2月28日(日)受難節第2主日礼拝説教 「私と集めないか。」
更新日: 2021.03.04
2021年受難節第2主日(2021,2,28)礼拝説教 牧師 野田和人
イザヤ書35章1~10節、マタイによる福音書12章22~32節
牧会祈祷
愛と憐れみの主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2021年の受難節第2の主の日に私たちを呼び集め、一所に集まるのではない様々な形で共に御言葉に聴き、賛美の声を合わせる幸いへと招いてくださいました御恵みを、心より感謝いたします。
この新たな主の日の礼拝を通して、御言葉と聖霊によって私たちの頑なな心を砕き、悔い改めた心をもってそれぞれの生活の現場へと赴かせてください。
私たちは今、主イエスの受難を思う時を過ごしています。あなたは、自分自身の傲慢さに気付かない私たちをその闇から掬い上げるために、闇を覆う光として御子主イエスを遣わしてくださいました。私たちは誘惑に弱く、私たちの主に依り頼む他はありません。私たちがその主の光を闇で覆うことのないように、どうかあなたの力によって私たちを従順へと導き、私たちに主の十字架の下に立つ勇気を与えてください。
私たちの中には心や体に弱さや痛みを覚えている者が数多くいます。また、あなたが私たちに授けてくださった賜物を精一杯生かしたいと願いながら、その機会を見出せない者も数多くいます。あなたはすべてをご存じですから、そのお一人おひとりに必要な慰めと励ましとを与え、またあなたの御心に適うようにお一人おひとりを用いてくださいますように。
昨日御許へと召された、私たちの敬愛するお一人の姉妹を覚えて祈ります。あなたがその姉妹を、91年に及ぶ生涯を通して導いてくださり、あなたへの信仰を与え、神さまと人に仕える主の証し人として十分に用いてくださいましたことを心より感謝いたします。地上に残されたご家族、ご近親、また姉妹と親しい交わりを持たれたお一人おひとりの上に、あなたの慰めと平安が豊かにありますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
説 教 「私と集めないか。」
今日与えられた、後からお読みした新約聖書のマタイによる福音書の聖書箇所の一つに次のようにあります。30節です。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」。この前半部の言葉、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し」という言葉に、まあ普通によく聞く言葉かも知れませんが、皆さんはこの言葉にお聞き覚えはないでしょうか。
もう10年以上も前になりますが、この言葉はアメリカ合衆国の元の大統領であったJ.ブッシュさんが、当時アメリカ主導でイラクに制裁を加えようとしていた時、アメリカの同盟国やその他の国の指導者たちに対して語った言葉でした。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し」ている、「私の側につかない者は、すなわち私の敵である」と。“Show the flag!”と言う言葉もありましたね。
「私の側につかない者は、すなわち私の敵である」-「わたしに味方しない者はわたしに敵対している」。たいへん傲慢な言葉に聞こえますが、彼はこの言葉を今日の聖書箇所から引用したのでしょう。そうすると問題は、この言葉はイエスさまが語られた言葉ですから、イエスさまが語られた言葉とブッシュさんが語った言葉の一体どこが違うのかということになります。
ブッシュさんが「聖書にはこう書いてある」と言った時、確かにそう書いてあるわけですが、その時、「確かに聖書にはそう書いてあるけれども、あなたが言っているような意味ではありません」と、私たちははっきりと弁明できるでしょうか。
聖書の一つの語句、一節だけを取り出して自分の都合のよい文脈に入れて、聖書が本当に伝えようとしていることをねじ曲げてしまうと、今度は、前の大統領のトランプさんがよく言っていた“alternative fact”-「もう一つの事実」になりかねません。
「聖書から自由に、しかし聖書から離れず」といった、私たちの聖書解釈、聖書理解の大胆さを裏打ちする慎重さ、敬虔さの必要性、私たちが聖書を大胆に解釈、また理解するために、慎重さ、敬虔さを欠くことは決して出来ないことを痛感します。
今日のマタイによる福音書のお話は「そのとき、」で始まりますが、それ以前に、イエスさまは出身地のガリラヤの町や村で病を癒し、悪霊を祓い、不信仰を叱り、律法を読み違えている者たちを糺しておられました。そこにはイエスさまを通して、イエスさまを遣わされた神さまの力がみなぎっていました。そこで癒された一人ひとりは、それまで彼らを捕らえていた悪の力から解放され、自分が生まれ変わるほどの人生の転換を経験していました。そう、悔い改めを経験していました。悔い改めとは、自分が生まれ変わるほどの人生の転換を意味しています。
今日の箇所でも、イエスさまはイエスさまのところに連れて来られた一人の人に深く関わられ、再び尋常ではないことが起こります。目が見えず、口の利けない人の目が見え、ものが言えるようになったのです。一人の人間が悪霊の支配から解放された瞬間、旧約聖書の預言者、イザヤの預言の成就です。「神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く」(イザヤ35:4e,5)。
出来事はこれだけですが、ここから論争が始まります。ただこれは論争と言うよりも、論争相手の語る言葉の奥にあるもの、裏側にあるものをえぐり出すような、イエスさまによる宣言と言って良いものかも知れません。
そこにいたすべての人たちが驚きました。この驚きは単なる驚きではなく、茫然自失、正気を失うほどに驚いたということです。そのことが「もしかすると、このイエスという人物がダビデの子、すなわちメシアではないだろうか」との群衆の予感、期待へと繋がっていきます。ただ群衆のこの驚きや期待だけでは、やがて権力者たちにも唆されて「このイエスを十字架につけろ!」と叫ぶことになりかねません。
私たちも知っていますように実際そうなったのですが、群衆はここで、目が見えず口の利けない一人の人に対してイエスさまが示された、弱く、虐げられた者を生かす神さまの救いの業に身を委ねて、そのイエスに従っていくのかどうかのチャレンジを受けています。そしてファリサイ派の人たちの反応は、このチャレンジを、ブッシュさんが語ったような、私たちの間の敵意を煽るものとして受け取ったように見えます。それが、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」という彼らの言葉となって、そのようなレッテル貼りとなって現れたのでした。
ファリサイ派の人たちに対しては次のような評価もありました。彼らは、「善と悪についての知識ゆえに、神に感謝しつつ、神の栄誉のために彼らの隣人と自分自身とを厳しく裁く素晴らしい人たちである」と。けれども、イエスさまを通して現された神さまの業を彼らが目の当たりにした途端、彼らはそれが自分たちの権威に敵対するものであると考えて、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」という苦しまぎれの非難をイエスさまに投げつけたのでした。
これに対してイエスさまは反論されたわけですが、一言でいえば、「あなたたちの私への非難はナンセンスそのもの、全く意味のないものである」というものでした。「あなたたちの仲間である魔術師たちも私と同じようなことをしているが、では彼らには何と言うのか。彼らの存在そのものがあなたたちの偽善性を明らかにして、あなたたちを裁くものとなっている」と、彼らこそが悪霊の支配の下にあることを看破されます。そして、彼らとイエスさまご自身との違いを述べられるのです。
「私のこの悪霊祓いの業は、全く神の霊に依っているのであって、そうであれば、神の国はすでにここに来ているのだ。それはあなたたちファリサイ派の者たちのところにも来ている」。「サタンはすでに縛り上げられて、そのサタンの家をいわば略奪する用意は整っている。すなわち私において働いている神の霊の力によって、悪の支配下にあった人たちは解放され、神の支配下へと移される。神の国はそのような仕方であなたたちの上にも臨むのだ」と。
「神の霊」は、ルカによる福音書の並行箇所では「神の指」と記されており、イエスさまはこの後の箇所でも、「ここにヨナにもソロモンにもまさるものがある」との言葉で、神の霊の力を一身に担う者としてのご自身を現されながら、まさに「神の指」となって悪霊を追い出されました。
イエスさまにとって、悪霊を祓い、病を癒し、その人の体や心の障がいを取り除くことは、その一人の人間が神さまから無条件の祝福を受けていることを、その人の目に見える形で、あるいはその人の心で感じる形で表すことであり、その人において神の国が到来しているということの「しるし」でした。
イエスさまはこうして、ファリサイ派の人たちの言葉の奥にあるもの、裏側を表に出して、神の国の到来を、ご自分の、サタンに対する勝利を明らかにして、そのイエスと共に集めるようにと、すべての人に対して決断を促すのです。「わたしと一緒に集めないか」と、私たちすべてをその決断へと招かれるのです。それが30節の激しい言葉となって現れたのでした。「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」。
「わたしに味方しない者は敵」ということは、「はい」と「いいえ」の中間の「どちらでもない」という選択はないということです。イエスさまに対していわゆる中立はあり得ないということです。中立があり得ないということでは、ブッシュさんの「私の側につかない者は、すなわち私の敵である」との言葉と何も変わらないように思いますが、根本的に違っているのは、ブッシュさんの言葉は、それがたとえ神さまの名において語られた言葉であったとしても、そもそもの最初から敵を作り出すことを目的として語られているというところにあります。
ファリサイ派の人たちの反応も同じでした。彼らの偽善性は、神さまに栄光は帰するのだけれども、自分たちの持っている権威を超えない範囲で、自分たちの権威を脅かすことのない神の力ならば認めようといった、明らかな矛盾、本末転倒にありました。
ですからいともたやすく敵を作り出し、イエスさまを通してこの地上に現される神さまの業を見ない、それが見えないとうことになるのではないでしょうか。
そしてこれは、ブッシュさんの名前ばかり出して申しわけないのですが、ブッシュさんやファリサイ派の人たちだけに限らず、聖霊の力は、キリスト教の神さまを信じる自分たちにだけ注がれていると考え違いをしているクリスチャンや、特にキリスト教会がよく陥る危険でもあります。「教会の外には救いはない」と考えて、教会の壁の外に立っておられるキリストに気付かないのです。そこでたとえ敵を作り出すつもりがなくとも、そうした自分たちの言動が敵を作り出していることに気付かないのです。
イエスさまに対しての中立はあり得ないというのは、もうこの御子イエス・キリストに望みをかけるしかないということです。それはこの御子において、先週のお話にもありましたが、あの荒れ野の誘惑では人間的な弱さの極みにおいてサタンと対決されたこの御子においてのみ、周縁へと押しやられ、叫びともならない呻きをあげている者をも生かしてくださる神さまの霊が働いているからです。
イエス・キリストのこの地上における一切の権威は、この生ける神さまの霊が地上の隅々にまで働いており、イエスさまがその働きに共に与っておられるところにあります。イエスさまご自身がもちろん働かれるのですが、そのイエスさまを通して、父なる神の霊が、ファリサイ派の人たちも含めてすべての人たちの上に働いているということ、このことを信じるか否かなのです。
この世界を愛し、救おうとされる神さまの霊は、ユダヤ人だけにではなく、ファリサイ派の人たちだけにでもなく、ましてキリスト教会だけに働きかけているのでもなく、この世界すべてに働きかけて、私たちが、キリストの体である教会を通して、神さまとの和解に、敵対ではなく神さまとの和解に共に与るようにと私たちを招き入れてくださっています。
このことを、主イエス・キリストがご自身の十字架を通して私たちの目に見えるものにしてくださった、私たちの心で感じるものにしてくださった、ここに私たちがこの御子にのみ望みをかける根拠がありますし、これ以外の選択肢はないのです。
「わたしたちは多くいても、キリストにおいて一つの体です」(ローマ12:5)との使徒パウロの言葉が意味しているのは、私たち一人ひとりは、そして教会は、他の人たちのために存在するように召し出されているということです。「多くいるわたしたちがキリストにおいて一つである」のは、その一人ひとりは、隣人のために、他の人たちのために存在するように召し出されているからであり、それぞれが敵を作り出すためではないということです。
これがキリストの「選び」です。すべての人がこの「わたしと一緒に集めないか」とのキリストの選びに招かれています。そしてそのイエス・キリストは、今十字架への道行きを歩まれながら、私たちがこの選びをすることから、私たちを妨げようとする外からの、そして私たち自身の内からの誘惑に引きずられることのないようにと、2000年前と同じように、私たちが主イエスの十字架の道行きをお祈りに覚えるよりも先に、父なる神さまに祈ってくださっています。
祈ります。神さま、私たちの主の、私たちのための祈りを、「わたしと一緒に集めないか」との主の祈りを私たちが素直に受け入れることが出来ますよう、私たちの間の敵意を滅ぼしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。