牧師メッセージ

4月18日(日)復活節第3主日礼拝説教 「しるしが欲しい。」

更新日: 2021.04.22

2021年復活節第3主日/主のあわれみ(2021.4.18)礼拝説教    牧師 野田和人
列王記上17章17~24節、マタイによる福音書12章38~42節

牧会祈祷
 憐れみと慈しみに富み給う、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、私たちの愛するこの日本の地においては新しい2021年度が始まり、教会の暦においては復活節の第3の主の日にあって、あなたに信頼を寄せるすべての民と共に、様々な仕方でこの礼拝へと招かれている大いなる恵みを心より感謝いたします。
 
 神さま、私たちは新型コロナウイルスのパンデミックによる重大な困難に加えて、不正や抑圧、また暴力の連鎖が続く中で苦しんでいます。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈る私たちは苦しんでいます。死にかけています。この世界は、弟を守る者となることを拒んだ多くの兄で満ちているからです。
 主よ、あなたの十字架はあまりにも素朴です。けれども主よ、あなたはその十字架を通して、ご自分がどこまでも私たちを赦し、私たちの拒絶を受け止め、私たちの苦しみを共に担おうとされる方であることを私たちに示してくださったのだと、私たちは信じています。
 私たちが、あなたが私たちと共に担ってくださる苦しみに備える中で、私たちの中からでも良いものを見出すことができますよう、私たちにみこころをお示しください。
 
 悲しみと憤りを治めてくださる神さま、パンデミックによって、また不正や抑圧、暴力の連鎖によって、失われていった数多くの大切な命を私たちが心に刻み、そのような中でなお私たちを生かしてくださるあなたへの信頼と、復活の主に相まみえる希望のうちに、私たちの贖いの主に、私たちの平和の主に従う道を私たちに進ませてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

説  教           「しるしが欲しい。」
 今日後からお読みした新約聖書のマタイによる福音書の箇所の冒頭に「すると、」とあります。「すると、何人かの律法学者とファリサイ派の人々が…」とありますから、今日は12章の38節からお読みしましたが、この38節以下に記されている、律法学者とファリサイ派の人たちの「しるしを求める要求」は、このお話の直前でのイエスさまの言動に対する反応ということになります。
 今日お読みした箇所の前の頁、二つ前の段落に「ベルゼブル論争」(悪霊論争)とあります。この箇所については、今年の受難節第2主日(2/28)の礼拝で、「私と集めないか。」という題でお話ししましたが、この悪霊論争、ベルゼブル論争での注目すべき言葉は、イエスさまの言われた、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(マタイ12:28)という言葉と、「聖霊に対する冒瀆は赦されない」(同12:31)との言葉でした。
 イエスさまにとって一人の人間の悪霊を祓い、病を癒すことは、その人が神さまから無条件の祝福を受けていることを、その人の目に見える形で、その人の体や心で感じることのできる形で表すことであり、その人において神の国が到来していることの「しるし」でした。けれども、ファリサイ派の人たちはなおそこで、「先生、しるしを見せてください」と要求するのです。

 今日最初にお読みした旧約聖書の列王記上の箇所の直前の段落には次のように記されています。「やもめは行って、エリヤの言葉どおりにした。こうして彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に事欠かなかった。主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」(列王記上17:15-16)と。
 それでも、今日の箇所ですが、彼女の息子が病気にかかって息を引き取ると、彼女はエリヤにこのように言うのです。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」(同17:18)と。
 主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかったのです。それでも、いざ彼女の息子が病気にかかって息を引き取ると、彼女はエリヤに向かって「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのですか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来たのですか」と憤って問うのです。そう、「新しいしるしを見せてください」とエリヤに迫るのです。

 彼らが求めるしるしとは、まさにマジックのようなものでした。切りがありません。けれども、悪霊に取りつかれた人の癒しは、壺の粉が尽きず、瓶の油もなくならないのはマジックではなく、その人において神の国が到来したことのしるしでした。そして彼らにはそれが見えませんでした。

 二度、三度とお話ししますが、イエスさまはご自分の教えを宣べ伝えられるという伝道をガリラヤ地方で始められたわけですが、そのガリラヤ伝道という公生涯、公のご生涯を始められる直前、荒れ野で40日40夜にわたって断食をされました。その期間が終わった後に起きた、イエスさまに対するサタンの誘惑を皆さんはよくご存知でしょう。石をパンに変えることに始まる、「もしあなたが神の子なら」というサタンの試みです。
 このお話も、今年の棕梠の主日(3/28)の礼拝で「神の子なら」という題でお話ししましたが、イエスさまはそのご生涯の初めにおいても、その途上においても、また特にそのご生涯の最後においても、裁判の席や十字架の上で、「もし神の子なら、しるしを見せよ」と人々から何度も試みられましたが、それらすべての要求を拒否されました。なぜなら、「しるし」とは、求められるもの、要求されるものではないからです。
 
 あのサタンによる誘惑物語で強調されていたのは、主によって油注がれた者であるメシアは、いかなる方法によっても自分自身の身分を証明することはできないという真理でした。メシアは、どのような仕方によっても自分自身の身分を証明することはできないのです。ただ神さまのみがそれを、その身分を明らかにされるのです。
 「しるし」とは、元来目には見えない事柄を目に見えるように表したもののことです。イエスさまの誕生の時、ルカによる福音書によれば「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2:12)と記されていました。幼子イエスご自身が「しるし」だったのです。
 
 それが、「しるしを見せてください」、「しるしを見せよ」との大合唱においては、確かにイエスという人物に関心はあるけれども、何らかの保証としての「しるし」によってそのイエスという人物を評価しようとするもの、あるいはイエスさまを、神さまをもコントロールしようとするものへと「しるし」の意味が変わってきています。私たちが神さまに信頼するというところから、最もかけ離れたものとなっています。
 イエスさまはそのように「しるし」を欲しがる者たちに対して、「よこしまで神に背いた時代の者たち」と仰いましたが、それは彼らに対してだけでなく、その言葉の愚かさに気が付かないまま「先生、しるしを見せてください」とほとんど命令口調で願う私たちに対しても同じように呼びかけておられるのではないでしょうか。そのような私たちに向けても、イエスさまは「あなたがたが願っているようなしるしは与えられない」と断言しておられるのです。

 ただ私たちにとってまだ余地があるのは、まだ救いがあるのは、「預言者ヨナのしるし」を除いては、「ヨナのしるしのほかには、そのようなしるしは与えられない」というところでしょうか。ご存知の方も多いかと思いますが、ヨナの物語を少し振り返ってみましょう。 旧約聖書の「ヨナ書」という所にある物語です。
 このヨナは、神さまから当時の巨大帝国アッシリアの首都ニネベに行って、ニネベの町の人々に悔い改めを迫るよう命じられます。けれども彼はそのような神さまから逃れようとして、なぜ逃れようとしたのかは後から分かることなのですが、ヨナは神さまが憐れみの神さまであることを知っていたので、ニネベの人々にもし自分がそんな働きかけをすれば、異教徒である彼らが本当に悔い改めてしまうのではないかと、憐れみの神さまに嫉妬して、そんなことはするものかと神さまから逃れようとして、ヤッファからタルシシュへ行く船に乗り込みました。
 ところがその船が大嵐に会い、沈みそうになります。その船では、一体誰のせいでこのような災難が降りかかってきたのかを、くじを引いてはっきりさせようということになり、ヨナのせいだということになって、彼は嵐の海の中に放り出されてしまいます。ヨナは大きな魚に飲み込まれて、三日三晩の後に陸へ打ち上げられ、そこで観念して、主なる神さまの最初の命令通りニネベへ向かい、そこであらためて神さまから与えられた使命を果たし、ニネベは神さまの前に悔い改めた、というのがヨナの物語です。

 この「ヨナのしるし」ということで、イエスさまはご自身の死と復活について語られたのでした。先週の礼拝、「かねて言われていたとおり、」の中でお話しした、「人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(マタイ12:40)ということです。
 そして、やはりこの死と復活という「しるし」に、私たちの生きる希望の一切がかかってくると思うのです。

 私たちの信仰は、イエスさまを死人の中から甦らせてくださった神さまを信じることの他はありません。私たちは私たちが生きているこの世界では神さまを見ることもありませんし、実は神さまを試してみることもできないのです。
 ただ、イエスさまの復活において生きて働かれる神さまの業を証しするこの聖書に聴いて、信じるだけです。私たちの信仰の「しるし」は、このイエスさまの死と復活にあって、それ以外にはありません。それ以外にはないのですが、たとえまだその出来事、復活の出来事に出会う前であったとしても、「いやそんなことはない、他にもしるしはあるはずだ」というのが今日の箇所に登場する律法学者やファリサイ派の人たちであり、その出来事、復活の出来事にすでに出会ってしまったはずの私たちなのではないでしょうか。

 イエスさまの反論は、新共同訳聖書には訳出されていませんが、「しかし見よ」、「しかるに見よ」という力強い呼びかけと共に「ここに、ヨナにまさるものがある」と続いていきます。この文脈に沿ってみれば、「ヨナにまさるもの」とは、あるいは「ソロモンにまさるもの」とは、預言者ヨナや賢明な王ソロモンに対して積極的に応じたニネベの町の人々、シェバの女王ということになりますが、もっと単純に考えれば、イエスさまご自身のことと考えることもできます。
 けれどもそこからもう少し考えを進めて、この「ヨナにまさるものがある」という言葉で、イエスさまは私たちの教会のことを仰っているのではないか、私たち教会を指し示しておられるのではないかと考えることもできるのではないでしょうか。
 そしてこれが、今日の御言葉からいただく大きな恵みではないかと思うのです。

 教会は、そこに集う一人ひとりの様々に異なった信仰の経験が、確かにそれぞれ異なってはいるけれども、主イエスとその人との間には何の保証も入らないという点では、すべての人が全く同じ立場にあり、そのようなイエスさまとの直接的な出会いに基づく、また人を介しての出会いに基づく一人ひとりの信仰の経験が、キリストの体に連なる私たちの交わりの中でその絆を強められて一つの大きな共同の経験となって形づくられていくものです。
 よこしまで傲慢で裁かれるべき私が、私たちが、赦されて、復活の主の声を聞く群れの中に入れられて、一つの大きな共同の信仰の経験-死からの甦り、闇からの光という共同の信仰の経験に生きる時、そこに「ヨナにまさる『新しい命』」が現れ出て来るのではないでしょうか。
私たち一人ひとりはこのような教会を形づくる一人ひとりなのだという自覚を私たちがあらためて持って、「最も小さい者の一人に」為す歩みをご一緒に進めていきたいと切に願います。
息子が甦らされて、「あなたはまことに神の人です」(列王記上17:24)と態度を改めた女主人のように。祈りましょう。

 神さま、あなたが私たちを死からの甦り、闇からの光のうちに入れてくださっていることを心より感謝いたします。
 私たちがその自覚を持って、あなたへの信仰を示しつつ私たちの日々の課題と取り組むことができますよう、私たちがあなたへの信仰を示しつつ私たちの日々の平安を生きることができますよう、私たちを支え、お守りください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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