牧師メッセージ

2月7日(日)降誕節第7主日組会礼拝説教 「主は恵みに富み、」

更新日: 2021.02.12

降誕節第7主日(2021.2.7)組会礼拝説教     牧師 野田和人
列王記下5章1~14節、マタイによる福音書15章21~31節

牧会祈祷
 憐れみと慈しみに富み給う、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2021年の降誕節の憐れみと恵みの内に私たちを歩ませてくださり、今日、その第7主日の神戸栄光教会の組会礼拝へとすべての者を招いてくださった、リモートを通して、またこの時を覚えて共に祈りを合わせてくださっているすべての人を招いてくださったあなたの忍耐に、心から感謝します。
 あなたは預言者を通して、「知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい。目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と公正を行う事、そのことをわたしは喜ぶ」(エレミヤ9:22-23)と語られました。
 私たちの罪を、とりわけ他者を受け入れないで利用しようとする、自分のためにする貪欲をお赦しください。自分自身の力への信奉、その傲慢を打ち砕いてください。
 この世界が、あなたが、私たちの間の和解のために、またあなたと私たちの間の和解のために遣わしてくださった主イエス・キリストを本当に知ることが出来ますよう、私たち一人ひとりを用いてください。そして、にもかかわらず私たちをそこへと導いてくださるあなたの平和とあなたの真実に私たちが仕える備えを、私たちの日々の営みの中で、また神戸栄光教会が大切にしている組会活動を始めとする教会の様々な働きの中で、私たちが為していくことが出来ますよう、私たちを導いてください。
 
 すべての人に与えられている命を私たちが選別することは出来ません。私たちが生き続けることが出来るのは、すべての人と共に生きる時、すべての造られたものと共に生きる時だけです。この地上のすべての者が、欠乏も豊かさも共に分かち合い、イエスさまが私たちに示してくださったように、隣人を自分のように愛することができますよう、導いてください。
 新型コロナウイルス感染症を始め様々な困難を前にして、「神さま、この苦しみを去らせてください」、「神さま、明るい明日をもたらしてください」と祈る人々と共に、あなたにある平安と希望の内を私たちに歩ませてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

説  教          「主は恵みに富み、」 
 「主は恵みに富み、」との今日の説教題は、先ほどご一緒に交読しました詩編103編8節から取ったものです。「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい」。ここにある四つの言葉すべて、憐れみ深い、恵みに富む、忍耐強い、そして慈しみ、これら四つの言葉すべて、どちらかと言えば私たちにとっては親しみのある、そして私たちがそれはそうに違いないと思うような神さまの性質、神さまの属性を表すものですけれども、今日、降誕節第7主日の聖書日課として与えられた旧約聖書、新約聖書の福音書と使徒書を読み進めていくうちに、ふと、恵みに富んでおられる主の恵みとは、今日の御言葉と関連して、具体的にはどのような恵みのことを言っているのだろうと思い、今日の説教題としました。
 
 今日はお読みしませんでしたが、今日与えられた使徒書の聖書日課は、Ⅱコリント12章の1節から10節までとなっています。コリントの信徒への手紙12章1~10節、「ああ、あそこ!」とピンとくる方もたくさんおられると思いますが、この箇所は、自分の身に一つのとげが与えられた使徒パウロが、自分を痛めつけるためにサタンから送られたこの使い-とげのことですが-、この使い-とげを自分から離れさせてほしいと三度主に願ったところ、主が次のように答えられたところです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と。
 恵みとは力、そしてその力は弱さの中でこそ発揮されるというわけです。今日はこのことについて、与えられた、あとの二つの物語を通して皆さんと一緒に見ていきたいと思います。

 ところで、昨年から今年にかけての降誕節での主日聖書日課は、主に新約聖書のマタイによる福音書を読み進めているわけですが、この福音書の大きな特徴は何だったでしょうか。覚えておられますでしょうか。まあ、毎週お話ししていますが、先々週の説教ではこんな風にお話ししました。「イエスさまはご自分の宣教活動のほとんどをガリラヤ地方で行われたわけですが、そこは『異邦人のガリラヤ』とも呼ばれる所でした。ただ、イエスさまご自身はそこでもっぱらユダヤ人たちを相手に活動しておられましたから、福音書記者マタイがよくするように、旧約聖書の、先々週はイザヤ書でしたが、旧約聖書のイザヤ書を引用してまで彼が私たち聞き手に伝えたかったことは、救いは、ユダヤ人を通して異邦人へと向かうということではないかと思うのです。そしてこれがマタイによる福音書の大きな特徴でした」と。
 すると「異邦人」とは、イエスさまが使徒パウロに語られた先ほどの言葉「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」、この言葉と照らし合わせてみると、異邦人とは弱さの一つの表れであると考えることができるのではないでしょうか。
 イエスさまの到来によって、救いが、弱さの一つの表れである異邦人にまで及ぶということが、神さまの隠された計画へのイエスさまの従順と一致を表すのだということを、マタイは私たち読者に伝えようとしていました。

 今日私たちに与えられた二つのお話はどうでしょう。
 旧約聖書のお話は、重い皮膚病からの癒しを願うアラムの王の軍司令官ナアマンが、最初はユダヤ人の預言者エリシャのたいへん無礼な態度に憤慨しつつも、結局は家来に説得されてエリシャの言葉に従ったという話です。そして新約聖書のお話は、悪霊に苦しめられている自分の娘を助けるために、「わたしを憐れんでください」と叫ぶ、ティルスという、ガリラヤ地方の北方、地中海沿岸で生まれたカナン人の女とイエスさまとのやり取りの話です。
 この二つの話に共通な事柄は、まず「癒し」ということですね。ここではこの「癒し」が、「恵みである力」であると言っていいでしょう。そして次に、ナアマンもカナンの女も異邦人であったということです。確かにナアマンには、軍の司令官ですから権力も財力もあり、そのようなものは一切持ち合わせていないように見えるカナンの女とは対照的ですが、共に異邦人であったということでは同じです。
 そして三つ目に共通な事柄は、ナアマンに対する預言者エリシャのそっけなさ、無礼さは、カナンの女に対するイエスさまの言葉、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」や、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」という、すげなく、冷たい言葉に対応しているということです。

 イエスさまのこのすげなさ、冷たさは、同じマタイによる福音書8章5節以下の、イエスさまがローマの百人隊長の息子を癒された話を思い起こさせるものです。この三つ目のお話を少し振り返ってみましょう。皆さんの中にもこの話をよく覚えておられる方が多くいらっしゃるのではないかと思います。
 場所はガリラヤ湖畔のカファルナウムという町です。ここで百人隊長は、激痛を伴う病によって家で寝ている自分の息子がひどく苦しんでいることをイエスさまに申し出ます。ところが、イエスさまの百人隊長に対する返事をよく読むと、新共同訳ではそうでもないのですが、というより「わたしが行って、いやしてあげよう」と積極的に聞こえる返事になっていますが、この言葉をよく読むと、実は「わたしが行って彼をいやすのか」という、たいへん冷淡な返事でした。当時の、ユダヤ人が異邦人の家に足を踏み入れることはできないとの教えにそのまま従うような、イエスさまによる拒絶と言っていいでしょう。
 百人隊長は、自分の立場はわきまえながら、それでも諦めることなく、なお「主よ」と呼びかけ、「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすればわたしの息子はいやされるでしょう」と言って、主イエスに全幅の信頼を寄せます。その答えにイエスさまは驚嘆され、「イスラエルの民の中の誰にもこれほどの信仰を見たことがない」と仰って、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と百人隊長を帰らせます。その時、子どもは癒されました。

 この話は、イスラエルから始まって異邦人にも、福音が、ここでは癒しという恵みである力が伝えられる、告げ知らされるということですから、当時異邦人世界の中で生きていたマタイの教会の人たちにとってもたいへん重要で勇気づけられるものでした。
 今日のカナンの女のお話も、この百人隊長の話とたいへんよく似ています。ただここでは、イエスさまの拒絶が百人隊長の時よりももっとあからさまで厳しい形で描かれています。その分、カナンの女の反応も、百人隊長よりも激しくなっています。
 このようにしてマタイが私たち読者に伝えたいことは、イエスさまの恵みである力、ここでは癒しは、イエスさまご自身のネガティヴな、否定的な言葉にもかかわらず異邦人にも向けられている、天の国はすべての民に向けて告げ知らされているということと、その時の異邦人の生き生きとした反応にあるのではないでしょうか。

 カナンの女がまず、「主よ、ダビデの子よ」と叫んでいることは、彼女が、イエスさまが自分にではなく、「ダビデの子」ですから、イスラエルに遣わされたメシアであることをよく知っていたということを表しています。にもかかわらず、イエスさまに向かって、自分にとってはおそらく生まれて初めて異邦人の言葉で、「主よ、ダビデの子よ」と叫び続けたわけですから、ここには私たちには全く想像もつかないようなカナンの女の真剣さ、今、自分の目の前にいるイエスという人物と自分のすべてを懸けて闘おうとする気迫が感じられます。同じ異邦人である私たちはどうでしょうか。
 この後、イエスさまは沈黙されます。そしてその沈黙に引きずられるようにして弟子たちの無理解がさらけ出され、それに対して、この時のイエスさまの召命観が語られます。それが、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」との言葉です。そして、なおも「主よ、どうかお助けください」と懇願するカナンの女に対して、さらに激しく、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と断言するのです。「子供たち」がイスラエルの民で、「小犬」が異邦人ですから、本当に厳しい言葉です。
 ところが、カナンの女の反応は驚くべきものでした。「主よ、ごもっとも。あなたがイスラエルの民のために遣わされてきたメシアであられることはよく分かっています。それでも、あなたを遣わされた神さまに忠実な、あなたのメシアとしてのお働きからこぼれ落ちてくるものは、異邦人であるこの私でもいただけるのではないでしょうか」。
 イエスさまの拒絶を前にして退くどころか、かえって勢いを得て、女はイエスさまに詰め寄ったのでした。百人隊長が「どうかこの自分に向けて、ただ、ひと言おっしゃってください」と懇願したことに通じるものがあります。

 イエスさまはここで、彼ら異邦人に対してご自身が発せられた、「自分はあなたがたのために来ているのではない」との否定的でネガティヴな言葉からでさえも、彼ら異邦人がご自分に対する揺るぎのない信頼を引き出していることに心底驚かれ、感心されたのでした。そしてこのことは、イエスさまご自身がまだ気づいておられなかったことが、彼ら異邦人を通して明らかにされたと考えることの出来るものではないでしょうか。
 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は、恵みである力は、癒しという恵みである力は、弱さの中でこそ十分に発揮される」。
 イエスさまは、ご自分に激しく詰め寄る百人隊長やカナンの女の言動を通して、後に使徒パウロに語られたこの現実に、「力は、恵みである力は、癒しという恵みである力は、弱さの中でこそ、異邦人という弱さの中でこそ十分に発揮される」という現実に、この恵みに、今ここで覚醒されたのではないでしょうか。そして行動されたのでした。「あなたが信じたとおりになるように」、「あなたの願いどおりになるように」と。

 恵みである力はイスラエルの国境を越え、私たちのような異邦人のところへも伝えられました。そしてその原点は弱さにありました。異邦人として相手にされず、拒絶され、しかし退くことなく、ナアマンのように傲慢さを捨てて従順に神の人の言葉に聞き、あるいは、百人隊長やカナンの女のように、このような者さえをも主は憐れんでくださるのだという、主イエスの心をも動かす確信、弱さの中でこそ十分に発揮される確信にありました。

 さて、今、神の民としての、神さまの家族としての恵みに与っていると自分では思っている私たちに、私たちの恵みの原点である弱さ、イエスさまの心をも動かす異邦人性は見えているでしょうか。私たちは一体何を恵みだと感じているのでしょうか。
 この私が、主の憐れみを受けて生かされている、癒されているという確信を、私の、私たちの異邦人としての隣人の中にも見出し、そこで、弱さの中でこそ十分に発揮される力である恵みを、弱さに働きかける癒しという恵みである力を、この神戸栄光教会に連なる信仰生活の中で私たちが大切にしている、例えば組会活動を始めとする様々な交わりを通して、互いに分かち合っていきたいと心から願います。
 祈りましょう。

 「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい」。神さま、この言葉はイスラエルの民に向けてだけではなく、主イエス・キリストを通して全世界の異邦の民へと向けられた言葉でもあることを、私たちの心に深く留めさせてください。
 そして、最も小さい者の一人に仕え尽くされたイエスさまのお働きを通して私たち一人ひとりの内からにじみ出てくる憐れみ、恵み、忍耐、慈しみを、私たちと共に生きる、あなたの愛するすべての人たちとの間で、私たちが分かち合うが出来ますよう、私たちを導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

page top