6月6日(日)聖霊降臨節第3主日礼拝「お知らせしましょう。」
更新日: 2021.06.11
2021年聖霊降臨節第3主日(2021.6.6)礼拝説教 牧師 野田和人
エゼキエル書18章26~32節、使徒言行録17章16~34節
牧会祈祷
慈しみと憐れみに富み給う、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2021年の聖霊降臨節第3の主の日も、この世界に吹き渡る聖霊の導きによって私たち一人ひとりが様々な仕方であなたの前へと召し出され、隣りにいる友、物理的に離れている友、天へと帰って行かれた友のことも覚えながら、渇きと祈りの中で、離されている者たちが一緒に今日の礼拝をささげることのできる大きな恵みを心より感謝いたします。
神さま、あなたはあなたの御子を私たちと同じ人間の姿でこの世界へと遣わされ、そのことによって私たちに対する救いの業を完成されました。あなたは、罪と死の力に支配されている私たちをその縄目から解き放ち、私たちに永遠の命を賜るために、あなたの愛する御子をこの世界へと遣わされました。
聖書はこのことをはっきりと証しし、これを信じた人々の救いの連鎖をはっきりと証言しています。そして、キリストの教会は実に2000年に亘って、私たちに賜ったこの救いを語り継いできました。
この救いの連鎖を、私たちの愛する子どもたちに、私たちが出かけて行って出会う人たちに、そして私たちの所を通り過ぎていく人たちにも私たちがしっかりと繋いでいくことができますよう、今日あなたが私たちに語りかけてくださる御言葉に私たちが耳を傾け、あなたの心を聴き取ることを、聖霊の助けをもって導いてください。
神さま、一年前と同じ祈りをささげなければならないことに本当に驚いています。
まだまだ収束の兆しを見せない新型コロナウイルスのパンデミックによって、私たちの世界が直面させられている分断、格差という脅威を、私たちが共に生きる-共生という希望へと向けて少しずつでも収めていくことができますよう、祈ります。
そのための知恵と勇気を私たちが示し、そのために献身的に働く人々を私たちが祈りと行動をもって支えていくことができますよう、御言葉によって私たちを導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
説 教 「お知らせしましょう。」
私たちは私たちの神さまを本当に知っているのでしょうか。本当はよく分からなくて、とにかくお祈りだけでもしておこうかと考えていたりしてはいないでしょうか。これくらいお祈りしておけば、そのうちの少しくらいは何とかしてくださるんじゃないかと思ったりしていないでしょうか。
神さまを、自分の不利益に備えてそれを補ってくださるような担保として考えてはいないでしょうか。神さまが当の債権者であるのにもかかわらず、です。
アテネのアレオパゴスで「知られざる神」を拝んでいた人たちも、実は今お話ししたこと-神さまを、自分の不利益に備えてそれを補ってくれるような担保として考えること-と同じような感覚を持っていたのではないかと思うのです。例えば、自分が知らずに犯してしまった罪も、「知られざる神」にお願いさえしておけば何とかしてくれるだろうということです
私たちは自分の神さまを知っていて、その神さまを拝んでいる、あるいは、自分が知っていると思い込んでいる神さまを拝んでいるわけですが、そこで当の債権者である神さまを、債務者である私たちが担保に取ってお願いをしているに過ぎないということであれば、それは「知られざる神」を拝んでいる人たちと同じように、たいへん虫のいい話ではないでしょうか。
ところが、「本当にあなた自身の不利益、不都合、すなわち罪の埋め合わせをしてくださり、そのことによってあなたを新たにしてくださる方がおられるのです。あなたが『知られざる神々』のうちの一人として知らずに拝んでいる、その本当の神さまをお知らせしましょう」。これがアレオパゴスでの使徒パウロの演説でした。
マタイによる福音書18章(21-35)にある「『仲間を赦さない家来』のたとえ」を思い出してみてください。この譬は「天の国」の譬となっています。
「ある王が、家来たちに貸したお金の決済をしようとしました。そのうちの一人の家来の借金があまりに多額だったので、王である主君はその家来に返済方法を明示してまで返済を命じたところ、家来は主君の指示は横において、ただただ返済を待ってもらうよう懇願しました。すると主君はその家来を憐れに思って、多額の借金を帳消しにしたのです。ところがその家来が、自分が主君から借りていた額の60万分の1の借金を自分にしていた仲間に町で出会うと、家来は仲間にすぐにその借金を返すように迫り、仲間の『待ってほしい』との願いも全く聞き入れずに、借金を返すまで仲間を牢に入れてしまいました。そこで主君は怒って、その家来が借金をすっかり返済するまで牢役人に引き渡した」というお話です。
家来は、王である主君をもちろん知ってはいましたが、自分の不利益-借金が帳消しにされた瞬間、それをすべて自分の益だと思い込んでしまいました。そして、もはや主君には目も呉れずに自分の世界だけで生きるようになってしまったのでした。
家来の心は、主君の本質である「赦し」に向けられることはありませんでした。この譬の中心には「赦し」があります。そして家来は、本当の主人を知りませんでした。
「この本当の主人をお知らせしましょう」。パウロの出番です。
聖書の語る罪は、ご存知でしょうが、もともとは「的外れ」という意味です。
私たちは私たちが生きていく中で、自分はどうも自分が的だと思っているものから外れていっているのではないか、的からどんどん逸れていっているのではないかと思う時があります。けれどもそのような私にも、的の中心へと近づいていく、的の中心へと戻っていく余地が与えられている、的から外れたままではすまされないということ、それが、私たち一人ひとりが生かされているということだと思います。
それではどの的へ向けて私たちがやり直すのか、どの的を目掛けてあらためて矢を射るのか。「その的をお知らせしましょう。あなたが知らずに拝んでいる『知られざる神』の本当の姿をお知らせしましょう」とパウロは語るのです。
アテネのアレオパゴスでの彼の演説の特徴は、彼の話を聞く相手が、それまでのようなユダヤ人や神を畏れる人たち、すなわちギリシア人でありながらユダヤ教の信仰に共鳴した人たちではなく、数知れない神々にささげられた祭壇と神殿に満ちたアテネの町に住む、聖書の神については何も知らない哲学者ら教養人たちだったというところにあります。彼ら教養人たちは、パウロが活躍する300年も400年も前からの哲学に始まる知識の伝統を受け継いでいる者たちでした。
彼らは何か新しいことを聞いたり話したりすることだけで時を過ごしていました。そのような彼らに対して、パウロはアテネの大通りを歩いていて見かけた祭壇に刻まれていた「知られざる神に」という碑文をキーワードにして、聖書の神を説いていくのです。
この「知られざる神に」という碑文は、自分たちが様々な神々から恩恵を被っているのにそれに気づいていないで、その気づいていないことから誘発されてくる罪によって被る神々による罰から逃れるために、「知られざる神々」にも一応祭壇を築いておくという、多神教特有の宗教装置と考えることもできます。
パウロはこの宗教装置を逆手にとって、彼らが知らずに拝んでいる神々のうちのただ一つなる神こそが、イエスさまを死者の中から甦らせた唯一なる神なのだという核心へと、アテネの知識人たちを導いていくのです。
そして、旧約聖書の創世記に記されている「世界とその中の万物とを造られた神」(使徒17:24)という万物の起源から始めて、神が真に神であるのなら何かに欠けるということはなく、したがって神殿にも住まず、仕えられる必要もないという、神殿批判と祭儀批判を織り交ぜながら、ギリシアの神々とは異なる神の特性について語ります。
そこで、「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださる」(同17:25)神、私たち人間との関わりの中で生きて働かれる神がおられるのだということへと人々の耳目を注目させ、そのような神によって創造された人類は本質的には一つであることを宣言するのです。私たち人類は一人の人から造り出されてきたものであると。
そして、人間を神の像に似せて無から造り上げ、その人間との関わり、交わりを通して一人ひとりの人間を一個のかけがえのない存在、神さまの目に価高く貴い存在とされた神によって造られた者だからこそ、人間は自らの神を探し求める性質を持っており、またそうすべきであるとパウロは指摘するのです。
「探し求める」と言えば、何度かお話ししたことがありますが、4世紀の神学者であり哲学者でもあったアウグスティヌスが著した『告白録』の冒頭が思い浮かびます。
第1巻、第1章、第1節の最後の部分に次のように記されています。「あなたがわれわれをかりたてます。あなたを讃えることが喜びであるように。それは、あなたがわれわれをあなたに向けて造られたからです。そのためわれわれの心は、あなたのうちに憩わないかぎり安らぎを得ません」。
「あなたが私たちをあなたに向けて造ってくださった。だから、私たちの安住の地はあなたのうちにしかないのです」。アウグスティヌスはこうして的を射抜きました。
今日お読みした使徒言行録17章28節でパウロが引用している詩は、二つとも汎神論的な考え方を持つストア派のものです。汎神論というのは、宇宙と神とを同一視して、神さまの人格性や超越性を認めないというものです。そのストア派の詩ですので、後に登場する「その子孫」は、ゼウスの子孫ということになるのですが、パウロはそんなことにはお構いなく、「その子孫」を万物の創造主である神の子孫と読み替えます。
そして、確かに私たちは神の子孫ではあるが神ではなく人間に過ぎず、そのような人間の考えで作った偶像が神と肩を並べるわけがないと、これまでの神殿批判、祭儀批判に続いて偶像批判を展開します。
そして今必要なことは、旧約聖書のエゼキエル書に記されている、「悔い改めて、…新しい心と新しい霊を造り出すこと、すなわち…神に立ち帰って生きることである」(エゼキエル18:30-32)と説くのです。
「そのために神は御子イエスを遣わされ、十字架の死の後に甦らされたのです。これが的です。どうですか、お分かりいただけますか」と、パウロは聴衆に向かって訴えるのです。
私たちの罪よりの救いの確証は、赦しの確証は、それはもちろん裁きと表裏一体のものですが、私たちの罪よりの救い、赦しの確証は、ご自身の身をささげることによって私たちの罪を贖ってくださった主イエス・キリストの甦り、復活にあるのだということ、これが、パウロがこのアレオパゴスでの演説でアテネの知識人たちに最も伝えたかったことでした。
自分たちの「知られざる神」とは実はこのような人格神、私たち人間との関わりの中で生きて働かれる神であり、その的の中心にはイエス・キリストの復活があるのだということ、この新しいことを聞かされたアテネの人たちの反応はどうだったでしょうか。哲学論議との大きな違いにさぞ驚いたことでしょう。しかし「ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた…』」(使徒17:32)と聞き流しました。
ところが驚くべきことに「彼について行って信仰に入った者も、何人かいた」(同17:34)と記されています。その人たちはパウロの言葉を聞いて信じたのです。そうです。本当の的に気づいて、やり直したのでした。
多神教的、汎神論的な伝統の中で様々な神仏が祀られ、各種の宗教行事が盛んに行われながらも、神さまのことは知らない、あるいは意識することもないような私たちの住むこの日本においても、「知られざる神に」という碑文の刻まれた祭壇があることを聖書は伝えています。
私たちはその祭壇の前で、私たちを死から生へと呼び起こしてくださる、「お前たちは立ち帰って、生きよ」(エゼキエル18:32)と私たちを呼び覚ましてくださる神さまの訪れを聞くことができるでしょうか。「知られざる神に」の碑文の前で、本当の神さまを知ることができるでしょうか。
そこであざ笑うのではなく、「それについては、いずれまた」と聞き流すのでもなく、私たちのために、私たちの痛み、弱さを担い、私たちの罪を贖ってくださった主イエス・キリストの十字架と復活を、主イエス・キリストの赦しと再生の希望を信じることができるでしょうか。
私たちもアレオパゴスでの「お知らせしましょう」とのパウロの言葉を今聞いています。そして聞いて信じる時、私たちは「新しい心と新しい霊を造り出すこと」ができる、神さまに立ち帰ってやり直すことができる、的の中心に当てることができるのです。
祈りましょう。
神さま、あなたは私たちをあなたに向けて造ってくださいました。ですから、私たちはあなたのうちに憩わないかぎり安らぎを得ないのです。私たちがこの安らぎを得ることを可能にしてくださった主イエス・キリストの献身と復活に心から感謝します。
そしてこの安らぎを、私たちの生きている世界の安らぎとすることができますよう、私たちの祈りと行動を導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。