牧師メッセージ

1月1日(金)2021年元旦礼拝説教「新しい革袋」

更新日: 2021.01.06

2021年元旦(2021.1.1)礼拝説教「新しい革袋」     牧師 野田和人
イザヤ書61章1~4節、マタイによる福音書9章14~17節

 明けましておめでとうございます。主の年2021年に、今皆さんと共にこの場にある恵みに心より感謝いたします。
 私たちは毎年クリスマス/降誕祭を迎える度に思い起こします。毎年、クリスマスを迎える度に、主イエスが、飼い葉桶から十字架に至るまで、ご自分の肉の体を通して私たちに示してくださった最も小さい者たちへの眼差しと、そこで、主が最も小さい者たちへ眼差しを向けられる、そのところで徹底して仕えられたことを、思い起こします。
 そしてその恵みを、文明の豊かさや快適さを求める-そうした思いを「偶像」と言い表してもいいかと思いますが-現代文明の豊かさや快適さを求める様々な偶像でいっぱいの私の心を空っぽにして、ただ受け入れていくことを通して、主イエスがもたらしてくださった新しさに向けて私たちは再び歩み始めるのだということを、私たちは毎年のクリスマスの度に確認するのです。

 そのイエスさまのもたらされた新しさとは、今日後からお読みしたマタイによる福音書の箇所で言えば、断食をしないということです。お読みした直前の段落で言えば、当時、イエスさまの時代のユダヤ社会においてはアウト・カースト-被差別集団の中でも最も低い位置に置かれていた徴税人や罪人と呼ばれる人たちと一緒に食事をするということです。
 彼ら徴税人や罪人たちは、当時のユダヤ社会の根幹をなしていた律法に従った生活をしていなかった人々でした。律法に従った生活をしていなかった彼らと接触することは、接触した自分の中に穢れを受け入れることを意味しますから、律法に忠実であろうとする宗教的な指導者層の一つであるファリサイ派の人々や、あのバプテスマのヨハネにとってさえも、律法に従った生活をしていない彼らと交わることは到底考えられないことでした。穢れていては「神の国」に入ることは出来ないからです。
 断食もその延長線上にありました。断食は、神さまの前に罪を償い、悔い改め、そうすることによって神さまの裁きを避けるために行われていました。けれどもイエスさまはこのプログラムに参加されませんでした。そこに神さまのおられないことを、神さまの不在を見抜かれたからでした。ファリサイ派の人々の断食は、自分に都合のいいように神さまに振舞ってもらうための、私たち人間の側の行いでしかないということです。
 律法の遵守も、律法を守ることが「神の国」に入るための「条件」となっているところでは、そこに断食と同じ、神さまのおられないことを、神さまの不在を見抜かれたからこそ、イエスさまはファリサイ派の人たちとではなく、律法に従った生活をしていないがゆえに軽んじられ、疎んじられ、蔑まれた徴税人や、捕らわれ、つながれている罪人たちと積極的に交わられたのではないでしょうか。そこには何の条件もなかったからです。
 「神の国」に入ることが出来るのは、律法を守る、遵守する、断食をするといった私たち人間の側の行いによってではなく、イエスさまの招きに応じる者ならば誰でも「神の国」に入ることが出来る。これがイエスさまのもたらされた新しさでした。

 そうしたイエスさまの発言と行動は、当時の、律法を基礎として成り立っていた、そしてそれを遵守することによって「神の国」を目指していたユダヤ社会に、またその指導者層に大きな衝撃を与えました。
 「神の国」とは、どこか遠くにあるものではなく、神さまの支配のことです。神さまが生きて働かれる現実のことです。イエスさまの招きに応じる者ならば誰でも、その応じるところで、神さまの生きて働かれる現実に触れることが出来るということです。それに値しないにもかかわらず、イエスさまの招きに応じる者ならば誰でも、神さまの恵みを約束されているということです。
 イエスさまは病人を癒したり、社会の周辺に追いやられた人々や罪人たちと交わりを持ったりすることで、すなわち最も小さい者の一人に為すことで、そこに何の条件も伴わない神さまの支配がすでに為されていることを明らかにされたのでした。
 その喜びが、イエスさまが病人を癒したり、社会の周辺に追いやられた人々や罪人たちと交わりを持ったりすることで、そこに何の条件も伴わない神さまの支配がすでに表されているのだということに対する喜びが、マタイによる福音書で「婚礼の花婿」の譬で語られている所です。「今は断食をする時ではない。神は不在なのではなく、生きて働いておられるのだから」。

 この新しさが、次の「織りたての布」、そして「新しいぶどう酒」に譬えられて、これまでの律法主義を表す古い服、古い革袋と対照させられます。「律法主義」と言うと古く感じるかも知れませんが、現代で例えれば「効率優先主義」といった考え方がかつての律法主義と同じような意味合いを持っていると考えてもいいでしょう。これが古い服、古い革袋というわけです。
 新しいぶどう酒は、ご存知のように発酵する勢いがたいへん強く、熟成させる過程でたくさんのガスを出すので、古い革袋ではもたない、裂けてしまいます。ただここで語られていることは、だから新しいものは古いものをダメにしてしまうということではなく、私たちが新しいものをいかにして生かすのかということなのだと思うのです。すなわち、新しいぶどう酒を生かすためには、新しい革袋が必要だというわけです。
 そのためには、袋ならば新しいものに取り換えれば済むことですが、ここで語られている革袋は、実は私たちのことですから、私たち自身も新しくなる必要があるということです。そしてそれは、今日お話しした初めに戻りますが、イエスさまが、ご自身のゆりかごである飼い葉桶から十字架に至るまで、ご自分の肉の体を通して最も小さい者たちに徹底して仕えられたことに、私たちが目と耳と心を開いて徹底的に執着し続けることで、私たちも自ずと、古いものを後にして新しくなる、新しくされるということなのではないでしょうか。

 新しい主の年の2021年に、この私の、あなたの小さな新しい革袋が、特に争いの中に、敵意の中に、困難の中に、苦しみの中に、そして喜びの中に置かれ、そこに新しいぶどう酒が勢いよく注がれて、主の平安の香りを高く漂わせることができますようにと、心から願います。
 祈りましょう。

 私たちの闇の中に灯を輝かせてくださる神さま、過ぎし年、多くの同信の友をお見送りした中で、多くの愛する者を、大切な人を失った中で、その中でも私たちがあなたの恵みの内に生かされてきたことを心から感謝します。
 来たりし年も、あなたによって与えられたすべての命に仕え、その命と共にあなたの平和を生きることが出来ますよう、私たちをお導きください。いつも私たちと共にいてくださり、私たちを私たち自身の縄目から解き放ってください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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