牧師メッセージ

5月30日(日)聖霊降臨節第2主日/三位一体主日礼拝説教 「わたしを遣わして」

更新日: 2021.06.04

2021年聖霊降臨節第2主日/三位一体主日(2021.5.30)礼拝説教 牧師 野田和人
イザヤ書6章1~8節、エフェソの信徒への手紙1章3~14節

牧会祈祷
 慈愛と憐れみに富み給う、私たちの命と復活の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年の2021年にも、昨年、新型コロナウイルス感染症の深刻な影響の中で迎えた
教会の誕生日である聖霊降臨祭、ペンテコステの風が、この前の日曜日から私たちの上に、私たちの内に再び力強く吹いています
 今年没後100年を迎えられる、私たちの敬愛するW.R.ランバス師によって建てられた愛するこの神戸栄光教会にも、創立以来135回目のペンテコステの風が変わらずに吹いてきました。
 この風は真理の風です。
 皇帝たちの嘘も、彼らが放ったライオンもこの風を止めることはできませんでした。私たちはお互いに殺し合いながらも信仰告白を唱えることができますし、得意になって暴力と武力によって真理を曲げることもできますが、この真理の風を止めることはできません。

 主イエスは、「わたしの言葉にとどまるならば、…あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:31-32)と言われました。
 神さま、この地上に建てられた一つひとつの教会を通して私たちがこの真理に触れ、真理の風をこの肌で感じ、対立し、排除し、争うことから離れて、互いに赦し合い、受け入れ合い、主にある和解と一致へ向けて、そうさせまいとする力から私たち自身を解き放つことができますよう、私たちを助け導いてください。
 そして、父、子、聖霊なる神の交わりに、あなたによって私たちが導き入れられて、最良の平和の実を結ぶことができますよう、聖霊によってあなたの知恵を私たちに示し、私たちを教え導いてください。
  
 今最期の時を迎えておられる私たちの愛する兄弟を始め、困難の中にあるすべての友を顧み、必要な助けと慰め、励ましを与え、聖霊の導きによって主の平安のうちを歩ませてください。
 三位一体主日の朝、この祈りを主イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。アーメン。

説  教          「わたしを遣わして」
 今年は5月13日(木)が主イエス・キリストの昇天日でした。イエスさまが昇天され、「イエスは主である」と告白する私たちに、そのイエスさまを証しする働きが委ねられ、その働きを十分に成すことができるようにと、ペンテコステによって私たちは聖霊に満たされました。そして、その聖霊の風と炎の力を受けて踏み出していく最初の主の日である今日の三位一体主日に、私たちは使徒パウロと共に神さまの栄光をたたえています。
 私は普段もそのようにしていますが、特にこの時、私たちが強いられて、一緒に集まって礼拝をささげることができない状況の中で、私が、あるいは私たちが今どのような時の中にいるのかを確認することは、たいへん大切なことです。
 主の復活から40日後の主の昇天日、そこから10日後のペンテコステ、そしてそこから一週間が経った三位一体主日。父・子・聖霊の交わりから成る一つの神さまが、その交わりへと私たち一人ひとりを招き入れてくださる主の日として、私たちは今日の三位一体主日を迎えています。

 天使の一人がイザヤの口に火を触れさせて言いました。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(イザヤ6:7)。そこで、「誰を遣わすべきか」(同6:8)との主の御声に答えてイザヤは言いました。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(同)。
 主は、天使を通してイザヤを主の道へと招かれました。
 新約聖書ではどうだったでしょうか。使徒パウロは語ります。「神はわたしたちを…キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1:4)と。
 私たち一人ひとりは、このように旧約聖書から新約聖書へと繋がる、神さまによる招きと選びの伝統の中で生かされています。

 今日の三位一体主日では、新約聖書のエフェソの信徒への手紙の書き出しの部分が本日与えられた四つの聖書箇所の軸となる御言葉として与えられているわけですが、この手紙の中心となる考え方は、手紙の2章15節に記されている「キリストにおいて、対立する双方を一人の新しい人に造り上げる」というものです。そしてこれは今日お読みした箇所でも取り上げられているものです。

 1章1節~2節の挨拶に続く、先ほどお読みした3節~14節までは、この後の段落の15節~23節と同じようにギリシア語の原文では一つの長い文章となっています。そして少し見たり聞いたりしただけでも、創造や選び、予定(前もってお定めになった)や贖いといった、いわば神学的な用語がきらびやかに並べられていて、はかり知ることのできない神さまの恵みに対する歓喜と、そこから溢れ出てくる賛美といった趣を醸し出しています。
 初めの教会の礼拝の中では、実際に神さまを賛美する頌栄として、あるいは説教の役割の一端を担うものとして、今日お読みした箇所は朗々と朗読されていたようです。
 1章3節を慣れないギリシア語で読むと次のようになるでしょうか。“ユロゲートス ホ テオス カイ パテール トゥー キュリウー ヘーモーン イエスー クリストゥー,ホ ユロゲーサス へ―マース エン パセー ユロギア プネウマティケー エン トイス エプーラニオイス エン クリストー,”。朗々とはいきませんが、1900年ほど前の礼拝はこんな感じで始まったのでしょうか。

 新共同訳では「ほめたたえられますように」は文の最後にきていますが、原文では3節の初めに“ユロゲートス”-「ほめたたえる」あるいは「ほめたたえられよ」とあり、その後に私たちが神さまをほめたたえる動機、理由が続きます。
 なぜ私たちが神さまをほめたたえるのか。どのような神さまだからほめたたえるのか。それは「わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださった」(エフェソ1:3b)からです。この「キリストにおいて」の「において」は、先ほどの“エン クリストー”の“エン”ですが、「キリストによって」、「キリストを通して」、「キリストに結ばれて」、「キリストの働きで」など、いろいろな意味を含んだ「において」です。その「キリストにおいて」私たちを天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださった、すなわち私たちのための救いの働きを実現してくださった、その神さまをほめたたえるということです。

 そしてその救いの働きには二つあることが今日の箇所で示されます。
 まず神さまの選びです。「天地創造の前に」(エフェソ1:4)-この言葉は救いの確かさを表しています。すなわち「宇宙が形作られる以前に」-神さまは私たちを愛して、キリストにおいて私たちを選んでくださった。「キリストにおいて」というのは、神さまは何よりもまず主イエス・キリストを先んじて愛され、私たちがその愛の交わりに入れられて、神さまの御前で聖なる者、清い者となるように私たちを選んでくださったということです。
 主イエス・キリストの仲立ち、仲介によって私たちが信仰を与えられ、神さまの家族の中に迎え入れられて神さまの子どもとなる、そのことを神さまがあらかじめ決めておいてくださっていたということです。だからこそ私たちは、神さまがまず愛されたキリストを通して私たちに与えてくださった溢れるばかりの恵みをたたえる他はないということでしょう。
 それも、この救いの働き、救いの祝福は、私たち人間の営みや運命の偶然によるものではなく、神さまご自身の最も良いものを私たちに与えてくださるという、神さまからの一方的な恵みにあるのだから、神さまの自由な決断にあるのだから、その祝福の源である神はほめたたえられよ、ということではないでしょうか。

 詩編102編19節bに「主を賛美するために民は創造された」とあります。その通りでしょう。その通りなのですが、ここで大切なことは、私たちが神さまを賛美する、神さまをほめたたえるのは、ただただ賛美する、ほめたたえるのではなくて、そのことを通して、私たちは私たちの日々の生活の中で神さまの選びに応答していくのだということです。このことを忘れてはなりません。
 罪を赦されたイザヤが、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と申し出たようにです。

 そして救いの働き、救いの祝福の二番目は、神さまが決して気まぐれではなく、確信をもって私たちを選んでくださったことは、その選びが御子の十字架によって成し遂げられたというところから明らかとなりました。
 神さまは私たちを御前において聖なる者、神さまの子どもとするために、独り子なる御子を犠牲とされ、その贖いの血によって私たちに罪の赦しを与えてくださいました。これが神さまの選びに続く救いの働き、救いの祝福の二つ目です。
 この溢れるばかりの神さまの恵みが私たちに知恵と思慮深さとを与えて、神さまの「秘められた計画」(エフェソ1:9)-御心の奥義を私たちに悟らせてくださるのです。
 
 聖書の奥義は密儀宗教のようにいつも隠されているものではなく、今やすべての者に知られるようになったもの、私たちすべてに開かれているものです。すなわち、万物を、天上のものも地上のものも、敵対関係にあるものもすべてをキリストにおいて一つにまとめ上げるということです。
 対立と抗争、分裂状態にあるものの間に、キリストにおいて、和解と平和、一致がもたらされるということです。なぜならそこにはすべての者に対する十字架の赦しがあるからです。

 この「キリストにおいて」、“エン クリストー”がやはり大切です。
 あのバベルの塔を思い出してみてください。バベルの塔では世界中の人々は言葉も通じ、心も通じ、思いも一つでしたが、人々が始めたことは神さまへの挑戦でした。そしてバラバラにならざるを得ませんでした。
 ペンテコステではどうだったでしょうか。聖霊を受けた弟子たちが語り始めた言葉はバラバラでしたが、いろいろな言葉で語る、様々な形で表現する事柄はただ一つ、キリストにおいて神の偉大な業をたたえることでした。この「神の偉大な業」が、今日のところでは二つの救いの働き、二つの救いの祝福である、神さまの選びと十字架の赦しということになります。
 そしてその時、分裂は克服され、世界は一つとなるのです。

 キリストにおいてあらゆるものが一つにまとめられるという神さまの御業は今も進行中ですが、そのことを確証するものが、私たち信じる者すべてに与えられている聖霊であると、聖書は記しています。
 「相続人」、「相続者」という言葉が、今日お読みしたエフェソ書と同様ガラテヤ書にも出て来ますが、ガラテヤの信徒への手紙4章4節~7節を少しまとめると次のようになります。「神が、御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実によって、ただ一度きりの御子の派遣が、わたしたちを罪の支配から贖い出して、わたしたち一人ひとりを神の子としてくださった、相続人としてくださった」と。
 まさに神さまの栄光をたたえる他はないのです。

 ところで、これは一度お話ししたことがありますが、栄光とは一体何でしょうか。
 栄光とは、例えば、神さまが備えてくださるその人のその人らしさと言うこともできるかと思います。神戸栄光教会の栄光は、神さまが備えてくださる神戸栄光教会の教会らしさはどこにあるのでしょうか。私たちも問われています。
 イエスさまの栄光は、イエスさまのイエスさまらしさはどこにあるのでしょうか。イエスさまのイエスさまらしさは、イエスさまが十字架に架かられた時に現れました。そしてその時、神さまの栄光、神さまの神さまらしさもそこに現れたのでした。
 そして実はここに私たちの希望もあるのだということを、私たちは忘れてはなりません。私たちのたたえる栄光とは、ただ光り輝いているだけではない、このような栄光なのだということを。

 その栄光に感謝し、その栄光を喜び畏れつつ、苦しみの中で私と共にいてくださる主と共に生きていきたいと心から願います。その栄光に向けて、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と応えながら。
 祈りましょう。

 神さま、主の年2021年の聖霊降臨節第2主日、三位一体主日の朝、あなたによって与えられたそれぞれの場で共に礼拝に集い、あなたの栄光をたたえるひと時を持つことができ、心より感謝いたします。
 聖霊の息吹が私たちの世界の隅々にまで吹き渡り、すべてが新たにされ、霊に満たされて、御言葉に押し出されて祈り、働く中で、私たちがキリストにおいて信仰を示しつつ、日々の課題と取り組んでいくことができますよう、私たちを導いてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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