1月24日(日)降誕節第5主日礼拝 説教「ガリラヤ」
更新日: 2021.01.29
降誕節第5主日(2021.1.24)礼拝説教 牧師 野田和人
イザヤ書8章23節b~9章3節、マタイによる福音書4章12~17節
牧会祈祷
憐れみと慈しみに富み給う、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2021年の降誕節第5の主日にあって、あなたによって召し出されて、リアルに、またリモートを通してこの御堂に集い、イエスさまの宣教の初めの言葉に耳を傾けながらこの礼拝に与ることの出来る大きな恵みに、心より感謝いたします。
新型コロナウイルスのパンデミックが、今を生かされている私たちの現実に、また将来に大きな影を落としていますが、パンデミックを収めるために様々な務めを担って日夜奮闘しておられるお一人おひとりを力づけ、その大切なお働きを支えてください。
小さな、また経験に富む大切な命をお守りください。この闘いの中で、私たちは御言葉によって支えられ、祈り、行動します。
神さま、あなたは初めから計画しておられた救いの御業を、御子イエス・キリストを通して始められました。「悔い改めよ。天の国は近づいた」とのイエスさまの宣言は、今も私たちの生きるこの世界に響いています。
ガリラヤから、エルサレムから、コリントから、ローマから、そしてアフリカから、アジアから人々が起こされ、それぞれが置かれている場で、主イエスが私たちに示してくださったあなたへの従順と一致に向けて、神の宣教-“Missio Dei”に携わっています。
私たちへのあなたの忍耐と熱情を私たちが同じように受け継ぎ、宣教の困難な地域にある方々と共に、私たちが忍耐と熱情とをもってあなたのご支配の下に生きることができますよう、お導きください。私たちをあなたの平和の道具としてください。
闇を覆い尽くす光であられる主イエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン。
説 教 「ガリラヤ」
新しい主の年の2021年、1月3日(日)の全家族新年礼拝でもお話ししましたが、私たちは、教会暦で言えば、現在の降誕節からそれに続く受難節を経て復活節へと至る約4ヵ月間、主に新約聖書のマタイによる福音書を通して主日毎の御言葉に聴きます。
2週間前の青年礼拝では、イエスさまが洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられたというお話から、「従順」ということについて皆さんとご一緒に見ました。そこには、「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(3:15)と仰って、洗礼者ヨハネから水の洗礼を受けられたイエスさまの行動を通して、「父なる神の意思、思い、ご計画のすべてを行うことが、今の私たちに(イエスさまと洗礼者ヨハネのことですが)、私たち二人にとって必要なことなのだ」と語られる従順な僕としての、それは苦難の僕でもあったのですが、そのような従順な僕としてのイエスさまの姿がありました。
そして先週は、今日後からお読みしたマタイによる福音書の直後の箇所、4章19節のたいへん有名な言葉「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」とのイエスさまの言葉、神さまの意思、ご計画の前でご自分を無にされ、十字架の死に至るまで従順であられたイエスさまによって語られた、この力ある言葉「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」-この言葉に呼び出されて「すぐに網を捨てて従った」(4:20)ペトロと呼ばれるシモンら四人の漁師たちの従順について聴きました。
私たちは、例えばこれからの自分の進むべき方向を見出そうとする時、普通は今自分の持っているもの、例えば能力や経済力などをしっかりと見極めながら、それら能力や経済力が許す範囲内でいろいろと取捨選択をしつつ、自分の進むべき道を探し出そうとするものですけれども、この物語は、この四人の漁師の物語は、そのようにして私が選んだと思ったお方は、実は私よりも先にすでに私を選んでおられた方であったということを明らかにするものでした。
それは、私が選ぶよりも先に私を選んでくださった、私を召し出してくださったイエスさまに対して私が抗うことを全くさせないという従順をもたらすものでした。
今日後からお読みした箇所は、このペトロら四人の召命に始まるイエスさまの宣教活動のまさに始まりの部分に当たりますが、聖書には、他の福音書の並行箇所も記されていますが、宣教活動の始まりという同じ事柄を記しながらわずか2節で終わっているマルコやルカの福音書とは違って、福音書記者マタイは、新年礼拝でお読みした2章後半と同じようにここでも旧約聖書から引用することで、イエスさまの宣教とは一体どのようなものだったのか、その性格、特徴を私たち読者に暗示しようとしています。
それは、「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」との言葉で始まります。イエスさまはその30年余に及ぶご生涯の最後にユダヤのエルサレムに上るためにガリラヤを去るまで、時々はガリラヤの周りの地方にも出かけられましたが、ほとんどすべての時をガリラヤでの宣教に費やされました。その最初のところにあるこの言葉、「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」との言葉も、イエスさまの従順について再び私たちに知らせてくれるものではないかと思うのです。
この「捕らえられた」という言葉は、イエスさまの受難物語の中でよく用いられている言葉で、イエスさまの死と復活の予告のところでイエスさまが「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される」(20;18)と語っておられるところや、使徒パウロによる聖餐の制定の言葉、「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り…」(Ⅰコリント11:23)のところで私たちがよく聞いている「引き渡される」という意味があります。
ヨハネが捕らえられた-引き渡された。マタイはここで、ヨハネ逮捕の記事にこの言葉を用いることによって、先駆者ヨハネを通してイエスさまの受難をすでに指し示しているようです。そしてそれはまた、イエスさまご自身も、ご自分のこれからの苦難の道行きを自覚的に始められたということにも繋がっていくものではないでしょうか。
そして「ガリラヤに退かれた」。この「退かれた」という言葉は、誕生時のイエスさまが、主の天使の言葉に従って、ヘロデ王による殺害から逃れるために両親のヨセフ、マリアらと共にエジプトへ下る時、「エジプトへ去り」(2:14)と記されている「去る」という言葉、またヘロデ王が死んでエジプトからイスラエルの地へイエスさまたちが帰って来られた時、ユダヤを支配するアルケラオを避けて「ガリラヤ地方に引きこもり」(2:22)と記されている「引きこもる」という、「避難」や「退却」を表す言葉と同じものです。
イエスさま誕生直後の、イエスさまとその両親の行動を表す「避難」、「退却」と同じ意味を持つ言葉を用いてイエスさまの宣教活動開始の地であるガリラヤへの退却を書き記し、その直前にイエスさまの受難を指し示す「捕らえられた」-「引き渡された」という言葉を置いたこと。これらすべては、今日最初にお話しした、イエスさまが最初に語られた「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」との言葉がどのような意味を持っていたのかということを表しています。すなわち、神さまの意志はこのようにして成就していくということです。
この神さまの意志、秘められたご計画に対する従順と一致を、私たちは今日の12節の言葉に見ることが出来ます。「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」。
そして、この神さまの意志への従順と一致の中で、福音書記者マタイによれば、旧約聖書のイザヤ書の預言の成就としてのイエスさまの宣教活動が開始されます。それは「異邦人のガリラヤ」からでした。
イザヤの預言そのものは、紀元前8世紀に起こった、ゼブルンの地とナフタリの地と部分的に重なるガリラヤ地方も含めた地域に対するアッシリアの支配からの解放の預言でした。ダビデの王座を引き継ぐ「ひとりのみどりご」の誕生による、アッシリアの支配からの解放の預言でした。
そこでは、被征服者を捕囚、捕虜、奴隷として連れ去り、その空いた所に他の捕囚民を入植させるという、アッシリアの占領政策が行われていました。またそれ以前にもこの地域は、あのソロモンのエルサレム神殿建造の代償とされたり(ソロモンは壮麗な神殿を建てましたが、そのために掛かった費用をこれらの土地を提供することで賄っていたりしました)、アラム(現在のシリア)の王に占領されたりと、歴史的に絶えず、言わば「異邦化」されてきたところでした。
ガリラヤの語源としては、“ガーリール”と言うことで、「周辺」、「環(まわり)」や「地域」が考えられますので、「異邦人のガリラヤ」とは、ユダヤ人を中心とする立場から見て「異邦人たちが住む周辺(辺境)の地域」ということになるでしょうか。
ただ、イエスさまご自身はもっぱらユダヤ人たちの間で宣教活動をしておられましたから、マタイがここでイザヤ書を引用してまで読者や聞き手に伝えたかったことは、救いは、ユダヤ人を通して異邦人へと向かうということではないかと思うのです。そしてこれがマタイによる福音書の特徴でもありました。
このイザヤの預言の引用は、イエスさまがあくまでもイスラエルのメシアであったことを強調しながら、そのイエスさまの到来によって救いが異邦人にまで及ぶという仕方で預言が成就するということ、このことを明らかにするためでした。そしてそれが、神さまの隠された計画へのイエスさまの従順と一致をも表すのだということを、マタイは私たち読者に伝えようとしているのだと思います。
イエスさまがあくまでもイスラエルのメシアであられたという意味では、必ずしも異邦人とは限らない、「暗闇に住む」イスラエルの民に救いをもたらすために、そしてまた、必ずしも異邦人とは限らない、「死の陰の地に住む」ユダヤの者たちに救いをもたらすために、イエスさまは彼らの中へと入って行かれました。そして、異邦人も含めて、闇の中に、傲慢さの中に、頑なさの中に輝く光となられました。
「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。この御言葉の中に、この神さまの意志の中に主イエスは退かれました。
こうしてイエスさまは、洗礼者ヨハネの行った警告を繰り返しながら、神さまの主権を軽蔑の念をもって取り扱った人々の間で神さまがその支配を確立しようとしておられることを、ガリラヤから宣言されたのでした。「悔い改めよ。天の国は近づいた」と。
私たち人類が今あらためてたいへん不安定で困難な状況にある中、その神さまの支配の一つの表れとして、最後に、少し古いですが1948年の国連総会で採択された世界人権宣言にご一緒に聴いてみたいと思います。
「すべての人間は生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」。「人種、皮膚の色、性、言語、宗教などによるいかなる差別も拒み、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない」。
私たちはこのようにして、ガリラヤとエルサレムの間であっても、互いに神さまの前での従順と一致を示すことが出来るのではないでしょうか。そしてそれが、2000年前の主イエスの宣教の始まりの言葉に繋がってもいくのだと思います。
祈りましょう。
「悔い改めよ。天の国は近づいた」。神さま、あなたのご支配の圧倒的な到来のゆえに、あなたの平和の圧倒的な到来のゆえに、私たちは悔い改めます。
私たちが、子どもたちとの将来に向けて核兵器のない世界を生きるために、私たちの日常の様々なレベルでの葛藤や争いに想像力を馳せ、勇気をもってそれらを収めていくことが出来ますよう、私たちを守り導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。