牧師メッセージ

6月13日(日)聖霊降臨節第4主日礼拝説教 「あなたを照らす光」

更新日: 2021.06.16

2021年聖霊降臨節第4主日(2021.6.13)礼拝説教     牧師 野田和人
子どもの日・花の日
イザヤ書60章19~22節、フィリピの信徒への手紙2章6~16節

牧会祈祷
 愛と憐れみの主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2021年の聖霊降臨節第4の主の日の朝も、あなたの声を聞くことへと私たち一人ひとりを呼び覚まし、世の光としての私たちの使命を、御言葉を通して私たちに伝えてくださるこの礼拝へと呼び集めてくださったことを、心より感謝いたします。
 新型コロナウイルスのパンデミックによる緊急事態宣言が継続する中で、あなたの民がひと所に集まって礼拝をささげることは叶いませんが、それぞれに与えられた場所で、様々な仕方で賛美と祈りを合わせ、じりじりしながら御言葉から糧を得ています。
 私たちはどこにあっても、またどのような状況においても私たちが神さまの家族として一つであるということを、私たちの間を吹き抜ける聖霊の風を通して感じ取ります。

 特に今日は、本来ならば日本基督教団の行事暦によって定められている「子どもの日・花の日」の、ジュニア・子ども祝福全家族礼拝に共に集うはずだった私たちの愛する子どもたち一人ひとりを覚えて祈りをささげます。
 昨年に続いて、みんなで一緒に祝福に与ることはできませんが、どうか私たちの未来である愛する子どもたち一人ひとりの命と人格が尊ばれ、どの子どももあなたに守られて健やかに成長していくことができますよう、祝福し、お導きください。

 この世界には多くの声があり、多くの霊があります。どうか私たちにあなたの声に耳を傾けさせ、あなたの霊を受け入れさせてください。
 あなたの真理を私たちに輝かせてくださる光の霊を、
 あなたの臨在を私たちに気づかせてくださる静寂の霊を、
 私たちの心から不安を取り除いてくださる勇気の霊を、
 私たちを静め、あなたの言葉に耳を傾けさせてくださる平和の霊を、
 福音を告げ知らせるよう私たちを励ましてくださる喜びの霊を、
 助けを必要としている人たちに向けて私たちを開いてくださる愛の霊を、
 そして私たちすべてを主イエス・キリストに従うものとしてくださる真理の霊を、
 私たちに受け入れさせてください。
 この日、この場で、また離れた所で、あるいは異なった時間に、共に礼拝をささげる全世界のあなたの愛する友とともに、この祈りを私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前におささげいたします。アーメン。

説  教          「あなたを照らす光」
 愛する皆さん、もうしばらくの辛抱ですね。
 今日最初にお読みした旧約聖書のイザヤ書60章、今日は19節からお読みしましたが、60章の初め、1節、2節には次のように記されています。
 「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」。
 「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く」-この告知への応答として、今日お読みした箇所、「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない」(イザヤ60:19a)との言葉があります。

 これはもちろん「太陽も月ももはやあなたを照らすことのないような暗闇の中にあなたはいるのだ」というネガティヴな事柄を語っているのではありません。そうではなく、19節前半の言葉は、この直後に語られる「主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる」(同60:19b)-だから、もはや太陽の光も月の輝きもあなたには必要がないのだという、私たちに対する主なる神さまのたいへんポジティヴな働きをより鮮明にさせるための告知でした。

 バビロン捕囚からの解放後20数年を経た紀元前515年、エルサレム第二神殿は完成しましたが、ただそれだけでイスラエルの民にとって新しい救いの時代が到来したわけではありませんでした。この神殿再建を巡る熱い期待と深い失望の中で、イザヤ書56章から始まる第三イザヤの預言は熟成されていきました。
 そこで語られた神の民の救いの約束の言葉が、今日お読みした箇所となっています。その救いにはもはや太陽の光も月の輝きも必要ではない。ただあなたの神が、「主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる」(同60:20)のだ、と。
 この預言が、第三イザヤ以来、新約聖書の最後の文書であるヨハネの黙示録にまで受け継がれて、聖書の民の確信となっていきました。ヨハネの黙示録21章23節には次のようにあります。「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである」。

 イエスさまの時代においても、ファリサイ派の人たちも、苦しみの中にあるユダヤ人たちのために神さまが最後に成し遂げられる贖いという、古代の約束を大切に保持していました。彼らはその神の到来を祈願し、メシア-救い主がその義を現して、すなわち、神さまと共にある私たちの生き方を示して、その王国を、その支配を開始する日を心待ちにしていました。
 そのような所ではかえって、「神の国は一体いつ到来するのか」といった問いをあからさまに投げかける者もいました。イエスさまがこの問いに答えておられます。
 新約聖書のルカによる福音書の17章20節以下で、イエスさまは次のように仰いました。「ファリサイ派の人々が神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は見える形では来ない。「ここにある」「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』」。

 「神の国はあなたがたの間にある」-この言葉は、第三イザヤの文脈に則して言えば、「神はご自分に忠実な者たちと共に、彼らの苦しみの中にさえおられて、彼らを主の平和へと導かれる」ということになります。
 「主があなたの永遠の光となり」、「主があなたを照らす光となり」というのは、何にもしない自分をただ神さまが自動的に照らしてくださるというのではありません。そうではなくて、神さまは、これもイザヤ書60章15節にありますが、「捨てられ、憎まれ、通る者さえなかった」者に語りかけてくださる主を自らの心の中に素直に受け入れる忠実な僕と共に、その苦しみの中にもいてくださるということです。だから「あなたの嘆きの日々は終わる」のです。
 神の国は、そのように忠実な僕としての神の民の間にあるということです。「主なるわたしは、時が来れば速やかにそれを行う」(イザヤ60:22)。そのようにして、キリストは来られたのでした。

 今日後からお読みした新約聖書のフィリピの信徒への手紙2章6節以下は、「キリスト賛歌」として知られている所です。皆さんももう何度もお聞きになったことでしょう。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6-8)。

 東南アジアのタイや、アメリカ合衆国などで神学教育に携わられ、2009年に80歳で天に召された、神学者であり牧師でもあられた小山晃佑先生が、『裂かれた神の姿』という先生が著された本の中で、この箇所-「キリスト賛歌」を引用して次のように語っておられます。
 「中心は名声と力の場所です。逆に周辺は名誉も力もない場所です。キリスト教はこのような中心と周辺の伝統的な考え方をひっくり返しました。中心の人物であるキリストは周辺に現れます。キリスト降誕の『周辺』や『辺境』といったイメージは、彼の生涯を貫きます。彼はエルサレムの門の外(周辺)で十字架に架けられました。この『周辺』の主題を使徒パウロは次のように記します。『キリストは、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした』。十字架という極端な周辺において、キリストは人類のための神の愛の究極の熱烈さを示しました。このように周辺に行きたもうキリストが新しい生命の中心に立ちます。周辺が中心に恵みを与えます」。

 最も周辺にある者が神さまのもとへと、中心へと迎え入れられたということ、ここに神さまの憐みの発露があります。神さまの憐みの究極の形は、このキリストの従順を通して示されたのでした。そしてそのことを、初めのキリスト教会は「キリスト賛歌」として歌い継いで来たのでした。
 使徒パウロが「キリスト賛歌」の中に、特に「それも十字架の死に至るまで」という言葉を挿入してエフェソの町の獄中からフィリピの町にいる愛すべき信徒たちに宛てて手紙を書いたことで、「キリスト賛歌」はこの聖書に記されることとなりました。そして私たちの目に触れ、耳で聞かれるものとなったのです。

 パウロはフィリピ書の 2章1節からの勧め、3節を見ますと「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」という勧めを5節の言葉でまとめて、次の「キリスト賛歌」へと移ります。
 「互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです」との5節の言葉は、次のように言い替えることもできます。「あなたがたがキリスト・イエスにあって思っているのと同じように、あなたがたの間でも思いなさい」。
 この「キリスト・イエスにある思い」、それが教会をキリストの教会として立たせるものでもあるのですが、その思いは、フィリピ書と同時代に記されたコリントの信徒への手紙二の8章9節でも明らかにされていました。
 「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。このことが一体どういうことなのかを明らかにしたのが「キリスト賛歌」だと言えるでしょう。

 キリストはへりくだりたまいて、ご自分を無にして、ご自分を空しくして僕となり、十字架の死に至るまで従順であられた。このため神は彼を高く挙げられた。受肉と十字架、それゆえの復活と高挙(高く挙げられること)です。
 これが、このよこしまな曲がった時代の中の最も低い所に現れてくださったキリストの進まれた道であり、この道を指し示しながら、パウロは今日の12節冒頭の「だから、わたしの愛する人たち」へと続けていくのです。
 「だから、この低きを良しとして、僕であることを引き受けて、従順であることを貫きなさい」と。「恐れおののきつつそのように進む中で、自分の救いを達成するように努めなさい」とパウロは勧めます。

 パウロにとって自分の救いを達成するということは、この後のフィリピ書3章10-11節に記されているように、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」ということなのですが、たとえパウロといえども、このことを、「キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中から復活する」ことを自分一人で達成することは決してできません。私たちはなおさらです。
 ただ神さまのみが、従順を貫いたへりくだりし者を高く挙げてくださる。その力が、「豊かであったのに私たちのために貧しくなられた」主イエス・キリストにおいて現されたわけです。

 神さまがこのイエスさまを死者の中から甦らせたのと同じ力で、この私を救い上げてくださる。神さまはそのようにこの私を救い上げることを望んでおられるのだということ、このことを私たちはかつて「捨てられ、憎まれ、通る者さえなかった」者に語りかけてくださる主を自らの心の中に素直に受け入れていった、神を畏れる者たちの従順と、キリストの従順とを通して知らされるのです。
 私たちは確かに未だに自分の救いを達成する道の途上にいます。そしておそらくその道の途上にいつづけることになるでしょう。けれどもそれが間違いなく約束された道の途上にいるということ、周辺が中心となるような道の途上にいるということを私たちが確信する時、従順な僕たちはこの世にあって輝くのではないでしょうか。
 この使命に私たちが生きる時、「自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」(フィリピ2:16)。
 祈りましょう。

 「破滅に先立つのは傲り。つまずきに先立つのは高慢な霊」(箴言16:18)。
 神さま、私を照らす光は主の従順と共にあることをあらためて覚えさせてください。
 その光の中で、私たちがあなたによって与えられる日々の課題と十分に取り組んでいくことができますよう、私たちを導いてください。
 主の御名によって祈ります。アーメン。

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