牧師メッセージ

3月14日(日)受難節第4主日礼拝説教 「高い山の向こう」

更新日: 2021.03.19

2021年受難節第4主日(2021.3.14)礼拝説教     牧師 野田和人
出エジプト記24章1~11節、マタイによる福音書17章1~13節

牧会祈祷
 慈愛に富み給う、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2021年の受難節第4主日を迎え、敬愛する姉妹、兄弟、また神の家族のお一人おひとりと共にこの御堂へと召し出されて、あるいはリモートで、あるいはこの礼拝の時を覚えて祈りの内に、あなたへの礼拝をささげることのできる大きな恵みに心より感謝いたします。
 
憐れみ深い神さま、私たちは一つの世界で暮らす者として、今日、十字架の下で互いに出会います。互いに傷つけあってしまう者として、正義を行うことを拒んでしまう者として、貪欲で、権力に頼ってしまう者として、他者を裁き、善いものを受け入れることを拒んでしまう者として、この世界での苦しみを恐れてしまう者として、この十字架の下で互いに出会います。神さま、どうか私たちを憐れんでください。
 あらゆる痛みを背負ってくださる神さま、私たちはこの世界のすべての苦しみをあなたに差し出し、共に担っていただくためにこの礼拝をささげています。あなたが私たちと共にいてくださいます。
 あらゆる不条理が行われているところで、私たちは涙を流して待っています。私たちは、この地上で最も深い闇に包まれた場所に十字架から来る希望をあなたと共に運んで行きたいと、待ち望んでいます。
 痛みで覆われ、愛の失われているところに、あなたの愛の光を輝かせてください。永遠の神さま、私たちの心の奥底にある闇を訪れ、十字架の輝きによって照らしてください。すべての痛みを担ってくださる神さま、どうか私たちを憐れんでください。

 今日、この礼拝に先立って私たちの教会学校の卒業礼拝が行われましたが、この世界の未来を担う、私たちの愛する子どもたちの小さな一歩一歩の積み重ねを導き、お支えください。子どもたちの未来と共に私たちの未来もあることを、その道筋を主のご受難が整えてくださったことを私たちに覚えさせてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

説  教          「高い山の向こう」
 神戸栄光教会には、山登り、登山に親しんでおられる、登山を趣味の一つとしておられる方が多くいらっしゃいますが、日本百名山を完登された教会員のお一人に、今日はお休みのようですが、昨日の、その方のご長男の結婚式の前に、その方が教会の玄関ロビーで今日の礼拝の説教題の看板をご覧になって「高い山の向こうか…」とつぶやいておられたので、「…さん、高い山の向こうには何がありますか」とお尋ねしたところ、しばらく考えられて「空が見えるね」と答えてくださいました。
 「へえ、そういうことなのか」と思いました。イエスさまに連れられて登った高い山の上で、ペトロら三人には、自分たちの目の前に広がっていた空は見えていなかったのだろうなあというのが、その方の答えをお聞きしてから今日の新約聖書のお話を読んだ後の印象です。

 今日最初にお読みした旧約聖書の出エジプト記24章は、神の民であるイスラエルの人々が、かつて捕らえられていたエジプトの国を出て三ヵ月目に到着したシナイの荒れ野で、十戒をはじめとして主の民に与えられる数々の戒め-律法についてのシナイ山での契約締結の場面が記されている箇所ですが、これら契約も含めて、ここへと至るエクソダス-出エジプトの出来事は、イスラエルの民にとって共同の記憶となりました。
 彼らは、「私たちはエジプトから導き出され、海を渡り、これらの掟を与えられ、主を畏れる者として、今日あるように常に幸いに生きる者とされた」と語り継ぎ、この共同の記憶が、彼らの主なる神さまに彼らが信頼する原動力となって、神の民としてのイスラエル共同体を形作っていきました。
 同じように、今日後からお読みした新約聖書の箇所、出エジプトを率いたモーセも登場する場面、ペトロら三人が高い山の上で目撃したイエスさまの変貌の出来事は、ここから起こされていった私たちキリストの教会全体の共同の記憶、私たちが主に従う歩みを導く、私たちにとっての共同の記憶となった出来事だと言うことができます。

 イエスさまは今日の出来事の一週間前、弟子たちにご自分が何者であるかを問われました。そこでペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と告白するに至りましたが、それは天の父からの、天からの啓示によるものでした。そして、この正しい答えへと導かれたペトロは、今度はその告白の内容について、イエスさまがメシアであられるということが一体どのような意味を持っているのかということについて学ばなければなりませんでした。
 メシアであるということは、メシアであられるイエスさまが、私たちの誰もがそれを手に入れたいと心底思っているこの世の力、この世の権力によってこの世界を支配されるということではなくて、「神の御子は、私たちのために、私たちを罪の闇から掬い上げるためにこの世界に来られ、そのために苦しみを受け、十字架で殺され、三日目に甦らされた」ことを通して世界を支配される、メシアであるということは、その苦しみによって、メシアが苦しまれることを通してこの世界を支配されるのだということを、ペトロは学ばなければなりませんでした。
 
 「人間の裂かれた状態は、神が裂かれないままでは癒されない」(小山晃佑氏)と言われます。「人間の裂かれた状態は、神が裂かれないままでは癒されない」。
 この世における私たちの罪の状態-私たちの体を引き裂くようなこの世界の暴力(人間の裂かれた状態)は、多くの人のために裂かれた神の御子、イエス・キリストの体によって、その十字架の死と復活によって打ち負かされる(癒される)ということです。
 マタイによる福音書はこれまでに、「イエスとは誰か」-イエスさまとはどのようなお方かについての第一部から、イエスさまの言葉と行い、イエスさまの言動を通して神さまの意志と力が示される第二部のガリラヤ宣教へと進んできましたが、第三部のイエス・キリストの受難物語はこのようにして始まりました。

 そして一週間ほど経った頃、ペトロら三人はイエスさまに高い山へ連れて行かれます。かつてサタンは、荒れ野でのイエスさまに対する三度目の誘惑の際、イエスさまを非常に高い山へ連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりをイエスさまに見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(マタイ4:9)と言い放ちました。ここではペトロらがイエスさまに高い山へ連れて行かれます。そこで、ペトロは再びチャレンジを受けることになったのでした。
 すると彼らの目の前でイエスさまの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。見ると、旧約聖書の律法を代表するモーセと、預言者を代表するエリヤと一緒に、イエスさまがそこで語り合っているようにペトロらには見えました。
 この状況は、神さまが人々を召し出されて聖なる者として一つとされ、神さまの御業のために用いられるモーセやエリヤといった人たちの中に、イエスさまも属していることを表しているように見えます。ペトロもそのように理解して、三つの仮小屋を建て、イエスさまと偉大な先達たちの三人が共に崇められるようにしたいと申し出たのだと思います。無理もないことではなかったでしょうか。
 ただペトロはこの時、事柄の半分も理解してはいませんでした。ペトロはここで高い山だけを見ていました。それが頂点であり、結果だと思ったのです。その向こうに広がる空と大地を、彼はこの時見てはいませんでした。そしてこの後に起こった出来事によって、このペトロの申し出が正しくなかったことが明かされるのでした。

 この物語は、啓示-あらわし示すこと-の物語と言われるものです。私たちの理解や洞察というものは、私たちがただ物事を経験的に分かるということだけではなく、そうした理解を私たちが贈り物のように受け取ることだとも言われます。私たちが経験的に分かるものだけが私たちの理解や洞察なのではなく、私たちは啓示を通してそれらを贈り物のように受け取るのです。
 辛抱強く、注意深く待つことを通して、ある瞬間、理解が訪れ、洞察へと突き抜ける。それが啓示の瞬間であり、今ここでペトロらに起きていることだと言えるでしょう。

 イスラエルの二人の偉大な教師に対してと同じようにイエスさまに仕えようとしたペトロは、直ちにその間違いを正されます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」との神さまの声を通して。この声はイエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられる場面でも響いていた声です。神さまはこの声を通して、ペトロの一週間前の告白、「あなたはメシア。生ける神の子です」との告白を、ペトロにあらためて思い起こさせようとしたのではないでしょうか。
 イエスさまは確かに、神さまが人々を召し出されて聖なる者として一つとされ、神さまの御業のために用いられる人たちの中に属してはおられますけれども、だからといって、イエスさまがもう一人の律法学者である、あるいはもう一人の偉大な預言者であるというわけではないということです。そのような見方は結局、「神のことを思わず、人間のことを思っている」(マタイ16:23)ことになるということです。

 ここで語られていることは、イエスさまはメッセンジャー/使者-使いの者ではなく、メッセージそのものであるということです。イエスさまは使者/メッセンジャーではなく、メッセージ/「人として来られた神の子-神の言(ことば)」そのものであるということです。このことにペトロの理解は及びませんでした。
 イエスさまの山上の変貌は、ペトロの一週間前の告白が本当に正しかったことを神さまが確証された出来事と言えるでしょう。ここでは、神さまの側が忍耐強く、注意深く待っていてくださったことを通して、私たちに洞察の瞬間、啓示の瞬間が与えられたと言うことができます。
 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。そうです。生ける神の子であられるキリストご自身がメッセージそのもの、神の言であるということです。

 「わたしの心に適う者」と言う言葉は、何度かお話ししましたが、今朝の礼拝の招きの言葉でも語られましたが、この言葉がそこから取られている、イザヤ書42章(1節)では「わたしが喜び迎える者」と言うことです。どのような意味で神さまが喜ばれるかと言いますと、イザヤ書のこの箇所がまさに主の僕、苦難の僕の召命の箇所であるがゆえに、イエスさまご自身が自らそうであると言われた方、苦難のメシアであられるという意味で喜ばれる、神さまはイエスさまがご自分の苦難の僕という役割を従順に受け入れられることを喜ばれるということです。
 そのようにして人となられた神の子が、すなわち神が引き裂かれることが、ただそれだけが、私たち人間の裂かれた状態、打ちひしがれた様を癒すことができるのです。
 「これに聞け」と、神さまは私たちが罪の支配の闇から掬い上げられ、真実な者へと造り変えられていくようにと、私たちに語りかけてくださっています。
 私たちはこの声に辛抱強く、注意深く聴くことによって、ペトロらと同じように啓示の瞬間へと入れられ、メッセージそのものとしてのイエスさまを素直に受け入れることができるのではないでしょうか。
 
 「彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった」。彼らはハッとしたのではないでしょうか。彼らはハッとしたのです。この言葉は、彼らがイエスさまというメッセージそのものをはっきりと見たということだと思うのです。高い山の向こうに広がる空と大地を、彼らがこれから進み行かなければならない道程(みちのり)を、彼らが見たということだと思うのです。
 私たちも、「これに聞け」との声を受けて畏れつつ顔を上げて見る時、この私と共にいてくださる主の僕、苦難の僕としての主イエスをはっきりと見ることができるのではないでしょうか。そしてそれが、私たちの共同の記憶となって、私たち教会の共同の記憶となって、この地上で私たちが平和の主に従う歩みを進めていくための大きな力となるのだと思います。
 祈りましょう。

 神さま、私たちが、今日様々な形でこの礼拝へと招かれたお一人おひとりと共に、またその場に集い得ないお一人おひとりとも共に、主による救いという、連綿と受け継がれてきている私たちの共同の記憶を堅く保ち、私たちの生活の中に染み込ませていくことができますよう、私たちを導いてください。
 主の御名によって祈ります。アーメン。

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