牧師メッセージ

1月17日(日)神戸栄光教会1.17礼拝 説教「経綸」

更新日: 2021.01.17

神戸栄光教会1.17礼拝(2021.1.17)説教     ヨブ記38章1~11節
「経 綸」         牧師 野田和人

 今日の1.17礼拝に与えられた聖書の御言葉、旧約聖書のヨブ記では、2章までのプロローグの後、神さまはヨブに対して沈黙し、ヨブもまた、神さまに向かって不敬と不信の言葉を並べ立てていきます。けれどもその途中、19章25節でヨブは次のように言います。「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」と。この言葉は、ヨブにとって神はおられないのではないということ、ヨブにとって神は不在なのではないということを示しています。

 それまでにヨブの三人の友がヨブに向けて語った言葉は次のようなものでした。「ヨブ、あなたの不幸と災いは、あなたの隠れた罪の報いであり、罰なのだ。だから、神の前にへりくだってあなたの罪を懺悔し悔い改めさえすれば、あなたは救われるのだ」。
 これらの言葉は一見筋が通っているように聞こえますが、結局は私たち人間の側の思い込みに過ぎず、特に、まったく理由もなくサタンの手の中に落ちて、自らの全存在を賭けてその不当性を訴え、自分の身の証を求めて神に迫っているヨブにとっては、到底認めることの出来ないものでした。ヨブは、そのような友人たちの言葉の中に神を見出すことはありませんでした。

 けれども、ヨブは自らの身の証を立てようと神さまに迫っていく中で、はっきりと知らされたのでした。神は確かに生きておられる、と。そしてこの神は、この私を贖ってくださる神である、と。彼は続けます。「この皮膚がそこなわれようとも、この身をもって、わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」と。神さまと相まみえることを心から慕い焦がれるヨブの熱気が伝わってきます。
 そして念願かなって、今日お読みしたヨブ記38章で、神さまご自身がその沈黙を破って嵐の中からヨブに答えられたのでした。ヨブと三人の友人たちとのやり取りの軍配は、ヨブに上がりました。

 しかしその主の答えは、かつてヨブ記7章(17節)で「人間とは何なのか」と問うたヨブ自身を問うものでした。「神の経綸を暗くするお前は何者か」と。「経綸」とは、他の言い方では、良い意味での「はかりごと」や「摂理」ということで、はっきりとした意図を持った計画のことです。
 そして、「神の経綸を暗くするお前は何者か」との主の問いは、これもヨブ記12章(22節)でのヨブの神さまに対する非難に対応するものでした。このような非難です。「神は暗黒の深い底をあらわにし、死の闇を光に引き出される」。ヨブはここで、創造の初めの「光あれ」とは、ただ闇をあらわにするためのものではないのか、そして結局は闇が光を覆っていくのではないのかとの疑いを持つことで、神の経綸とは結局闇そのものではないのかとまで非難しています。そしてそのことで神さまの創造の意志を蔑ろにしてしまった、その無知を今ここで問われているのです。

 しかし主はここで、「腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる」とヨブと同じ土俵に立って、「お前に」、「あなたに」と二人称で語りかけてくださいます。まさに顔と顔とを合わせるように、向き合って、正面から神さまが問いかけられるのです。
 ただその問いは、ヨブには到底答えることの出来ない問いでした。神さまはヨブに問いかけられますが、彼の答えを待たずに、ご自分の創造世界について語り始められます。この所では、神さまの明確な創造の意志が示されています。今度はヨブが沈黙する番です。

 ここには、創世記の天地創造の記述とは異なり、神さまがまるで建築士のように周到に世界を造り上げる準備をし、丁寧に、手をかけて世界を建ち上げていった様子が記されています。神さまが、ご自分の造られた世界に対してたいへん強い愛着を持っておられることが感じられるところです。
 そして、今日はお読みしていませんが、16節から18節にかけて、その創造世界の深さと広さが、海の湧き出る深淵や死の闇の門、大地の広がりを通して示され、その前に立つ者の全くの小ささが明らかにされます。自分の存在がいかに小さく、弱く、ささやかなものであるのかを思い知らされます。

 苦しみの極みにあって神さまを呼び求めるヨブの前にようやく現れた神さまは、ヨブの訴えや苦しみにはまるで取り合わないで、ご自分の創造のスケールの大きさを遺憾なくヨブの前に発揮して、ヨブの存在がいかに小さく、僅かであるかを明らかにすることに終始するのです。全く手加減することなく、その創造の御業をヨブの前に突きつけると言えばよいでしょうか。圧倒されます。
 けれども、これはやはり、神さまがヨブと同じ土俵に立って、ヨブという小さな存在に目を留めて、ヨブに対して真剣に向き合ってくださっていることの表れでもあるのだと思うのです。ヨブは沈黙しますが、それは不満ゆえの沈黙ではなく、神さまが語られた神の経綸の内に自らもあることを知らされた、神さまの癒しの内にある沈黙ではないでしょうか。

 ヨブはかつて自らの苦難について、それは「神の手がわたしに触れたのだ」(19:21)と語りました。サタンの手ではなく、裁き主にして救い主であられる神の手が、わたしに触れたのだ、と。その神さまが沈黙を破って語り始められた今日の箇所で、ヨブはその御手の全く思いもよらない深さと広さを前にして、この私と向き合ってくださる神さまの癒しの内にある自分を見出し、今、沈黙しているのではないでしょうか。

 1.17はいつも降誕節の初めにあります。創造世界の神の経綸の類のない壮大さをヨブに示してヨブと向き合われた、その同じ神さまが、その力を尽くして、キリストのへりくだりを通して私たちと向き合ってくださっています。
 私たちには、嵐のただ中で、同じ小舟に乗っているキリストが見えています。

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