牧師メッセージ

4月11日(日)復活節第2主日礼拝説教 「かねて言われていたとおり、」

更新日: 2021.04.15

2021年復活節第2主日/新  生(2021.4.11)礼拝説教     牧師 野田和人
イザヤ書65章17~25節、マタイによる福音書28章1~15節

牧会祈祷
 憐れみ深く慈しみに満ちた、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2021年の復活節第2の主日にあって、私たちを新たに生まれ変わらせ、生き生きとした希望を与えてくださるあなたに向けて、様々な方法でこの礼拝をささげることのできる恵みを心から感謝します。
 
 あなたは闇を照らし、命の息を私の中に吹き入れてくださいました。主キリストは、闇の中にいる私をそこから引き上げ、聖霊を注ぎ、その命を祝福してくださいました。
 けれども私たちは、私の中に吹き入れられ、祝福された命を、あたかも自分のものであるかのように取り扱い、私たちに向けて伸ばしてくださった主キリストの御手を払いのけてしまいます。私たちの罪を赦し、過ちを赦してください。
 あなたは赦しを与え、私たちの間に和解をもたらしてくださる方です。慈愛の神さま、絶えず、そして多くを赦される神さま、あなたの御名が称えられますように。

 あなたの平安が、私たちの営みとこの地上の営みを覆ってくださいますように。私たちを病や飢え、愚かな暴力や災害、そして未曽有のパンデミックから遠ざけ、あなたにある和解と平安のうちを歩ませてください。
 私たちの内からあらゆる疑いと空しい誇りを取り去り、代々の聖徒たちや私たちの信仰の先達の方々に倣って、あなたの被造物を養い、守ることへと導いてください。

 今日の午後二時から垂水区・舞子墓園の神戸栄光教会・聖徒廟にて執り行われる、2021年春の聖徒廟記念会の上に、その場に集いし者、またその時を覚えて祈りをささげる者一人ひとりの上に、あなたよりの癒しと平安が豊かに与えられますように。
 すべてを御手に委ねてあなたに信頼し、エマオ途上の主イエスに導かれて、私たちを私たちの愛する家族、私たちの愛する子どもたちと共に、主の平和を生きる者としてください。
 甦りの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

説  教        「かねて言われていたとおり、」
 先週のイースター礼拝で皆さんとご一緒に見ました新約聖書の第四福音書、ヨハネによる福音書を記したヨハネによれば、マグダラのマリアは空の墓の次第、空っぽの墓の問題の所在をこんな風に理解しました。「わたしは主を見ました」(ヨハネ20:18)と。そして弟子たちも、最後にはあのトマスも一緒になって、空の墓の次第をこんな風に理解しました。「わたしたちは主を見ました」(ヨハネ20:25)と。
 これらの言葉は、今日最初にお読みした旧約聖書の預言者イザヤの言葉を借りれば、「新しい天と新しい地の創造」(イザヤ65:17)、すなわち新しい世界の始まりを意味するものです。

 では、イエスさまがその人たちの間で活動されたユダヤの指導者たち、祭司長や長老たちは、この空の墓の問題をどのように理解したのでしょうか。今日後からお読みした新約聖書のマタイによる福音書によると、「弟子たちが夜中にやって来て、死体を盗んで行った」(マタイ28:13)とあります。
 この福音書が記されたのは、イエスさまの死後、イエスさまが十字架で亡くなられてから50年程経ってからのことですので、この「弟子たちが夜中にやって来て、死体を盗んで行った」という言葉は、当時のユダヤ教側の、キリスト者に対する抵抗や迫害の激しさを伺い知ることのできる言葉だと言うことができるでしょう。
 「わたしたちは主を見た」のか、それとも「死体は盗まれた」のか。もし死体が盗まれたのだとしたら、私たちは今ここにはいないでしょう。今こんな所に集まってはいないでしょう。
 
 私たちが今ここにいて、この聖書から御言葉に聴くことができているのは、今日お読みしたマタイによる福音書に登場する主の天使の声に依っています。
 「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(マタイ28:5)。「かねて言われていたとおり、復活なさった」。ここで「復活なさった」というのは、「甦らされた」ということです。受身形です。
 棕梠の主日の礼拝の時にお話ししましたが、イエスさまの十字架の前では全く沈黙しておられた神さまが、その死を打ち砕いて、死の力に打ち勝って、イエスさまを甦らせるという形で応えてくださったということです。ですから、そのイエスさまが葬られた墓には、イエスさまはおられないのです。
 空っぽの墓は、復活の「しるし」として、今も生きて私たちと共に働いてくださっている主イエス・キリストへの私たちの信仰の源となっています。

 私たちがイースターでもう一つ覚えておかなければならないことは、それが、「かねて言われていたとおり」であったということです。特に、イエスさまの回りにいた弟子たちは、「人の子は三日目に復活する」と何度も何度も聞かされていたわけですし(マタイ16:21,17:23,20:19)、今日お読みした箇所の前の章の最後の所に久しぶりに登場してきたファリサイ派の人たちは、かつてイエスさまが語られた「ヨナのしるし」-「ヨナが三日三晩、大魚(たいぎょ)-大きな魚-の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(マタイ12:40)という話まで思い出して、それで墓石に封印をして番兵を置いたほどだったからです。
 そして、この「かねて言われていたこと」が本当に起こった結果に対して人々がどのような反応を見せたのかということについて、ここでは、そのことを弟子たちに知らせるために走って行った婦人たちと、この出来事を都に知らせに走った番兵たちとその報告を聞いた祭司長や長老たち、といった二組の対照的な人物像を通して語られています。

 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで弟子たちに知らせるために走って行きましたが、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった番兵たちも、気を取り直して、しかし喜びではなく、おそらく「これは大変なことになった、自分たちの責任が問われる」といった危機感を持って、婦人たちよりも先にエルサレムに帰り、彼らの見聞きしたことのすべてを祭司長たちに報告しました。
 復活の知らせは、皮肉にも、それを聞いて策略を弄する者たちの間に、「人々の前で天の国を閉ざして、自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」(マタイ23:13)ような頑なさを持った祭司長たちに真っ先に伝えられたのでした。

 祭司長や長老たちの策略についてのマタイの記事は、キリスト教の側からすれば、確かに当時のユダヤ教側からの迫害に対する弁明とも受け取ることのできるものですが、もっとポジティヴに考えてみれば、もっと積極的に捉えてみれば、復活の使信は彼らのような者の間でこそ語られなければならなかった、復活の使信は、復活に対する疑いと不信の中にある彼らのような者にこそ伝えられる必要があったということではないでしょうか。
 
 それにしても、この時の番兵で思い出されるのは、イエスさまが十字架につけられた時、百人隊長と一緒に見張りをしていた兵士たちのことです。この総督の兵士たちは、あらん限りの嘲りやののしり、侮辱を与えたイエスさまが十字架上で彼らを恨むことも呪うこともなく、ただ「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫びつつ死んでいくのを目の当たりにしました。ところが、その後に起こった一連の出来事を通して、百人隊長と共に「本当に、この人は神の子だった」(マタイ27:54)との告白へと至ります。
 彼らは自分たちの手で主イエスを十字架につけることによって、皮肉にも、あるいは思いも寄らずに、自らが総督の兵士からキリストの兵士へと、主イエスの証人へと作り変えられていったのでした。
 復活の知らせを婦人たちから聞いても半信半疑で、復活のイエスさまと再会した後にやっと「かねて言われていたこと」を信じるようになった弟子たちを、彼らがまるで先取りしているかのようです。

 私たちは、恐れながらも喜びにあふれて弟子たちのもとへとひたすら走った婦人たちと、自らの意図を超えて、思いがけずキリストの兵士へと作り変えられていった総督の兵士たちとに囲まれて、今日の福音書に登場してくる番兵たちを見ることができます。  
 彼らは祭司長たちの策略に乗って、お金を受け取って、教えられたとおりにしました。復活の日の明け方、すべてを見て、すべてを聞いた者たちが、金を与え、金を受け取り、復活はなかったことにしようとしました。
 けれども、先ほどお話ししましたように、ここに福音書記者マタイの積極的でポジティヴな意義を見出そうとするなら、彼らにこそ復活のメッセージは宣べ伝えられなければならなかったのです。

 お金を受け取って、教えられたとおりにした総督の兵士たちの目には、あの空っぽの墓の情景が、なぜ墓が空なのかという意味とともに焼き付いていたのではないでしょうか。にわかには信じ難い現実に直面して、その意味を計りかねて彼らの魂は大きく揺さぶられていたのではないでしょうか。そして、実は彼らもまた、結局は婦人たちと共に走り出したのではないでしょうか。キリストの兵士として。
 弟子たちの中で、イエスさまを裏切り、自ら死を選んだユダの道ではなく、イエスさまを三度知らないと言った後、イエスさまの仰った通りに鶏が鳴いたことで、大祭司の屋敷の中庭から「外に出て、激しく泣いた」ペトロの道を選び取った者も彼らの中にはいたのではないでしょうか。
 あるいは走り出さないまでも、主イエスの証人として婦人たちのように走り出そうとする時が今まさに刻一刻と迫ってきている、そのような状況に彼らは置かれていたとも言えるのではないでしょうか。
「兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした」。これは単なる報告文ですが、この報告文の背後には、今お話ししたような状況があったのではないかと思うのです。

 ところで、この決定的な時は、今ここで御言葉に聴いている私たちにはすでに起こったことですが、私たちが現実の日々の生活を営む中では、常にあの主の天使の声に立ちかえり、その声に聴くことがやはり大切なのだと思います。
 「かねて言われていたとおり、甦らされたのだ」。「かねて言われていたとおり」-あなたがたはその復活のイエスを信じてここに集って来ており、そこにあなたの、そして私の、私たちの生きる根拠が、今も生きて私たちと共に働いておられる主イエスの証人として生きる根拠があるのだという主の天使の声に励まされて、復活の日の朝走り出した者たちと共に、主の平和を生きる者となりたいと切に願います。
 祈りましょう。

 神さま、2021年の復活節第2主日、新生の朝、場所や時は違ってもこの礼拝を覚えて共に集い、あなたに向けて礼拝をささげることのできる恵みを心から感謝します。
 この喜びを一人でも多くの人と分かち合うことができますように、日々の営みの中で私たちの信仰を強め、祈りを深くさせてください。十字架の死に至るまで従順であられたキリストを覚え、その主に倣う者とさせてください。
 主の御名によって祈ります。アーメン。

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