1月3日(日)降誕節第2主日 全家族新年礼拝 説教「帰 還」
更新日: 2021.01.08
降誕節第2主日(2021.1.3)全家族新年礼拝説教 牧師 野田和人
エレミヤ書31章15~17節、マタイによる福音書2章13~23節
牧会祈祷
慈愛と憐れみに富み給う、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、新しい主の年2021年を与えられ、降誕節第2主日に子どもたちと共に全家族新年礼拝をささげることのできる恵みを心より感謝いたします。
この恵みの中、私たちは私たちがこれまで辿って来た歩みを振り返り、そのどの地点においてもあなたの御手が働いていたことを覚え、感謝します。
誕生、結婚、受洗、転入会、そして新しい出発を迎えた喜びの中で、私たちの思いも寄らなかった新型コロナウイルスのパンデミックがもたらす恐れと不安、憤りの中で、病や死、そして別れの悲しみの中で、争いや暴力、憎しみが引き起こす敵意や絶望の中でもあなたの御手は働き、私たちにこのように告げ知らせてくださいます。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ29:11)と。
どうか私たちの弱さも強さも、不安も希望も、すべてを創造主であられるあなたに委ね、様々な局面での私たち人類の存亡を賭けた闘いを、すべてをご覧になっているあなたへの信頼の下に進めることができますよう、私たちを導いてください。
新しい年、私たちの出会う一人ひとりを、また私たちが新たに出会う一つひとつの事柄を、すべてはあなたの希望の計画の内に置かれているものとして、私たちが思慮深く受け入れていくことが出来ますよう、私たちをお導きください。
この祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。
アーメン。
説 教 「帰 還」
主の年2021年、おめでとうございます。
先週、昨年の最後の主日に皆さんにお渡しした今年一月のカレンダー、この予定表の上部、「2021年1月礼拝予定」の各主日の聖書箇所をご覧になるとお分かりになると思いますが、昨年、先週の降誕節第1主日から、今年に入って続いていく降誕節、そして受難節を経てのイースターから復活節へと至る間の主日聖書日課は、主に新約聖書のマタイによる福音書に聴くことになっています。
昨年のクリスマス礼拝、12月20日のクリスマス礼拝では、旧約聖書のイザヤ書7章のインマヌエル預言を受けて、マタイによる福音書1章後半に記されている、イエス・インマヌエルについて、イエス・「神、我らと共にいます」についてご一緒に見ました。
イエスさまのご降誕の記事は、マルコによる福音書を除く三つの福音書、マタイとルカとヨハネ-ヨハネによる福音書の場合は他の二つと趣が違っていますが、それはそれで、その最初のところもイエスさまの降誕の記事として読むことのできるものです-三つの福音書それぞれに特徴があるのは皆さんご存知かと思います。
そして、今日お読みしたマタイによる福音書の記事の特徴はと言えば、毎年クリスマスの時期に子どもたちが演じる聖劇-ページェントには欠かすことのできない、東方からの占星術の学者たち-天文学者たちの登場と、彼らの言動に端を発する、彼らとは対照的なヘロデ王の言動にあると言っていいでしょう。
彼ら東方の学者たちは、ベツレヘムのおそらくは小さく貧しい家に寝かされている幼子をただただ拝むために、自分たちの慣れ親しんだ部屋、いわば研究室を離れて、おそらくそこから一歩も出たことがないほど慣れ親しんだ場所を後にして、数多くの危険を伴う、命がけの長旅へと出発しました。そして遂に幼子にまみえ、彼らの持てるすべてを差し出し、最高の礼拝をささげたのでした。
私たちはここに、イスラエルの民にとって、かつては敵を意味していた東方-かつてのアッシリアをはじめとして、東方はイスラエルにとって敵を意味するものでした-その東方がもはや敵ではなく、神さまと人との、また人と人との間の和解をもたらす象徴として現れてきたことを見ます。
この、イスラエルを超え出る和解の知らせに対して、ヘロデ王は敵意を剥き出しにして臨んでいくのです。彼は、幼子を訪ねた時に通ったのとは別の道を通って、自分の所に寄らずに自分たちの国へ帰って行った学者たちに騙されたと知って大いに怒り、命じます。「ベツレヘム一帯の二歳以下の男の赤ん坊を一人残らず殺せ。皆殺しにせよ」と。
その前に主の天使はヨセフに告げていました。「起きて、子どもとその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」と。
当時とは比べものにならないほど、私たちがお互いの理解を深め合うための機会も、手段も、十分に与えられている現代において、私たちはヘロデ王のこの命令を傍若無人な振舞いとして一蹴することができるでしょうか。
例えば、やっとの思いで核兵器禁止条約批准国が五十を越して、今月(1/22)の条約発効を迎えようとしているこの時期に、核の傘の下にいる私たち日本をはじめ、核大国と呼ばれる国々がこの条約を飲み込んでしまおうとしている現実を見る時、私たちはこの二千年間で一体何を学んできたのかと愕然としますが、それでも、私たちの戻るべき所は確かにあるのだということを、今日与えられたテキストは私たちに示しています。
福音書記者マタイが、この聖家族のエジプト避難、エジプト逃避と、残忍な支配者の行動、そしてその後のヨセフたちのイスラエルの地、ガリラヤのナザレへの帰還を記した記事の中でたいへん特徴的なことは、これら三つの出来事、エジプト逃避、残忍な支配者の行動、その後のヨセフたちのガリラヤのナザレへの帰還、これらを記した三つの段落それぞれの最後に旧約聖書からの言葉が記され、どの場合も、「主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」という言葉で終わっているところです。
これは、神さまが前もって心に決められなかったことは、幼子イエスの上には何も起こらないということです。地上の権力者たちはすべてヘロデの側に立つけれども、神さまはこの幼子の傍らに立たれるということです。これは本当に大きな慰めではないでしょうか。
今日の15節、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」との言葉は、旧約聖書ホセア書11章1節からの言葉です。けれども、ホセア書ではそれに続けて「わたしが彼らを呼び出したのに、彼らはわたしから去って行き、バアルに犠牲をささげ、偶像に香をたいた」とありますように、イスラエルの民らのあの出エジプトは、決定的な救いとはならなかったことが語られます。
この言葉を福音書記者マタイがここに置いたことは、今度は幼子イエスを通して、新しい出エジプトが起こるということを訴えているのではないかと思うのです。それが神さまの約束の成就であると。ただそれは、そもそもの初めから、かつてイスラエルの民も経験したことのある迫害の道でした。エジプトの地から約束のナザレの地へと帰還を果たしたイエスさまも、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金としてご自分の命をささげるために呼び出されたのですから。
神さまの約束はそのようにして成就されました。
そして今日の18節は、今日最初にお読みした旧約聖書エレミヤ書31章15節からの引用です。ラマはベツレヘム近くの町、ラケルは族長ヤコブの妻ですから、イスラエルの民の母のような存在です。ラマは、イスラエルの民のもう一つの悲しい歴史であるバビロン捕囚の時の通過地点でしたから、そのバビロンへ連れていかれる者たちを見て、ラケルがお墓の中から泣いている、という記事です。マタイはこれをヘロデ王の幼児虐殺事件と重ね合わせました。
主イエスが迫害を受けられた時、人々の間にも、大きな苦しみと泣き叫ぶ大きな悲しみの声が沸き起こりました。その後、主に従ってすべてをささげた数多くの主イエス・キリストの血の証人たちを嘆き悲しむ声も沸き起こり続け、それは現代でも止むことはありません。それは、神さまを離れ、その御子である救い主キリストに敵対する世界を嘆き悲しむ叫びであるとも言うことが出来るでしょう。
けれども、この何の慰めもないような悲しみの叫びのただ中にイエス・キリストは生きておられるのだということを、今日の幼子の帰還の記事は私たちに伝えるのです。
いかなる敵意も暴力も幼子イエスを見つけ出して殺すことはできませんでした。幼子が死ぬべき時は別に定められていたからです。ですから、神さまはあらゆる手段を用いて、敵意と暴力、迫害のただ中にある幼子イエスを守り抜かれたのでした。
ただそれは「ナザレの人」としてでした。ここには、旧約聖書イザヤ書11章の預言、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」-一つの若枝が出で、その弱い小さな小枝がイスラエルのメシアとなるという預言が響いています。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(ヨハネ1:46)と呼ばれたナザレ、取るに足りない、貧しい、そのナザレへの幼子の帰還によって、貧しく小さな幼子を通して、全世界を救う神さまの計画が成就するというのです。
イエスさまはそのようにして、私たちの貧しさ、弱さ、苦しみ、絶望を負って生きてくださる。このようにして、この幼子イエスを通して、「あなたの苦しみは報いられる」(エレミヤ31:16)と預言者エレミヤも語ったのではないでしょうか。
新しい主の年2021年が始まりました。多くの人間的な計画の成功や失敗、多くの敵意や危機によって私たちの歩む道は方向づけられていくでしょう。けれどもそこで、私たちが今日の聖書の記事を通して語られた幼子イエスの御前に留まり、神さまに守り抜かれて、私たちの貧しさ、弱さ、苦しみ、絶望を負って生きてくださるナザレ人-イエスさまと共に歩む限り、神さまがあらかじめ見通し、欲し、約束されたこと以外の何事も私たちの上には起こらないことを信じて進むことが出来るのではないでしょうか。
それが、イエスさまと共に生きる私たちの生への慰めであり、私たちへの報い、希望という名の報いではないでしょうか。
祈りましょう。
神さま、新しい主の年2021年が与えられた恵みを心より感謝いたします。
あなたは、預言者エゼキエルを通して、「私たちに新しい心を与え、私たちの中に新しい霊を置く」(エゼキエル11:19)と語られます。その新しい心、新しい霊をもって、ヘロデのところへと帰る道ではない別の道、幼子イエスが導いてくださるガリラヤへの道、ナザレへの道を辿ることが出来ますよう、私たちを守り、力づけてください。
私たちの希望の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。