牧師メッセージ

4月4日(日)復活節第1主日 イースター礼拝説教 「振り向いて、」

更新日: 2021.04.06

2021年復活節第1主日・復活祭/イースター(2021.4.4)礼拝説教  牧師 野田和人
イザヤ書12章1~6節、ヨハネによる福音書20章1~18節

牧会祈祷
 慈愛に富み給う、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、今日、主の年2021年のこの復活祭の礼拝に、赦されて、全世界の民と共に、場所や時は違っても様々な形で私たち一人ひとりが招かれている大いなる恵みに心より感謝いたします。
 この世界には闇があり、失望があり、多くのことが絶望的に見えます。けれどもその暗闇もあなたのものです。あなたはその闇の中に御子イエス・キリストを遣わされ、私たちが墓から甦るために、キリストの光で私たちの闇を照らし、私たちを新たに造り変えて、あなたの愛すべきこの世界へと私たちを遣わしてくださいます。

 どのようにして、私たちはあなたに感謝をおささげすればよいのでしょう。
 慈しみと愛の神さま、あなたは最も深い淵に沈んでいた私を助け出してくださいました。私はすべての悲しみをあなたに打ち明け、あなたは私を再び無傷にしてくださいました。
 あなたはひと時お怒りになっても、私たちに命を得させることを御旨としてくださり、泣きながら夜を過ごす人にも喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださいます。そのように、あなたは私の嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
 キリストは復活されました。そして私は、新たに生きます。感謝します。

 このイースターの喜びの朝、ほとんど一年ぶりにやっとこの所へと戻ってきた、私たちの愛する子どもたちの明るい笑顔と共に、病や困難の中にあるお一人おひとりにあなたが与えてくださる平安を覚えて、私たちはもう一度告白します。
 キリストは復活されました。そして私たちは、新たに生きます。感謝します。
 この祈りを、甦りの主イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。アーメン。

説  教           「振り向いて、」
 マリアは、マグダラのマリアは、泣いていました。
 マリアは、墓を塞いでいた石が取りのけられていたのを見て主が墓から取り去られたと思い、ペトロともう一人の弟子に知らせました。
 「一体何が起こったのでしょう。弟子たちが解決してくれればいいのですが…」。

 墓の中には、イエスさまの顔を包んでいた覆いと、イエスさまの体を包んでいた亜麻布だけが離れた所に丸めて置いてあるだけでした。ペトロらは、イエスさまの体がそこには確かにないことを確認して家に帰り、マリアにそのことを告げました。弟子たちはマリアに何の解決ももたらしませんでした。
 マリアは悲しみに暮れたことでしょう。「主が墓から本当に取り去られてしまった」。

 マリアは、主の体が納められていた墓に再び戻ってきて、墓の外に立って泣いていました。自分にとってかけがえのない人が、最期にはたった一人で十字架で殺され、そのご遺体さえ墓から取り去られてしまったのです。喪失感と悲嘆の極みの中で、彼女は意を決して墓の中を覗き込みました。彼女の目の前にあった死を覗き込みました。
 すると中から天使たちの声が聞こえてきました。泣いている理由を天使たちに尋ねられ、「主がどこに置かれているのか、わたしには分かりません」と答えながら、マリアはなぜか後ろを振り向きました。天使たちの声が、彼女に後ろを振り向かせました。死とは反対の方向を。

 彼女には園丁が立っているのが見えました。マリアは即座に尋ねます。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」。
 空の墓に、空っぽの墓に何の解決ももたらしてくれなかった弟子たちに代わって、マリアは自分でこの問題を、空の墓の問題を解決しようとしました。毅然として、涙を押さえながら。そしてもう一度、墓の中を覗き込みました。
 彼女はまだ、死の中で、イエスさまにこの死をもたらしてしまった自分自身の後悔と絶望の中で、主の死に執着して、主を捜していました。

 しかし、その彼女をもう一度振り向かせる出来事が起こったのです。今度は彼女の後ろから声が聞こえてきました。「マリア」と。
 彼女はもう一度振り向いて、そうとは知らずに、死とは反対の方向の命の方向を向いて、その声の主(ぬし)に声をかけました。「先生」と。
 そこには、墓から取り去られたはずの、墓から運び去られたはずの主が、生きて立っておられました。

 マリアは、空の墓の問題を自分で解決しようとして、「わたしが、あの方を引き取ります」と、涙を押さえながら、毅然として申し出たのですが、実は問題はそこにはありませんでした。なぜなら、生きておられる方を死者の中に捜すことはできないからです。 それでは、後悔は後悔のままで、絶望は絶望のままで終わるからです。
 果たしてマリアは、この問題の所在を悟ったのでしょうか。どうでしょうか。
 悟ったに違いありません。それが彼女の、弟子たちへの言葉となって表れました。「わたしは主を見ました」と。

 マリアがもしまだ泣いていたのだとしたら、それは喜びの涙だったのではないでしょうか。「ああ、私は本当に赦されたのだ」という驚きと感謝、そして安心の涙だったのではないでしょうか。
 死の中に死を捜すのではなく、絶望の中に絶望を捜すのでもなく、死から赦されて命へと、絶望から赦されて希望へと私たちが振り向くことができるように、主は私たちの死と絶望を代わりに負ってくださいました。

 この出来事から百年ほどが経って、新約聖書の黙示録を記したヨハネも振り向きました。「わたしは、語りかける声の主(ぬし)を見ようとして振り向いた。振り向くと、…その方は右手をわたしの上に置いて言われた。『恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府(よみ)の鍵を持っている』」(黙示録1:12,17-18)。

 皆さんも一度、死者の中に死者を捜そうとしているあなたに、絶望の中に絶望を捜そうとしているあなたに、後ろから呼びかける声に勇気を持って振り向いてみてください。そこには、その一人のためにすべてを献げ尽くしてくださった、その献身によってどの一人をも生かしてくださる復活の主、甦りの主イエス・キリストがおられます。
 イースター、おめでとうございます!

 今日もこの後、特に洗礼式の後、皆さんとご一緒に主の聖餐に与ることはできませんが、これからご一緒に歌う讃美歌「人の知恵と言葉を超え」を通して、今、私たちの目の前に確かにある聖餐の恵みに与りましょう。

 1.人の知恵と言葉を超え、主はおられる、この交わりに。
   招く声が響き渡る。いま、あずかろう、主の食卓。
 2.深い罪の私にさえ、主は割かれる、いのちのパンを。
   そのさかずき高く上げて、主はわれらを祝福する。
 3.ここには主の救いがある。ここには主の愛があふれる。
   このみ糧とさかずき受け、ひとつの群れ、今、生まれる。
 4.「受けためぐみ、分かち合え」と、主は励まし、送り出される。
   「地の果てまで平和を告げ、さあ、輝く光となれ」。

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