牧師メッセージ

3月7日(日)受難節第3主日礼拝説教 「ペトロ(岩)とサタン」

更新日: 2021.03.13

2021年受難節第3主日(2021.3.7)礼拝説教     牧師 野田和人
ヨブ記1章1~12節、マタイによる福音書16章13~28節

牧会祈祷
 今日は、今週の3月11日で発生から10年を迎える東日本大震災を覚えて祈ります。
 
 神さま、主の年2021年の受難節第3週の今週の木曜日、3月11日であの東日本大震災から10年になります。私たちにとってはとても大きな試練でした。
 神さまの御心が見えなくなり、神さまへの信頼の思いが揺さぶられる時でもありました。あなたの造られた大自然の秘められた脅威も味わい、私たち人間の小ささ、弱さを思い知らされました。
 しかし、その試練と困難の中で私たちは祈ることができました。執り成されることの安堵感、執り成し合うことの喜びも味わいました。何よりも神さま、あなたが、あの被災地で、この被災地で深い嘆きと悲しみに襲われた人々の傍らにいてくださり、その人たちと共に悩み、苦しみ、そのところから慰めと勇気とを与えてくださったことに心より感謝いたします。
 
 神さま、私たちは自然災害への恐れと同時に、人災としか言いようのない大事故も経験しました。適切な処理のために途方もない歳月と労力が必要です。
 私たち人類の文明の在り方そのものにあらためて私たちの目を向けさせ、私たちに深刻な反省を迫る大きな犠牲をともなったこの試練と、私たちが他人事ではなくしっかりと向き合い、あなたが極めて良しとされた被造世界の存続のために私たちに与えられたあらゆる知恵を用いて、そのための努力を私たちが怠ることのないよう、私たちを導いてください。
 
 この10年間、数え切れない悲しみの上にも積み重ねられてきた、あなたが導いてくださった、お互いの心と心を通い合わせる希望を携えて、これからも続く再生への営みを、私たちが忍耐と喜びとをもって互いに助け合いながら進めていくことができますよう、私たちを力づけてください。
 復活の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

参考)東日本大震災三周年記念礼拝式文 連祷/『礼拝と音楽』No.160,20~21頁

説  教         「ペトロ(岩)とサタン」
 今日皆さんが座っておられるお隣りの席はすべて予約席となっていますが、ペトロさんのお席のお隣りに座っておられる方はいらっしゃるでしょうか。どうぞご自分の左右の席をご覧になってください。こういう「こちらはペトロさんのお席です」という張り紙がありますか。ペトロさんの席のお隣りの方、おられましたら手をお上げください。ああ、何人かおられますね。おめでとうございます。特に差し上げるものは何もありませんが、今日のお話の主役のお隣りにおられるということで、おめでとうございます!

 今日最初にお読みした旧約聖書のヨブ記の初めに登場してくるサタンは、主に答えました。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」。利益もないのに人は神さまを敬うでしょうか。どうでしょうか。皆さんは、利益もないのに神さまを敬われるでしょうか。どうでしょうか。
 私たちは神さまを信じていると思っていますが、また確かに信じていますが、それはそのことが、神さまを信じるということが、例えば「安心」という利益を私たちにもたらしてくれるからでしょうか。サタンの語る利益とは、例えば家内安全、商売繁盛といった、いわゆる「御利益(ごりやく)」のことと考えていいでしょう。私たちは御利益を求めて信じるのでしょうか。御利益が救いになるのでしょうか。
 
 最近洗礼を受けられた方もここには多くおられますが、洗礼を受けられる前に、受洗を望んでおられる方と私とで行う洗礼準備会で、洗礼を受けてクリスチャンになろうと決心しておられる方に最初にするお話は次のようなお話です。
お聞きになったことがあるかと思いますが、「ある青年が牧師にこんな質問をしました。『キリスト教では救われるまでに何日くらいかかりますか。費用はいくらくらいでしょうか』。すると牧師はこう答えました。『キリスト教の信仰というのは、「何日くらい」という問題ではなく、私たちの「一生」にかかわる問題です。また「いくらくらい」という問題ではなく、私たちの「すべて」にかかわる問題です。信仰とは、私たちが生涯にわたって、私たちの生活の全領域にわたって神さまにかかわるという出来事です』と」。
 これは、私たちが例えば参加費を払って一定期間の研修を積めばそれで救われる、というわけではないということを表しています。信仰は、費用対効果=コスト・パフォーマンスではないということです。大切なことは、私たちが私たちにとっての利益というものをどう捉えるかというところにあります。
 サタンの語る利益は、まさに何日かかけて、いくらか払って得られるものです。もしそれで例えば「安心」という利益が得られれば、それがそのまま私たちの救いとなるのでしょうか。そうではないでしょう。

 信仰の利益、信仰のメリットとは、そのような、私たちの目に見える一部分にあるのではなく、私たちの生涯、私たちの生活の全領域にわたって染み渡っていくものなのだというのが、ヨブの神さまの、またペトロを叱責するイエスさまの答えだったのではないでしょうか。
 そうです。皆さんのお隣りに座っているペトロさんは、新約聖書の今日の物語の前半部の所で、私たちの目に見える一部分だけを見ていました。

 フィリポ・カイサリアは、カイサリアですから、カイザー/皇帝と呼ばれ、ユダヤ地方の北の端、地中海沿岸にあるユダヤ地方の北の端に位置していた町であったことから、皇帝礼拝をはじめ、様々な異教の神々が崇められていた所でした。そのような土地で、弟子たちは初めて、真正面からイエスさまの問いを受けたのでした。
 まず、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」。弟子たちの答えは、当時の人々がそうあってほしいと心から願っていた、その時代の理想的な人物像を超え出るものではありませんでした。そこでイエスさまは、人々はそうかも知れないが、あなたがたはどう思うのかと、最初から用意しておられた二番目の質問を弟子たちにぶつけられたのでした。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。
 弟子たちを代表してペトロが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」。答えの内容はさておき、内容については後から見ますが、この答えそのものは正しい答えでした。メシア=油注がれし者、それは、イエスさまの誕生の記事によれば「自分の民を罪から救う」(マタイ1:21)者-「救い主」であり、今も生きて人間の歴史の中で「我々と共に」(同1:23)-インマヌエル/私たちと共に-振舞っておられる神の子であるというわけですから。
 
 イエスさまはペトロのこの告白を聞かれ、それが天からの啓示に基づいてなされたものであることを明らかにして彼を祝福され、「あたたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。…わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」とまで言われたのでした。
 「人々の前で天の国を閉ざし」(同23:13)ていた律法学者たちとファリサイ派の人々に代わって、ペトロら弟子たちが天の国の鍵を譲り受けました。そして、メシアというものが、人々の最初の答えにあったように、それは人々がそうあってほしいと願っていた理想的な人物像だったわけですから、人の思いの産物であり、人の思いから出てくるものであると理解しがちな民衆に誤解を与えないように、イエスさまはご自分がメシアであることを誰にも話さないようにと、弟子たちに口止めをします。
 ところが、一番に誤解をしたのが弟子たちの代表者、後に私たちの代表者となるペトロであったことを聖書は伝えるのです。

 「岩」であったペトロがサタンと呼ばれるまでになったのは、場面が大きく転換する、イエスさまの最初の受難予告に原因がありました。イエスさまはここで、ご自身がメシアであるということを、父なる神さまによってご自分に定められた道を弟子たちに語ることで説明されます。すなわち、「メシアはエルサレムへ行かなければならないこと、そして、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活させられる、甦らされることがすでに神さまの意志によって定められている」ということです。
 イエスさまの語られたこのメシア像は、例えば、今大きな苦しみの中にあるユダヤの民の抑圧からの解放といった当時の民衆の様々な願望、それこそが自分たちにとっての利益だと思われていた事柄からは全くかけ離れており、ユダヤ教の指導者たちからでさえ理解されずに十字架につけられ、惨めに殺されていくメシアは、ユダヤ人にはまさにつまずきであり、異邦人とっては愚かなもの(Ⅰコリント1:21)でしかありませんでした。そして、この直前にイエスさまから祝福を受けたはずのペトロでさえも、このメシア像を受け入れることはできませんでした。

 イエスさまはなぜここでご自分の受難予告をされたのでしょうか。シモン・バルヨナ、ヨナの息子シモンであるペトロが「岩」であるから、今ここで彼に何を言っても決して心の揺らぐことのない「岩」であるから、ご自身の十字架への道行きを明かされたのでしょうか。そうではないと思います。
 ここでの「岩」とは何でしょう。それが、私たちがイメージするように、目に見えて固くしっかりしているということであるのならば、それは一部分しか見えていないことになるのではないでしょうか。人が求める救い主しか見えていないのではないでしょうか。そしてそれがサタンなのです。
 「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。「あなたはわたしの邪魔をする者」-あなたは、人々がわたしのところへと進んで来る道にころがっているつまずきの石だと言われるのです。ひどい言葉ですよね。岩だったのに。

 では、イエスさまはなぜ彼を「ペトロ-岩」と呼ばれたのでしょうか。それは、私たちが普通に考える、目に見えて固くしっかりしているという意味でそう呼ばれたのではなくて、人の思いでガチガチになっている自分を捨て、自らのすべてを、自分の生涯と生活の全領域を創造主なる主なる神さまに委ねることを通して、人が神さまの前で揺るぎのない者として立つということを意味する「岩」なのではないでしょうか。それがここでの「岩」-ペトロなのです。
そしてペトロが、自らのすべてを、自分の生涯と生活の全領域を創造主なる主なる神さまに委ねることを通して神さまの前で揺るぎのない者として立つ岩となるためには、主の十字架がどうしても必要だったのです。

 「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白の内容は、私たちがただイエスさまと一緒にいることに喜びや安心を覚えるというものではなく、確かに私たちはイエスさまと一緒にいることで喜びや安心を覚えますが、ただそれだけではなく、「神の御子は、私たちのために、私たちを罪の闇から掬い上げるためにこの世界に来られ、そのために苦しみを受け、十字架で殺され、三日目に甦らされた」ということを、私の全存在を賭けて信じるということです。
 けれども、私たちの日々の生活の中では、私はイエスさまと一緒にいることで安心なんだという思いが自分の中の大きなスペースを占めていて、私の中に主の十字架の居場所、スペースはほとんどないというのが私たちの実情ではないでしょうか。

 ここで、「自分の十字架を背負って」というのは、自分の重荷を背負ってということではありません。そういうことではなくて、私たちが恐れずに十字架の主の苦しみを共にするということです。そしてそれが主に従うということなのです。
 キリストは、人の思いでいっぱいの私たちの心の中に、私たちの生活の中に、神さまの思いの詰まったスペースを十分に空けるためにご自分の命を投げ出してくださったということ、このことがなかなか分からない私たちですが、そんな私たちのために、今、このレント/受難節の期節があります。

 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。イエスさまのこの問いに対する答えが、私たちの生涯の一時期、私たちの生活の一部分ではなく、私たちの生涯と生活の全領域のすべてにわたって染み渡っていくこと、ここに私たちの信仰のメリット、信仰の利益もあるのではないでしょうか。

 イエスさまはこの後、ここまで言われてもそれでも三度、イエスさまのことを知らないと言ってしまうペトロの前で次のように祈られました。今日の旧約聖書のヨブから新約聖書のペトロへと至る物語を、イエスさまのお言葉で表すとすれば、こんな風になるのかなあという祈りです。これはルカによる福音書からのものですが、おそらく皆さんもよくご存じの祈りです。
 「シモン、シモン、サタンはあなたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31)。
 祈りましょう。

 神さま、私たちにもし利益というものがあるのならば、それは私たちすべてが、どのような者も共に、あなたの前で、十字架と復活のキリストによって、いついかなる時にも等しく生かされているというところにあるのではないでしょうか。
 キリストにおいて、私たちの間に垣根はありません。どうか私たちをあなたに、主イエスに従うものとならせてください。
 主の御名によって祈ります。アーメン。

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