12月20日(日)待降節第4主日 クリスマス礼拝説教「主は救い」
更新日: 2020.12.24
待降節第4主日・降誕祭/クリスマス(2020.12.20)礼拝説教 牧師 野田和人
イザヤ書7章10~14節、マタイによる福音書1章18~23節
牧会祈祷
憐れみ深く、慈しみに富み給う、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、今召し出されてこの場に集う者も、また新型コロナウイルス感染症への対策をはじめとする様々な事情や困難の中で、この場に集うことの叶わない者も、私たちすべてが今日の待降節第4主日礼拝/クリスマス礼拝へと招かれている恵みを心から感謝し、御名をほめたたえます。
神さま、あなたがこの地上へと遣わしてくださった主イエス・キリストのゆえに、その限りない慈愛によって、あなたに敵対する私たちの罪を赦し、私たちを「目には目を、歯には歯を」の傲りと力の支配から解放してください。
私たちの命を蝕むすべてのものから私たちを掬い上げ、死と闇の支配から私たちを解放してください。
私たちの頑なな目を開かせ、私たちすべてがあなたの愛と平和の光の中で生かされていることを私たちに悟らせてください。
御子イエス・キリストを通して私たちに与えられた永遠のいのちによって、私たちが新しく生かされ、回復されたあなたの創造の秩序の中であなたに仕える者となることができますよう、私たちの日々の営みを整えさせてください。
今日のこの恵みを私たちがすべての人々と分かち合うことが出来ますよう、私たちを必要としている方々のところへと遣わしてください。
この礼拝へと招かれ、自分自身をあなたに明け渡しているお一人おひとりの祈りとあわせて、この祈りを私の飼い葉桶の主イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。 アーメン。
説 教 「主は救い」
私たちが今あらためて迎えようとしているクリスマスは、私たちの間に、私とあなたの間に、私の内に、福音書記者ヨハネによれば、それはすなわち、この世界の敵意の真っただ中に一人の赤ん坊が宿られたことを表しています。
どのように宿られたのでしょうか。それは、その赤ん坊が私のこの貧しい肉の体をとって、執り成す者となってこの世界に現れてくださったということです。そのことによって、私のあらゆる罪や咎にもかかわらず、それとともに、困難や不安、試練の中にある私の存在すべてが、その男の子によって担われ、贖われて、主なる神さまに受け入れられたのです。あれほどまでに遠いと思われていた、あれほど離れていると思われていた主は近い。羊飼いたちのように、この恵みを自分の肌で感じ、この恵みに応えていく決意を新たにする機会が私たちに与えられました。それがクリスマスです。
人間的な栄光とは全く反対の極にある、くすんだ飼い葉桶の中に寝かされた幼子イエスさまと相まみえることで、人間的なつまずきを越えて、この主の本当に近い、主の近き恵みに応えていく-例えば「隣人を自分のように愛する」という機会が私たちに与えられたということです。
私たちはこの恵みに本当に応えていくことが出来るのでしょうか。聖書は、それが私たちにも出来ることを、私たちがこの恵みに応えていくことが出来ることを、生まれてくる男の子の名前を私たちに知らせることを通して示しています。
その名は「インマヌエル-神、我らと共にいます」です。
このインマヌエル預言は、イエスさまが生まれる700年以上も前にすでに語られていました。それが今日初めにお読みしたイザヤ書7章です。
時代は紀元前735年、シリア・エフライム戦争の直前です。シリアというのは現在のシリアで、シリア南部、首都も現在と同じダマスコ。エフライムは、サマリアを首都とする当時の北イスラエル王国のことです。これらの国は北に位置する強大なアッシリア帝国の侵略に対して、当時預言者イザヤが活動していた南ユダ王国と共に反アッシリア同盟を結んで対抗しようとしましたが、ユダ王国のアハズ王は、逆にアッシリアの巧妙な外交的駆け引きに乗ってアッシリアに援助を求めたことで、ユダ王国はアッシリアの属国とはなっても、国は滅びませんでした。
シリアとエフライムは結局アッシリアに滅ぼされるのですが、その前にユダ王国に攻め入ろうとしていた時期がイザヤ書7章のところです。イザヤは、今日お読みした少し前の箇所で「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」(イザヤ7:4)と、神さまの言葉を取り次ぎます。
イザヤがアハズ王にこのように勧告する時に一緒に連れて行った彼の息子の名前が象徴的です。シェアル・ヤシェブ-「残りの者は帰ってくる」という意味ですが、イザヤはまさに、信じる者は残され、破滅の後に戻ってくるという神さまの裁きと約束を語っていたのでした。それが今日お読みした直前の7章9節「信じなければ、あなたがたは確かにされない」というイザヤの主張と結びつきます。それでもなおアッシリアに救いを求めようとするアハズに、イザヤは再び決断を促します。「あなたの神、主からしるしを求めよ」と。
ところが、アハズはその勧めも断るのです。その理由は「わたしは主を試すようなことはしない」というものでした。旧約聖書の申命記(6:16)に記されている「あなたたちの神、主を試してはならない」との教えに沿った、一見敬虔な態度に見えますが、現実は、アハズは自分の国も主なる神さまをも裏切ろうとしているわけですから、この言葉には彼の偽善性や不信仰が表されていると言っていいでしょう。というのも、御言葉に従うことを、神を試みるとは言わないからです。
そこで、どうしても主なる神さまからのしるしを求めようとしないアハズに対して、主の方からしるしを与えられます。ここで主ご自身が働かれます。それが14節のインマヌエル預言です。
「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。インマヌエルという名の男の子が一人の若い女性から生まれるということ、これがしるしでした。しかしアハズは結局しるしを求めることはありませんでした。そして、神さまに信頼しない者にとっては滅びであり、神さまに信頼する者にとっては救いであるインマヌエルが誕生しました。
インマヌエル預言は、シリア・エフライム戦争を控えて動揺していた南ユダ王国という、たいへん具体的な状況の中で語られました。ですから、この聖書の、旧約聖書の文脈の中では、まだ議論はありますけれども、インマヌエルはアハズ王の息子ヒゼキヤであると言われています。旧約聖書、列王記下(18:5,7)に記されているヒゼキヤの評価は次のようなものです。「彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった。…主は彼と共におられた」。
また、イザヤ書9章に記されているメシア預言、「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」とのメシア預言も、ヒゼキヤ王の即位の時に語られたものだと言われています。そしてこれがユダヤ教の伝統的な解釈でもあるわけです。
けれども私たちキリスト者にとっては、聖書は旧約聖書で完結しているわけではありませんから、インマヌエル預言やメシア預言を、王に対する一つのモデル、ユダヤ人の王、諸国民のメシア、ナザレのイエスと理解することは十分に可能です。時代的制約の中で解釈すると同時に、福音書記者マタイのようにも解釈することが私たちの信仰を生きたものとしてくれるからです。
2000年前、アッシリアではなく、今度はローマの圧政下にあったイエスさまの時代の民衆たちも、おそらくはかつてのユダ王国の民らと同じような思いでイザヤの預言に聴きながら、救い主の誕生を待ち望んでいたのではないでしょうか。
「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」。
私たちのために生まれたこのひとりのみどりごの名がインマヌエル-神、我らと共にいます-であり、その名を担うことが出来るのは、イエス・キリストただお一人であるということ、イエス・インマヌエルただお一人であるということです。
今日後からお読みしたマタイによる福音書21節には「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」とありました。「イエス」とは、「主は救い」という意味ですが、昨日収録をした今年のクリスマス・イヴ賛美礼拝/”Eve on line 2020“でのメッセージの中では次のようにお話ししました。「ヨセフとマリアはその子に古いユダヤの名前を付けました。イエスです。この名前は『助けは神からのみ来る。そして私たちは神のもの』という意味です」と。そう、「助けは神さまからのみ来る。そして私たちは神さまのもの」なのです。だから、イエス・インマヌエルなのです。
アドヴェントはこのキリストの到来という意味ですが、そこには、2000年前に一度来られたこと、最期の勝利の時に再び来られること、そして霊において今来られていること、という三つの意味があります。かつて来られ、最期の勝利の時に再び来られ、今、霊において来ておられるという三つです。したがって、過去を思い起こすことだけではなくて、将来の再臨、そして現臨をも覚えつつ、特に今ここで、私の心に中に、あなたの心の中に、インマヌエルというお方を迎え入れるための備えをする、そのためにこのアドヴェントの時があります。
今大切なことは、くすんだ飼い葉桶の中のこのみどりごに、私たちがぜひとも出会いたい、どうしても出会いたいと心から真剣に願うことではないでしょうか。私たちは本当にそう望んでいるでしょうか。くすんだ飼い葉桶の中のこのみどりごに、どうしても出会いたい、ぜひとも出会いたいと私たちが心から真剣に願うこと、それが今本当に大切なことではないでしょうか。
というのも、その出会いが、そこでのイエス・インマヌエルという方との出会いが、私たちがこの主の本当に近い、主の近き恵みに応えていくための原動力となるからです。
祈りましょう。
神さま、この恵まれた礼拝の時を感謝します。
クリスマスを待ち望みながら、私たちの回りでも、本当に様々な事情で共に礼拝を守ることのできない方々が多くおられますし、世界を見れば、平和を待ち望みながら、様々な困難の中で礼拝の喜びに与ることのできない多くの方々、私たちの造り主、主なる神さまに賛美をささげることのできない多くの方々がおられることを覚えます。
お一人おひとりの安心と平和を願う思いが、あなたのお支えとお力添えを得て確かにされ、荒れ野に道が備えられますようお導きください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。