牧師メッセージ

5月2日(日)復活節第5主日礼拝説教 「主よ、どこへ行かれるのか。」

更新日: 2021.05.08

2021年復活節第5主日/うたえ(2021.5.2)礼拝説教     牧師 野田和人
サムエル記下1章17~27節、ヨハネによる福音書14章1~11節

牧会祈禱
 憐れみと慈しみに満ちておられる、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2021年の復活節第5の主の日もこの講壇へと招かれ、復活の主を仰いで、様々な形で、しかし御前に招かれた皆さんの心を合わせて一つになって、一緒にこの礼拝をささげることのできる恵みを心より感謝いたします。
 
 あなたは私たちが選ぼうとして選んだ神さまではありませんけれども、私たちはあなたの民です。あなたは私たちをあなたの自由な御心において選んでくださいました。そして、道と真理と命に迷う私たちに向けて、「わたしは道であり、真理であり、命である」と告げてくださる御子、主イエス・キリストを通して私たちとあなたを結び付けてくださいました。
 私たちが自らの知恵や力に依り頼んで、そこから私たちの歩むべき道を見出していくのではなく、御国にあってあなたがそうであられるように、私たちもあなたに向けて解き放たれ、握りしめたこぶしを開いて、私たちの主イエス・キリストのうちに私たちが賜るべき真理と命の光を見出すことができますよう、私たちを導いてください。

 新型コロナウイルス感染症再拡大に伴う第三回目の緊急事態宣言の中、私たちは特に医療状況において大きな困難に直面しています。憤りがあり、悲しみがあります。私たちが愚かさを捨て、あなたの与えてくださった命の存続のために互いに祈り合い、互いに支え合い、適切な行動を取ることができますよう、私たちを諭し、導いてください。
 世界中のすべての民が、すべての子どもたちが、集うべき所で、互いに顔と顔とを合わせてあなたを礼拝することのできる日の再び来ることを、私たちは心から待ち望んでいます。どうかこの祈りを聞き届けてください。
 私たちの命の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

説  教        「主よ、どこへ行かれるのか。」
 「主よ、どこへ行かれるのか。わたしたちには分かりません」トマスは心を騒がせていました。不安で不安でたまりませんでした。まず主がどこへ行かれるのか分からないばかりか、主イエスの仰っていることが理解できませんでした。「わたしの父の家には住む所がたくさんある」と言われるけれども、一体今自分たちが生きている現実のどこに、自分たちの安住の地があるのだろうか。
 「主よ、どこへ行かれるのか」。ラテン語で“クォ・ヴァディス・ドミネ”。「主よ、今はっきりと私たちに行き先を示して、私たちを安心させてください!」。
 悲痛な問いでした。

 トマスが問うたのと同じ問いを、一段落前でシモン・ペトロが発しています。読んでみましょう。「シモン・ペトロがイエスに言った。『主よ、どこへ行かれるのですか。』イエスが答えられた。『わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることは出来ないが、後でついて来ることになる。』ペトロは言った。『主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。』イエスは答えられた。『わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。』」(ヨハネ13:36~38)。

 もうだいぶ前になりますが、1952年に制作された“クォ・ヴァディス”という同名の小説を原作にした映画をご存知でしょうか。新約聖書のこの箇所、「主よ、どこへ行かれるのですか」-“クォ・ヴァディス・ドミネ”からその題名が取られました。
 お話の中では、イエスさまの死後30年程が経って、当時のローマ皇帝ネロの暴政/圧政とキリスト教徒に対する激しい迫害に耐えかねてローマを脱出してアッピア街道を急いでいたペトロの前に突然現れたイエスさまに対して、ペトロが“クォ・ヴァディス・ドミネ”と声をかけます。
 するとイエスさまは「わたしはあなたが後にしたローマに、私の羊が多くいるローマに行く。あなたが彼らを見捨てるのなら、わたしが行って、もう一度十字架に架かろう」と答えられます。その言葉を聞いて、ローマに多くの信者たちを残して逃げ出してきたことを激しく後悔したペトロはローマへ戻り、伝説によれば逆さ十字架につけられて殉教を遂げた、という作品です。
 これはもちろん小説のお話ですので多分に脚色されていますが、この“クォ・ヴァディス・ドミネ”との言葉が発せられた状況、まずは「まだ分からないのか」とイエスさまに揶揄されるような愚かな状況、そして不安で不安でたまらない思いが悲痛な問いとなって表された状況は、今日の聖書の中のお話とほとんど変わらない状況にあると言えるでしょう。

 私たちは今、主の年2021年の復活節の第5主日にあって、先週はこの福音書の11章のところで、ラザロの死を前にしてすでに復活された主であるかのようなお姿で来られたイエスさまとマルタとの問答を聞き、今日お読みした箇所のすぐ後の19節では、「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」との復活節の力強いメッセージを聞くことになるのですが、このような恵みの中にあってもなお、復活などなかったかのように、イエスさまの教えなど何も分かっていないかのように、「主よ、どこへ行かれるのか。わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と問わざるを得ない私自身に、私たち自身に、トマスやフィリポの主への問いかけを通して気づかされます。

 「主よ、どこへ行かれるのか」。この愚かで悲痛な問いかけは、私たちの信仰生活の長さに関係なく、いつでも現在の私自身の問いになり得ます。というのも、このように問わざるを得ないその根本には、私自身が一体どこへ行こうとしているのか分からないという状況があるからです。
 何か目的をもって部屋を出たのだけれど、何のために部屋を出たのかを忘れてしまって、もう一度部屋に戻って最初の目的を思い出すということが私にもよくあります。
 遠くへ出かけた時にもしも同じようなことが起きたとすると、私たちはどうするでしょうか。遠くまで出かけてきて、その移動の目的を忘れてしまった時です。どうするでしょうか。出て来た家に誰かいてくれればすぐに電話をして、自分が何のために出かけてきたのかをあらためて聞き直すことができます。
 この、もう一度部屋に戻るというところ、家に電話をしてあらためて聞き直すというところに、例えば私たちの教会があり、この聖書があると考えてもいいのではないでしょうか。
この聖書を通して、私たちはどこから来てどこへ行こうとしているのかを知ることができます。最初の人“アダム”が神さまによって造られ、神さまから来たように、人は皆、神さまから出て神さまの下へと帰って行くのだということを。
 そして、まさにこの道におられるのが、私たちの主イエス・キリストなのです。ところが弟子たちは「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」(マタイ13:14)のでした。

 イエスさまがこの所で示そうとしておられるのは、この福音書の初め、1章18節にすでに記されていることでした。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」。
 イエスさまは今日の箇所でも「わたしが父のうちにおり、父がわたしの内におられる」(14:11)ということ、人となられたイエスさまご自身と父なる神さまが一つであるということを示しておられますが、その事実を、その真実を、その啓示を、「はい、そうですか。よく分かりました」と単純に受け入れることのできないのが私たち人間だと言うことができるでしょう。
 そこで私たちはかえってそのようなイエスさまに躓き、その神さまが、今まさに、私と共にここにおられる、その恵みを拒むという罪の重さを知らされることになるのです。

 けれども、ここに登場するイエスさまの弟子たちはそこで黙ってしまうのではなく、そこで黙って罪に支配されるのではなく、ここが大切な所ですが、重要な所ですが、彼らはそこで黙ってしまうのではなく、そこで黙って罪に支配されるのではなく、主イエスに向けて、たとえ愚かであろうとも問いを発したのでした。イエスさまに躓きつつも「主よ、どこへ行かれるのか。わたしたちには分かりません」と。
 この、主イエスに問うこと、他の誰にでもなく、他の何にでもなく、自分の理性やこの世の知恵にでもなく、まさに主イエスご自身に問うということ、このことを私たちは大切にしたいと思います。
 その時、イエスさまの声が響いて来ます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。
「確かにわたしはあなたがたのもとを去って行くけれども、それは、新しい到来となって再びあなたがたと共にいるための始まりなのだ。あなたがたの住む所は、実にわたしの中に、わたしの下に、わたしと共にあるのだ」と。これが、たとえ愚かであろうとも問いを発したトマスとフィリポへのイエスさまの答えでした。

 今日最初にお読みした旧約聖書のサムエル記下1章のところで、ダビデは主君サウルと愛する友、兄弟とも言える愛する友、兄弟ヨナタンの戦死に動揺し、二人を悼む歌を詠みました。人はいくら願おうとも永遠に共にいることはできません。死が私たちの間を分かちます。
 しかし私たちには、動揺と不安の中で私たちが問い、それに答えてくださる方が与えられています。そしてそこで私たちが主イエスご自身に向けて問い続けることを通して初めて、「わたしは道であり、真理であり、命である」との主の言葉を聞くことができるのです。「わたしが道だ。真理と命である唯一の道だ」と。

 「真理と命」、それは、言い替えるとすれば例えば「愛と平和」と言ってもいいでしょう。私たちにはこの激動の愚かな世界の中で、あるいは不安で落ち着かない日々の生活の中で、この真理と命が、この愛と平和が見えなくなってしまうことが往々にしてありますけれども、そこで臆することなく、たとえ愚かであろうとも主イエスに問い続けていきたいと思うのです。
“クォ・ヴァディス・ドミネ” -「主よ、どこへ行かれるのか」。
 復活の主は、平和の主は、本当はどこへも行かれずに、私とあなたが歩む道の上に、ここに、共にいてくださいます。主ご自身がその道なのですから。
 祈りましょう。

 神さま、私たちの進むべき道が分からない時、先が見えない時、どうか私たちの率直な祈りを聞いてくださり、御心をお示しくださいますように。あなたが私たちに示してくださった愛と平和を私たちが生きることができますよう、私たちを導いてください。
 この困難な時、新しい教師を迎えて新しい主の年度を歩み始めた教会を、守り導いてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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