牧師メッセージ

3月28日(日)受難節第6主日礼拝説教「神の子なら」

更新日: 2021.04.02

2021年受難節第6主日/棕梠の主日(2021.3.28)礼拝説教  牧師 野田和人
哀歌5章15~22節、マタイによる福音書27章32~56節

牧会祈祷
 憐れみと慈愛に富み給う、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、贖いの主を仰ぎ見る、世にあるすべての信仰の友と共に、この受難節第6主日、棕梠の主日の礼拝へと、私たち一人ひとりが様々な形で召し出されている恵みを心から感謝し、深い悔い改めと大いなる喜びとをもって、この礼拝をおささげいたします。
 私たちは、私たちを取り囲んでいる、私たちの命を脅かす様々な力に不安や憤り、また焦りを覚えますけれども、私たちの主の十字架と復活ゆえに、それら不安や憤り、また焦りから離れて、主にある命に生かされる信頼へと導かれていることも覚えて、感謝いたします。

 先週の主日、あなたによって建てられた私たちの愛する神戸栄光教会は、2020年度の、主によって導かれた歩みを振り返りつつ、2021年度へ向けて、あなたによって与えられた和解の福音をこの地に宣べ伝える業を継続、更新すべく、教会総会の時を持ちました。受難週から始まる新しい年度の初めから終わりまでも、あなたの忍耐と促し、そして力強いお導きの御手のうちに私たちを置いてください。
 新しい年度も、賛美と御言葉と祈りによって私たちが主と共に一つに結びつけられる主日礼拝を、オンライン・オフラインを融合させて感謝と喜びとをもって誠実にささげ、篤い祈りの内に、教会につらなる神の家族の一人ひとりとして、あなたと繋がる手をあなたの愛するすべての人と繋いで主の平和の道を進むことができますよう、私たちを助け起こし、支えてください。

 今、困難や苦しみ、痛みの中にある友一人ひとりの上に、あなたの慰めと十分な癒し、平安が与えられますよう、心よりお祈りいたします。
 この祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。
 アーメン。

説  教           「神の子なら」
 皆さんは、十字架上の七言(しちごん)-イエスさまが十字架上で語られた七つの言葉のことですが-「十字架上の七言」ということをお聞きになったことがあるかと思います。七つの言葉すべてを覚えているという方もおられるでしょうか。
 これら七つの言葉はすべて福音書に記されているもので、ルカによる福音書に三つ、ヨハネによる福音書に三つ、そして今日お読みしたマタイによる福音書に一つ、三つ、三つ、一つの全部で七つです。
 まず、ルカによる福音書(23:34)の「父よ、彼らをお赦しください。自分たちが何をしているのか知らないのです」に始まり、同じルカ(23:43)の「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と続き、三番目がヨハネによる福音書(19:26)の「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」。そして今日お読みしたマタイによる福音書(27:46)の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と来て、五番目、六番目にヨハネ(19:28)の「渇く」、「成し遂げられた」(19:30)と続き、最後七番目がルカ(23:46)の「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」というものです。

 ルカによる福音書とヨハネによる福音書にそれぞれ三つずつある言葉のうち、「渇く」以外のもの、「父よ、彼らをお赦しください」、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」、「成し遂げられた」、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」といった言葉は、十字架を前にしてもなお、それを神さまの御心、ご意志として受け入れ、神さまの赦しと神さまへの信頼を語っているもので、そこからは、本当に慈愛に満ちた父なる神さまへの信頼に生きるイエスさまの姿を伺い知ることができます。

 けれども残りの一つは、一種異様な、理解に苦しむ言葉です。今日お読みしたマタイによる福音書とマルコによる福音書(15:34)だけにある、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」-「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」です。
 この言葉は、今日最初にお読みした旧約聖書哀歌の5章20節「なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ、果てしなく見捨てておかれるのですか」や、22節「あなたは激しく憤り、わたしたちをまったく見捨てられました」といった哀歌の詩人の嘆きとも深い関係にあるものであり、特に皆さんもよく存じの詩編22編1節の言葉-詩編22編は元来主なる神さまへの信頼を謳った詩編ですが-その第1節の言葉、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」から取られたものです。

 イエスさまはご自分が十字架につけられて殺されること、すなわちご自身の苦難と死を、これまでにすでに三度も公然と予告をしておられました。そしてそれは、すべての人を罪の支配から解き放つための、すべての人を罪の支配から贖い出すための身代金として、ご自分の命を贖いの献げ物とするためでした。そしてそのことを通して、私たちの無知や過ち、愚かさや裏切りにもかかわらず、仕えること、愛することの究極の形をイエスさまが私たちに示してくださったことを、私たちはこの受難週の礼拝で見ることになります。
 そのイエスさまが、ここでは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と悲痛で絶望的な叫びを上げておられるのです。
 この場面の直前、ゲツセマネではイエスさまはこのように祈られました。「父よ、できることなら、この杯を-杯とは十字架のことですが-この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)。それに続けて、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに-あなたのご意志の通りに」(同)。
 ゲツセマネでの「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、御心のままに」という不安と信頼のせめぎ合う思いが、ここではさらに追い詰められた形で、人となられた神の子イエスさまの孤独で絶望的な叫びへと変わっています。

 イエスさまはここで、死そのものではなく、見捨てられることへの恐れを抱いておられたのではないでしょうか。まさに肉の形をとってこの世へと来られたイエスさまだったからこそ、その肉体の死によって神さまから離されてしまうこと、神さまから離れてしまうこと、すべてが無に帰してしまうことに恐れおののかれたのではないでしょうか。
 この恐れとおののきこそが、イエスさまが私たちと同じ肉の形をとって、肉をまとわれて、へりくだってこの世界へと来られたことの証となっています。
 そのイエスさまを、使徒パウロの言葉によれば「罪と何のかかわりもない方を、神がわたしたちのために罪とされ」(Ⅱコリント5:21)、「呪われた」(ガラテヤ3:13)ことによって、イエスさまは現実の死を味わわれることになりました。ここに、私たちがイエスさまを私たちの救い主、キリストであると告白する所以があります。

 ただ、それまでいつもイエスさまと共におられ、イエスさまがそのために生き、そのために苦しみ、愛された神さまは、今や十字架上で不当な死を迎えようとしているイエスさまに対して、その叫びに対して、一言も応えられないのです。全く沈黙されたままなのです。この完全な沈黙の前で、あなたから離れることのないようにとの切実な思いを抱きながら、神さまから見捨てられることを、十字架の死をイエスさまが引き受けられたということ、そこに私たちは、今度は、イエスさまの神の子たる所以を見ます。
 イエスさまの孤独で絶望的な叫び、その恐れとおおのきが、イエスさまが私たちと同じ肉の形をとって、人となってへりくだってこの世界へと来られたことの証となり、しかしそこで父なる神から見捨てられること、十字架の死をイエスさまが引き受けられたところに、イエスさまの神の子たる証があるということです。

 それと同時に、その同じ神さまの沈黙の前で、私たちは私たち人間の、それがどれほどの重さか全く知る由もない罪の重さを見ることにもなるのです。私たちは、私たちの罪が一体どのくらい重いのかを知りません。罪がどのくらい重いのかを全く分かっていません。
 ゴルゴタにおいて、私たちに代わって、そうすることで神さまの怒りと裁きからの解放を私たちに告げてくださった方は、神の御子であられ、その御子において神ご自身であられたということ、まさにそこに神さまの怒りと憐れみがあらわになっているわけですが、私たちの罪はこの神、ゴルゴタの丘の上の十字架にかけられたこの神ご自身によって贖われるしか他に方法がなかったというところに、私たちの知りようのない罪の重さが示されています。

 その具体的な描写が、今日お読みしたマタイによる福音書の箇所の前半部分に記されています。ここに記されているのは十字架刑そのものの描写ではなく、あらん限りの嘲り、罵り、侮辱をイエスさまに浴びせる見物人たち、ローマの兵士たち、ユダヤの人々や、祭司長を始めとするユダヤの宗教的指導者たちの姿ですが、私たち一人ひとりも十分この中に入ることのできるものです。
 特に「今すぐ十字架から降りるがいい」、「今すぐ救ってもらえ」の「今すぐ」という際限なく続く言葉に、たとえ降りようが、たとえ救われようが、それだけでは決して満足することのない、彼らの、また私たちの内にもある、私たちがどうしても捨てることのできない傲慢さを見ることができます。降りたら降りたで、救われたら救われたで、そこで終わるのではなく、次はあれをしろ、これをしろと際限なく続く、私たちの捨てきれない傲慢さをここに見ることができます。

 「神の子なら、自分を救ってみろ」-「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ」、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」-サタンの誘惑が響いています。この福音書の4章です。「イエスさま、あなたが神の子なら、あなたが神さまの子どもであられるのなら、何とかしてくださったらどうなのですか」。私たちもこんな風に言いそうですよね。どうでしょうか。
 けれどもそこで、私たちはイエスさまが私たちをすでに何とかしてくださっていることを忘れてしまっています。「神の子なら」ではなく、イエスさまが「神の子だから」、イエスさまが神の子であられたからこそ、私が今ここに立つことができているということを。このことを私たちは忘れてしまっています。
 罪と何の関わりもないイエスさまは、このような私たちの罪を引き受けられて現実の死を経験されるのです。その時の絶望的な叫びが、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」でした。

 この叫びに一言も応えてくださらない神さまの沈黙の前に、その捨てられようのあまりのひどさに、人は躓いてしまいます。また、同じ神さまの沈黙の前で、神さまの怒りや私の罪の重さにたとえ気づかされたとしても、そこからの出口のなさに、やはり人は躓いてしまいます。弟子たちもそうでした。彼らも決定的に躓いて、ばらばらになってしまったのでした。

 ところが、このばらばらになった弟子たちを集め、彼らを火のように燃え上がらせて毅然として宣教へと向かわせる出来事が起こったのです。マタイによる福音書では、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けることに続いて、地震などでその予兆が記されていますが、続く28章6節で「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」と記されている出来事です。
 死んで葬られたイエスさまが甦らされました。神さまははっきりと応えてくださいました。神さまは確かに沈黙しておられましたが、不在であられたわけではありませんでした。今もそうです。
 孤独と絶望の十字架においても、まさに神さまご自身がそこで裁かれるものとなられて共にいてくださり、そこから沈黙を破って、イエスさまを死人の中から甦らせてくださいました。

 「人間が作り出した宗教は、人間が困窮に陥った時にこの世において神の力を示そうとする。けれども聖書は、人間に神の無力と苦難とを示す。そして、この苦しむ神こそが、人間に救いを与えることができる神なのだ」と、牧師であり神学者でもあったボンヘッファーは語りました。
 私は自分のアジェンダの表紙の裏に、このボンヘッファーの詩をはさんでいるのですが、今お伝えしたボンヘッファーの言葉と重ね合わせて、今日の説教題の「神の子なら」とは、例えばこのようなことではないかと思います。
 「困難の中にある人間は神のもとに行き、助けを求め、幸福とパンを乞い、病と罪責と死からの救いを願い求める。キリスト者も異教徒もみなそうする」。
 しかし、「神の子だから」だと、こんな風になるのではないでしょうか。「神は、困窮の中にあるすべての人間のもとに行き、神のパンをもって肉体と魂を飽かせ、キリスト者と異教徒のために十字架の死に赴く。神は、すべての人間を赦す」。

 この神を信じる信仰が弟子たちを躓きから引き上げ、躓きから掬い上げ、私たちの教会の誕生へと向かわせて行きました。そして、その重さを測る術を知らない罪の重さに躓いている私たちも、この神を信じる信仰によってその躓きから引き上げられ、掬い上られ、イエスさまを死人の中から甦らせてくださった神さまを信じる信仰を与えられ、今、私たちのために苦しまれる神さまのもとに立っています。
 受難週が始まりました。祈りましょう。

 神さま、受難週より復活祭への私たちの道行きを導いてください。
 「わたしたちは羊の群れ。道を誤り、それぞれの方角に向かって行きました。その私たちの罪をすべて、あなたは御子に負わせられ」(イザヤ53:6)、その御子を死から甦らせてくださいました。
 受難週から復活祭へ、どの一人もあなたによって生かされている喜びを、私たちが互いに分かち合うことができますように。
 十字架の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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