牧師メッセージ

4月1日(木)「洗足木曜日」礼拝説教 「まさかわたしが」

更新日: 2021.04.06

2021年「洗足木曜日」(2021.4.1)礼拝説教
出エジプト記24章3~8節、マタイによる福音書26章26~35節
「まさかわたしが」        牧師 野田和人

 「一同が食事をしているとき」、そうです。それは過越の食事でした。一同が食事をしているとき、イエスさまはこう仰いました。今日お読みした箇所の前の段落です。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」(マタイ26:21)。
 すると弟子たちは口々に言い始めました。「主よ、まさかわたしのことでは」(同26:22)、「先生、まさかわたしのことでは」(同26:25)。

 この緊迫した、凍てつくような場面を見事に切り取ったのが、レオナルド・ダ・ビンチの絵画「最後の晩餐」です。皆さんもご覧になったことがあるでしょう。そこでは、「最後の晩餐」の絵には、裏切る者も弟子たちの群れの中に並べて描かれていますね。誰がユダなのか。誰がペトロなのか。
 「最後の晩餐」は、確かにこの歴史的な会食の場面を切り取ったものですが、その緊迫した、凍てつくような構図は、現代にまでなお強く訴えかけるものがあると言うことができるでしょう。
 「主よ、まさかわたしのことでは」、「先生、まさかわたしのことでは」。

 しかしそこで、主は言われるのです。「取って食べなさい。これはわたしの体である」。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と。

 今日の洗足木曜日に与えられた新約聖書の聖書日課、マタイによる福音書26章には、マルコによる福音書、ルカによる福音書といった共観福音書も含めて、「洗足」の記事はありません。その代わりに、イスラエルの民が出エジプト以来記念し続けてきた、過越の小羊の血によって彼らが災いを免れた、恵みとしての過越の食事を意味する「主の晩餐」の記事が、三つの共観福音書すべてに置かれています。
 今日お読みしたマタイによる福音書の前半部分にある、いわゆる「聖餐の制定語」と呼ばれている箇所は、三つの共観福音書それぞれで少しずつ違っていて、逆に第4福音書のヨハネによる福音書には、この「制定語」がありません。
 制定語の中では、私たちが聖餐に与る時にいつも読まれるコリントの信徒への手紙一、第Ⅰコリントの11章23節~26節が最も古いものと言われていますが、今日お読みした26章28節に登場する「契約の血」は、今日の礼拝の招詞-招きの言葉にもあった出エジプト記24章8節、今日はお読みしていませんが、今日の洗足木曜日の旧約聖書日課の出エジプト記24章3節~8節のところで、モーセが行った神さまとイスラエルの民との契約の儀式が思い起こされるところです。

 その契約の儀式ではまず犠牲がささげられ、モーセはささげられた雄牛の血を鉢に取って、主が語られた言葉をすべて書き記した契約の書を民に読んで聞かせた後、その血をイスラエルの民に振りかけて次のように言いました。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」と。
 その後、民の代表者たちはモーセらと共にシナイ山に登り、「彼らは神を見て、食べ、また飲んだ」(出エジプト24:11)と記されています。

 今日お読みした箇所の過越の食事-最後の晩餐でも、実は同じことが起こったと言えるのではないでしょうか。新しい神の民を代表する12人が、杯に取られた「契約の血」を与えられ、12人全員が、あのユダも、あのペトロも「食べ、また飲んだ」のでした。
 ただ彼らの場合はそうとは悟らないまま、独り子なる神の前で、「神を見て、食べ、飲んだ」のでした。
 しかし実はこれが、旧約聖書エレミヤ書31章(31節)に記されている「新しい契約」として、また先のⅠコリント(11:25)やルカによる福音書(22:20)にある聖餐の制定語での「わたしの血による新しい契約」として受け継がれていったのでした。

 先ほど、ヨハネによる福音書には聖餐の制定語の記事はないとお話ししましたが、第4福音書記者ヨハネは、その代わりに洗足の記事を置いたと言うこともできるでしょう。そこで考えられることは、ヨハネはそれによって、聖餐の、主の晩餐の出来事そのものよりも、聖餐の意義、聖餐の内実を明らかにしたかったのではないかということです。あるいは、当時のヨハネの教会では、聖餐の出来事そのものよりも、その内実を明らかにする必要に迫られていたのかも知れません。
 それは、新しい神の民と新しい契約を結ばれる神さまとは、一体どのような神さまなのかということです。ヨハネによる福音書で語られているのは、皆さんもご存じのように、弟子たちの足を洗われる、独り子としての神であられるイエスさまでした。
 他人の足を洗うのは奴隷の仕事ですが、イエスさまはその洗足を通して、弟子たちのこれまでの人生の痛みや労苦、恥や罪、今まさに起ころうとしているユダやペトロらの裏切り、そして彼らに加えて、「まさかわたしが」と平気で語る私の罪を、労り、拭い、癒し、清めてくださいました。
 それがこれから十字架に架かろうとされる、独り子なる神の姿でした。

 「これがわたしの体である。取って食べなさい。これがわたしの契約の血である。この杯から飲みなさい」と主イエスに勧められて、食べ、また飲んだ新しい神の民は、なぜ主がこのようなことをなさるのか、自分は悟らないまま、その自分の泥足を洗ってくださる神さまによって新しい契約を与えられ、そのような神さまと結ばれたということです。
 そして、「わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」とのイエスさまの言葉によって、この新しい契約は、私の泥足を洗ってくださる主と共に、やがて来るべき終末の希望をも見据えていることが私たちに知らされるのです。
 これが、第4福音書記者ヨハネによって明らかにされた、マタイを始め共観福音書記者らによって記された聖餐制定の意義、聖餐制定の内実でした。

 受難週から復活祭へと続くこの地上の生活の中で、私たちは、「まさかわたしが」と語る者にこそ、その体と血とを分け与えてくださる荊冠の主イエス・キリストに思いを寄せて、主の晩餐-聖餐に与りたいと心から願います。

 今、私たちの目の前に聖餐のパンとぶどう酒はありませんが、目には見えない主の体と血とを覚えて、共に祈りをおささげいたしましょう。

 神さま、私たちが主イエス・キリストの友人として招かれ、イエスさまの命、イエスさまの死、そしてイエスさまの甦りのしるしを、イエスさまの約束と神の国のしるしを、このパンとぶどう酒を通していただくことは何と喜ばしいことでしょう。
 神さま、感謝します。
 この食卓は私たちの目を新しく開いてくださいました。
 私たちはあなたと出会い、共に食卓に与り、分かち合い、あなたの目を通して私たちの隣人を見ることを学びました。
 私たちは聖霊の光のうちに、私たちの喜びも悲しみも、私たちの計画も、それに伴う煩いも、共に分かち合うでしょう。
 神さま、あなたの国が来ますように。
 主の御名によって祈ります。アーメン。
              (参考:『世界の礼拝』(日本キリスト教団出版局)58,59頁)

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