歴史の中でそうした出来事から生じてきたことに対しては責任があります」。
私たちは、私たちが互いに他を、互いに他者を顧みなければならないことについて、あまりにも無頓着すぎたのではないでしょうか。そこで、そのような私たちがユダヤの民と共に注目すべきは、今日お読みしたイザヤ書の最初の言葉、12節の「罪の告白」にあると思うのです。
「御前に、わたしたちの背きの罪は重く、わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり、わたしたちは自分の咎を知っている。主に対して偽り背き…」。この「御前に」という所、「主に対して偽り背き」という所に、この罪の告白の真剣さがあります。
詩編51編、悔い改めの詩編と呼ばれている詩編51編の5節、6節を思い起こします。「あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました」。
神さまから、救いから最も遠いと思われる時、こうした「罪の告白」は本当に大切です。イザヤ書の12節は今日の教会学校の合同礼拝の中でも取り上げられていました。イエスさまは私たちに主の平和の現実を与えてくださったわけですが、その平和の実現からは程遠いと思われる現在、このような真剣な罪の告白こそが、心から主の執り成しを求める姿勢こそが、まず求められているのではないでしょうか。
けれども、この告白に対する主なる神さまの応答は、次のような言葉でした。「主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた」(16節)。罪、咎を執り成す人がひとりもいないというのです。まことに悲劇的な状況です。
実は、この時代、第三イザヤが活動した時代よりも百年ほど前に活動していた預言者エレミヤも、この地上に正しい者、善を行う者は一人もいないということは何度も語っていました。「身分の低い者から高い者に至るまで皆、利をむさぼり、預言者から祭司に至るまで皆、欺く」(エレミヤ6:13)。そしてこのような見方は、詩編の詩人によっても受け継がれていました。「神を知らぬ者は心に言う。『神などない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」(詩編14:1~3)。
しかし、このように執り成し人がひとりもいないという絶望的な地点において、神さまがただお一人で、その御腕を通して、私たちの歴史に、私たちの日常の営みに介入して来られるのです。旧約聖書のダニエル書には、次のようにあります。「一時期、二時期、そして半時期たって、聖なる民の力が全く打ち砕かれると、これらの事はすべて成就する」(ダニエル12:7)。
「聖なる民の力が全く打ち砕かれると、主の正義が成就する」と言うのです。それは、その時初めて、私たちの真剣な罪の告白の前で、主がシオンを回復する者、エルサレムを贖う者として来られ、そこに住むヤコブの子孫である民の中から、神さまに罪を悔いる者を救われるからです。
そしてこの計画は、人類を救う、神さまの「秘められた計画」(ローマ16:25)は、使徒パウロによれば、「秘められた」というわけですから、「代々にわたって隠されていたもの」(同)でしたが、「今や現された」(同16:26)、主イエス・キリストを通して初めて明らかにされたのだということを、彼は、私たちが今教会の「聖書の集い」で学んでいる「ローマの信徒への手紙」の最初から最後の頌栄に至るまで証し続けたのでした。
そうです。神さまのあの手と耳は、人となられた御子イエスさまに現れたのです。
世界は神さまの沈黙の中に置かれてきました。神は黙しておられました。確かに数多くの預言者たちを通して神さまは語られましたが、その中で福音を宣べ伝える者はだれ一人現れませんでした。遂にナザレのイエスが現れて福音を語ったわけですが、そのイエスさまでさえも、十字架の上では神さまの深刻な沈黙を経験するという苦しみを味わわれました。けれども、そこで示された主イエスの従順さによって、ヤコブの子孫だけでなく、私たち異邦人も救われたのです。私たちはこの事実にいつも立ち返る必要があります。
クリスマスの奇跡は、この神の子イエス・キリストが私たちのこの貧しい肉の体をとって、執り成し人となって、どこまでも届く手、私たちのかすかな声も聞き分けてくださる耳となって、この世に現れてくださったところにあります。これがクリスマスの奇跡です。
そしてそのことによって、数々の罪やあらゆる咎にもかかわらず、私の存在すべてが主イエスによって担われ、贖われて神さまに受け入れられるものとなりました。これが、今私たちが待ち望んでいるクリスマスの使信です。
私たちには、この主によって私たちに与えられた神さまとの和解を、この地上のすべての民の和解へと世代を通して繋げていく責任があること、そこで争いや疑心暗鬼の中にある人々の執り成し人となる責任があることを、この2020年のアドヴェントの時、あらためて覚えたいと心から願います。
祈りましょう。
神さま、アドヴェント第2主日の恵みを感謝します。この世界のあわただしい状況の中で、心や体、生活に不安を覚える私たちを顧みてください。そのあたなの眼差しの中で、私たちが今日を生かされている恵みを覚え、その恵みと共に、その恵みに向けて歩みだすことができますよう、私たちに力を与え、導いてください。
主の御名によって祈ります。アーメン。