2月14日(日)降誕節第8主日礼拝説教 「本当のこと」
更新日: 2021.02.20
降誕節第8(最終)主日(2021.2.14)礼拝説教 牧師 野田和人
イザヤ書30章8~17節、マタイによる福音書14章22~36節
牧会祈祷
憐れみと慈しみに富み給う、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2021年を迎えてなお、なかなか収まりを見せない新型コロナウイルス感染症の拡がりや、昨日の宮城県沖を震源とする地震を始めとする、様々な私たちの目の前の困難の中にあってなお、あなたによって召し出されて様々な形でこの礼拝の場、この祈りの場を与えられ、今年の降誕節最終主日である第8主日の礼拝を共にささげることのできる恵みを心より感謝いたします。
使徒パウロは、「キリストと結ばれる人は皆、新しい人です。過去は終わり、過ぎ去った。すべてが新鮮で新しいものとなったのです」(cf.)Ⅱコリント5:17)と私たちに告げ知らせました。今この時、新しい人が創造され、新しい決断の時が私たちに与えられていることを覚えます。そして、私たちの未来が、過去を直視しつつ、そこから学び取ってきたものの上に築かれる未来であることを知らされます。
それは、私たちの理想の実現や善意の結果ではなく、すべてを赦し新しくしてくださる神さまご自身のお働きによってもたらされる未来です。
今年の降誕節の初めに与えられた御言葉を思い起こします。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ29:11)とあなたは言われました。
神さま、私たちの愚かさ、恐れをお赦しください。すべてを赦し、すべてを新しくしてくださるあなたの聖霊を私たちが受け入れ、そのことを通して、私たちを新しい人としてください。
あなたが与えてくださる未来、私たちの愛する子どもたちの未来を、私たちが赦され、生かされていることに対する驚きと喜びの内に迎え入れることができますよう、私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
説 教 「本当のこと」
今年の降誕節は新約聖書のマタイによる福音書をずっと読み進めていますが、福音書記者マタイの物語は、イエスさまがただ単にもう一人のヨハネ、預言者であり洗礼者であるもう一人のヨハネではないことを明らかにすることに焦点を当てながら続いていきます。
今日最初にお読みした旧約聖書イザヤ書30章15節の力強い宣言を、愛唱聖句としておられる方は多いのではないでしょうか。「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」。
先週の礼拝でのお話のキーワードの一つは、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(Ⅱコリント12:9)でした。このキーワードと今日のイザヤ書の言葉をくっつけて読んでみると、「安らかに信頼していることにこそ力があり、その力は、弱さの中でこそ十分に発揮される」ということになりますね。
「安らかに信頼していることにこそ力があり、その力は、弱さの中でこそ十分に発揮される」ということ、このことを、私たちは今日与えられた新約聖書のペトロの物語の中に見出すことができるのではないかと思うのです。
今日のもう一つの聖書日課である新約聖書の使徒言行録12章1節~17節には、今日のペトロとイエスさまの出会いから随分と時が経って、ペトロが牢から、牢屋から救い出される話が記されています。覚えておられる方も多いかと思いますが、そこでは、ペトロが主の天使の言うとおりに起き上がると、彼を捕らえていた鎖が彼の手から外れ、彼が履物を履き、上着を着て主の天使に言われるままに天使について行くと、牢から町に通じる鉄の門がひとりでに開き、ペトロがそこを出て通りを進んで行ったところで天使は離れ去り、彼は我に返って次のように言います。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ」と。
「今、初めて本当のことが分かった。主がわたしを救い出してくださったのだ」。ペトロの、この、自分自身を主に明け渡した心の底からの叫び-「今、初めて本当のことが分かった。主がわたしを救い出してくださったのだ」-自らを主に明け渡した、心の底からのこの叫びへと彼の信仰が醸成されていく過程の一番初めに、ペトロの信仰がこの心からの叫びへと形作られていく過程の最初に、今日のお話もあります。
今日の、まずイエスさまの、そしてその後のペトロの水上歩行、湖の上を歩くお話は、直前の段落にある五千人の、男だけで五千人ですから女性や子供も含めると二万人もの供食物語、食事を提供するという意味での供食ということですが、この供食物語同様、私たち現代のキリスト者にとってはつまずきの石となるものかも知れません。
皆さんはいかがでしょうか。何度もお聞きになっているお話だと思いますが、どうでしょうか。やっぱりつまずかれるでしょうか。
ここで私たちが注目しなければならないのは、これらのいわゆる奇跡物語は、私たちに、私たちの目に見えている奇跡を伝えようとしているものではないということです。これら奇跡物語は、私たちの目に見えているものを伝えようとしているものではなく、私たちに、救いについて、救いの業について伝えようとしているものであることに私たちは注目しなければなりません。
紀元一世紀の世間一般の人たちも、こうした話にはまず疑ってかかったに違いないと思うわけですが、当時の、ユダヤ人であるキリスト者たちにとってはそうではありませんでした。彼ら、また彼女たちにとっては、あの「出エジプト」の神さまならイエスさまに水の上を歩く力を十分に与えることが出来るということは、それが出来るか出来ないかという可能性を問う以前に、自明の理でした。
今日のお話のポイントもここにあります。あの「出エジプト」の神さまなら、イエスさまに水の上を歩く力を十分に与えることが出来るのです。
今日のお話の箇所は、マルコやヨハネの福音書にも並行箇所のあるものですが、伝統的には神の子としてのイエス、その神顕現について語っている所であると理解されています。それは27節のイエスさまの言葉、「安心しなさい。わたしだ。…」のうちの「わたしだ(エゴ-・エイミー)」が、旧約聖書の出エジプト記3章14節にある、神さまがご自分をそう呼ばれる言葉、「わたしはある。わたしはあるという者だ」との神的な神顕現、神顕現定式を反映しているという所から来ています。
けれども、マルコやヨハネの福音書の並行箇所とは違って、マタイは、イエスさまの水上歩行と、逆風のため波に悩まされていた舟にイエスさまが乗り込んで風が静まるという二つの話の間に、その真ん中にペトロの水上歩行の話を挿入したことで、イエスさまが一体誰なのかということ、すなわち伝統的な神顕現について語るよりも、あの出エジプトの神さまによって超自然的な、神的な力を与えられたイエスという存在に焦点を合わせようとしています。
それが、ペトロの「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」との言葉によく表されています。今ペトロの目の前にいるのは神さまではなく、神そのものではなく、神さまによって超自然的な力を与えられたメシア-救い主イエスという人物であるということ、ペトロにとって、また私たちにとってもたいへん身近な存在であるということです。
ガリラヤ湖は、実際に行かれた方もおられるかと思いますが、周囲を山に囲まれた擂鉢の底のような状態になっていますから、そのような湖は多くがそうだと思いますが、気温の変化によって、特に日暮れ時、今日の箇所がそうですが、山の上の冷やされた空気が不意に突風となって低い湖の上に激しく吹き下ろすことは稀ではありませんでした。そのような湖へとイエスさまは弟子たちを強いて舟に乗せて送り出したのです。そしてご自分はお一人山の上で祈られた後、今、逆風のため波に悩まされている舟の所へと行かれます。
ここでの舟は、実際に波に悩まされている舟ということもそうですが、やはり誘惑や試練、また迫害に翻弄されていた、具体的には当時のマタイの教会を、そして広くは同様な試練の中にある現代の教会を象徴していると考えることができるでしょう。
この後にペトロの水上歩行を記したマタイは、イエスさまが舟の所へ行かれたのは、イエスさまご自身が、ご自分が誰であるのかを見せびらかすためではなく、そこで心底怯えている、プロの漁師たちもその中にいた弟子たちを助けるためであったことを強調しています。最後の、「舟の中にいた人たちは」という言い方からは、弟子たちだけでなく、すべての信仰者たちを助けるためにイエスさまは舟の所へ行かれたのだということも伝わってきます。
イエスさまが舟の所へ行かれたのは、そのことをするようにと神さまからの委託を受け、かつそのための力を神さまから与えられて、神の民を、主を呼び求める者たちを救いへと導きだすためでした。
そして、信仰と疑いの引き合いの真っただ中に囚われていたペトロの行動を直後に記すことで、当時の、内憂外患のただ中で存続することそのものに困難さを覚えていたマタイの教会の者たちに、キリスト者として生きる希望をマタイはここで示したかったのだと思います。そしてそれはもちろん現代の教会にも、現代を生きる私たちにも響いてくるものではないでしょうか。
逆風に脅かされている湖の上の弟子たちと、山上でお一人祈っておられるイエスさまとの間には、空間的な距離、隔たりが置かれていますが、それは彼らとイエスさまとの間の心理的な隔たりをも意味していました。イエスさまが湖上を歩いておられるのを弟子たちが見た時にあげた「幽霊だ」との叫び声は、この心理的な隔たり-“mental distancing”が最大値に達したことの表れでした。
しかしそこでイエスさまの声が響くのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。それは、弟子たちとイエスさまとの距離を一気に縮める言葉でした。そこでペトロはイエスさまが救い主であると信じ、イエスさまが自分たちを支えることが出来るという確信をもって、大胆に水の上へ第一歩を踏み出したのでした。「主よ、あなたでしたら…」。ここでも、ペトロとイエスさま両者の間の距離が一気に縮まっています。
「ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進」みました。ところがすぐに、彼は自分を飲み込もうと脅かす逆巻く波に目をさらわれ、イエスさまから目を外してしまいます。イエスさまへと向かっていた目、イエスさまへと向かっていた思いが、強い風、逆風という、自分にとってはどうすることも出来ない、たいへん困難な事柄によって遮られてしまって、イエスさまを見失ってしまったのです。自分の目の前にある現実の高波に、ペトロは溺れてしまいました。私たちはどうでしょうか。
「来なさい」と語られる主イエスにのみ目を向けることを私たちが止める時、今、一気に縮まった私とイエスさまとの距離も一気に拡がってしまします。
ところが、すべてが失われてしまったように思われる危機の深み、沈みかけた水の中で、ペトロは救い主の名を呼び求めることを思い出し、彼が必要とする助けを、十分な恵みを見出したのでした。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(Ⅱコリント12:9)。
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。この言葉は、イエスさまがかつて嵐を静められた時(マタイ8:26)、またこの後で弟子たちが、自分たちがパンを持っていないことで論じ合っている時(マタイ16:8)にも繰り返される言葉ですが、これは弟子たちの不信仰をとがめている、彼らの不信仰を責めている言葉ではありません。
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」-この言葉は、彼ら弟子たちに、そして私たちにもすでに与えられている小さな信仰を、危機の深みの中で、その深みの中へと伸ばしてくださる主の手があることを決して忘れないで、危機の深みの中へと伸ばしてくださる主の手にすがって、その小さな信仰をよく働かせるようにと勧めてくださっている言葉です。私たちの不信仰を責めるのではなく、私たちに与えられているほんの小さな信仰をよく働かせるようにとの勧めの言葉です。
今週の水曜日、灰の水曜日から受難節が始まります。弟子たちにとっては十字架も復活もまだ来ていませんから、彼らはイエスさまのことを本当には理解していないわけですけれども、彼らよりもはるか以前に、東方の占星術の学者たちが生まれたばかりの赤ん坊を前にして最初で最高の礼拝をささげたように、彼ら弟子たちも、舟の中にいた人たちも、嵐の後の舟の中でイエスさまを拝みました。イエスさまを礼拝しました。
私たちも、弱さの中でこそ十分に力を発揮してくださる主が、私たちの現実の中で私たちを主にある平安へと導いてくださることを信じて、小さな信仰を十分に働かせて、日々の営みの中で心の底から主の名を呼び求めたいと願います。
「主よ、助けてください。あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてくださいますから」と。
祈りましょう。
神さま、今初めて本当のことが分かりました。あなたがイエスさまを遣わされて私を救い出してくださったことを。私の回りにも、この日本にも、この世界にも、私と同じことが起きていることを私たちが感じ取り、それらすべてが、あなたにある和解と平安、主の民の間の距離のない一致へと向けられていることを私たちが思い起こし、祈り、行動することが出来ますよう、私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。