12月13日(日)待降節第3主日礼拝説教「預言者以上」
更新日: 2020.12.17
待降節第3主日(2020.12.13)礼拝説教 牧師 野田和人
士師記13章2~14節、マタイによる福音書11章2~19節
牧会祈祷
慈しみと憐れみに満ちたもう、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2020年のアドヴェント第3主日にあって、あなたの御子の再び来られるのを待ち望む主の民一人ひとりと共に、感染の勢いの衰えることのないパンデミックをはじめとする様々な困難の中にあっても、様々な仕方で、全世界の民がこの主の日の礼拝をささげることのできる大きな恵みと祝福を心から感謝いたします。
それぞれの場で共に祈りをあわせてくださっているお一人おひとりともあなたが共にいてくださって、溢れる祝福を与えてくださいますように。
アドヴェント・クランツには三つ目の明かりが灯されました。多くの人は預言者の語る神さまの言葉を受け取ろうとしませんでしたが、この明かりに導かれて聴いて信じ、神さまの言葉によって生かされた人たちがありました。あなたの言葉は、神さまの言葉を何とかして伝えようとした働き人たちによって時代を超えて語り継がれ、今、私たちにまで届けられています。
あなたの言葉は、私たちがあなたへと立ち返ることを、あなたがいつも待っていてくださることを私たちに告げています。また、罪の私たちを、義であるあなたに執り成してくださるイエスさまがこの世界に与えられることを告げています。そして、希望がないように見える場所にこそ、そう、飼い葉桶の中にこそ、あなたが希望を与えてくださることを告げています。
どうか私たちを、人間をとる、人間を生かす、あなたの言葉を聴いて信じる者としてください。私たちすべてが、あなたの言葉を通してあなたへと立ち返る中であなたの平和が与えられることを待ち望みつつ、この待降節の時を歩ませてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
説 教 「預言者以上」
今日後からお読みしたマタイによる福音書の4章後半で、シモンとアンデレ、ペトロと呼ばれるシモンとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネ、それぞれの兄弟をご自身の弟子とされるイエスさまの宣教活動は、イエスさまが「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」(マタイ4:12)時から始まりました。その前にイエスさまは当のヨハネから洗礼を受けておられますが、その時ヨハネはイエスさまに向かって次のように語りました。「わたしこそあなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と。
ところが、そのヨハネが、今日お読みした所によれば、今自分が捕らえられている牢から自分の弟子たちをイエスさまの所へ送ってイエスさまに尋ねさせているのです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と。これはやはりおかしいですよね。イエスさまの証人たるべき人物が、当のイエスさまについて疑問を抱くわけですから。
ただこうした場面、あのヨハネが事もあろうにイエスさまを疑っているという場面、後の教会の宣教にとってはたいへん不利となるような証言がそのまま残されたというところに、この証言の真正性、真実味もあるのですが、果たしてヨハネはここで本当に、イエスさまが「来るべき方」であるという確信が持てずにためらったのでしょうか。
それとも、自分の想像していた「来るべき方」とは違うけれども-というのも、彼はこの福音書の3章12節ではこんな風に語っていたのです。「その方は手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」-自分の想像していた、このように厳しい「来るべき方」とは違うけれども、イエスさまの癒しの奇跡の知らせを聞いた今は、メシアはこのような仕方で、イエスさまがこの後で答えられたような仕方で、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き…」といった仕方で来るのかもしれないということに、ヨハネは思い至ったのでしょうか。
ここでは私たちも少なからず当惑するところですが、この後、ヨハネの弟子たちの報告や、それに対するヨハネの反応についてはこの福音書に何も記されていないところから分かってくることは、ここで福音書記者マタイが初めの教会の人たちに、また私たちに伝えたいことは、ヨハネの逡巡ではなく、このヨハネの質問に対するイエスさまの反応、その答えそのものにあったのだろうということです。
今日お読みした箇所は、12弟子の派遣の後、バプテスマのヨハネとイエスさまとの関係を明らかにして、このヨハネを境にメシアの時代が始まったことを告げる大切な箇所であると同時に、福音書の12章以降に記されているユダヤ教の指導者たち、ファリサイ派や祭司たち、ユダヤ教指導者層とイエスさまとの対立の布石となっている所です。
イエスさまの宣教活動の開始は、初めにお話ししましたようにヨハネの逮捕以後でしたから、ヨハネは獄中でその活動について聞いたことになります。この後の14章に記されていますが、ヨハネは当時、彼と同時代のガリラヤの領主、ヘロデ・アンティパスの不法な再婚を批判して、死海東岸の山頂にあったマケルス要塞に幽閉されていましたから、彼が彼の弟子たちから実際にイエスさまについての話を聞くことが出来たのかどうかは分かりませんが、とにかく、ヨハネからの質問に対してイエスさまが聖書を引用しながら-ここで「聖書」というのは、私たちにとっての旧約聖書のことですがーイエスさまが聖書を引用しながら、ご自身がそこに記されている預言を成就した者であることを告げるという形で、当時の、初めの教会の人たちがイエスさまについてどのように理解していたのか、彼らのイエス理解について記しているのがこの箇所であると考えられます。
「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」。ここで「見聞きしていること」とは、イエスさまが旧約聖書のイザヤ書35章(5-6節)と61章(1節)から引用された言葉です。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。
ここではこのうち特に最後に言われている「聞くこと」、「貧しい人は福音を告げ知らされている」こと、イエスさまがまず貧しい人に喜ばしい知らせをもたらされたことが強調されています。そしてこれは、この福音書の5章~7章、イエスさまの「山上の説教」において示された「言葉のメシア」としてのイエスさまの語られる福音が、8章~9章で示された「行いのメシア」としてのイエスさまのなされた癒しの奇跡において実現したという展開に合致するものです。
そしてこの展開は、イエスさまによってなされた癒しの業-奇跡は、イエスさまが天の国の福音をこの地上にもたらされるメシア、キリストであることの、あくまでも「しるし」に過ぎないということを私たちにも知らせるものです。奇跡は、それ自体が目的ではないということです。イエスさまの宣べ伝える福音とその「しるし」としての業を通して、ヨハネらは、また初めの教会の人たちは、神の国の支配がこのイエスさまにおいて始まったことを、イエスさまがまさに約束のメシアであることを告げ知らされたのでした。
「来るべき方は、あなたでしょうか」-「あなたが来るべきメシアなのか」というヨハネの質問に対するイエスさまの答えは、「そうだ。私がそうだ」という直接的なものではなく、このように間接的なものでしたが、これを聞く者にとってはそのこと、イエスさまが来るべきメシアであるのかどうかを判断するための適切な材料が、イエスさまの答えを通して与えられたと言うことができるでしょう。
イエスさまに「つまずく」ことも含めて、決断はイエスさまの言葉を聞く者に委ねられました。先程もお話ししましたように、ここにはヨハネの反応は記されていませんから、「来るべき方はあなたなのか、それともほかの方を待たなければならないのか」、その決断はイエスさまの言葉を聞く私たちに委ねられました。そして私たちは「来るべきイエスさま」に賭けたのではなかったでしょうか。
神さまがイエスさまにおいて、またイエスさまを通して新しい時代を始められたということは、この私にとって、あなたにとって大きな意味があったということです。そしてそのことが、神さまがイエスさまを通して新しい時代を始められたということが私たちにとって大きな意味があったということが、イエスさまによるヨハネへの人物評価を通してこの後に示されるのです。
イエスさまは「風にそよぐ葦」という言い方で、ヘロデ・アンティパスを揶揄しながら、それとは対照的にヨハネについては「預言者以上」という高い評価を与えられました。それは彼こそ、旧約聖書最後の預言書であるマラキ書3章1節にある預言を成就する、終わりの時の使者であるということです。「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える」。
イエスさまは、あるいは福音書記者マタイは、この言葉を今日の10節「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」というように理解し、したがってこの使者こそが神さまの代理人としてのメシア到来の準備をすることを告げ、その意味で、彼ヨハネは、現れるはずの戻ってきたエリヤであると語ったのです。マラキ書3章23節には次のようにあります。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」。もしヨハネがエリヤであるとすれば、聞く耳を持つ者にとっては、まさにイエスさまこそ約束のメシアであるということです。
ところが、このエリヤであるヨハネをもってしても、「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」と語られるのです。これは文字通りの意味というよりも、来るべき神の国、神さまの支配の下においては、イエスさまを信じる、イエスさまに信頼する、イエスさまに賭ける小さな群れは、バプテスマのヨハネのような重要な証人と同じ位置を占めるということではないかと思います。そう、イエスさまに賭ける小さな群れも預言者以上なのです。
私たちの教会標語が響いて来ます。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)。この言葉が響いて来ます。最も小さい者の一人であるこの私に主が為してくださった。そしてその私が、主が為してくださったことに応えていくことができるように、主が私の手を引いて行ってくださる。ここに、神さまがイエスさまにおいて、またイエスさまを通して新しい時代を始められたことの意味があります。
今日の礼拝テーマは「先駆者」です。最初にお読みした旧約聖書、士師記(13:5)で「彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう」と告げられた、力の象徴としての最後の士師サムソン。「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、…準備のできた民を主のために用意する」(ルカ1:17)と告げられたバプテスマのヨハネ。両者とも非業の死を遂げましたが、彼らの受胎告知、子を産んだことのない女に対する「あなたは身ごもって男の子を産む」との、主の御使いによる彼らの受胎告知も共通でした。そしてそれはマリアに対してもそうでした。
そう、サムソンの母となるマノアの妻や、ヨハネの母となるエリサベトもマリアの先駆者となったのです。そして彼女たちと同じように恐れと不安を抱いたまま、しかしマリアは「わたしは主のはしためです」(ルカ1:38)と告白しました。これは、「私は神さまのものです」ということです。この小さな信仰が「お言葉どおり、この身に成りますように」(同)とマリアに語らせ、主の到来を導きました。
主は来られ、この小さな者を生かすためにその身のすべてを献げ尽くされました。私たちは赦され、生かされました。このことに聞く耳を持つ者にとって、イエスさまはまさに約束のメシアでした。
「わたしにつまずかない人は幸いである」との今日の6節の言葉は、この主に信頼を寄せる者にとっては本当に味わい深い招きの言葉ではないでしょうか。「わたしにつまずかない人は幸いである」。
祈りましょう。
神さま、私たちは神さま、あなたのものです。ですから、その私たちを用いて、お言葉どおり、この世の力によるのではないあなたの平和を、この世界に行き渡らせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。