牧師メッセージ

6月27日(日)聖霊降臨節第6主日礼拝説教 「わたしは忘れない。」

更新日: 2021.07.01

2021年聖霊降臨節第6主日(2021.6.27)礼拝説教     牧師 野田和人

イザヤ書49章14~21節、使徒言行録4章23~37節

牧会祈祷
 憐れみと慈しみに富み給う私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、新しい主の日の朝の光に導かれて、それぞれに与えられた場で御前に集い、祈りと賛美とを合わせ、御言葉の糧によって生かされる礼拝をささげることのできる恵みに心より感謝いたします。
 主の年2021年の聖霊降臨節第6の主の日、「主にある共同体」との礼拝テーマの下、私たちをお忘れになることは決してないあなたに向けて私たちの寛容を示すことができますよう、私たちが争いの中から一番に脱け出すのではなく、そこに留まってなお互いに理解し合い、分かち合うことができますよう、あなたの御言葉を私たちの心に響かせてください。

 様々な事情で、あなたと結ばれている私たちの交わりから離れて行かれる方々がおられます。けれども、どのお一人おひとりもあなたがお忘れになることは決してないことを覚えて、私たちの交わりを閉ざすのではなく、また交わりの中に戻ってくることを私たちが願うのでもなく、私たちの交わりの輪を開いて、広げていくことができますよう、私たちを諭し、導いてください。
 そのために祈る私たちに与えられる神の民としての喜びを私たちの回りにも響かせていくことができますよう、私たちの生活を整えさせてください。

 私たちの生活は、私たちには予想もできないほどネガティヴな事柄や利害関係の大きな影響を受けてガラリと変化し、私たちもその変化の中に埋没してしまいがちになります。しかしそこにおいてもなお、あなたの福音は確かに聞こえてきます。
 御子を通して働かれる聖霊の力によって、私たちの日常に響く、私たちを一つにするあなたの福音に私たちが耳を傾け、あなたの平和の福音に生きる者となることができますよう、私たちを励まし導いてください。
 私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 
説  教          「わたしは忘れない。」
 私たちは、今年は5月23日にペンテコステを迎えて、今お読みした使徒言行録の2章の初めにある御言葉を通して、また毎年のペンテコステの度にご一緒にお読みしているリタニー、「この風を止めることはできない」とのリタニーを通して、ペンテコステの決意を皆さんとご一緒に宣言することができました。
 今日あとからお読みした使徒言行録4章の箇所は、その後日談、主を信じた最初の信徒たちの様子を描いた二番目の箇所に当たります。
 
 聖霊降臨の出来事によって、使徒たちは各地からエルサレムに集まって来ていた人たちにその人たちが分かる別々の言葉で、神さまの偉大な業について語り始めました。そして12人の弟子たちを代表する形でペトロの最初の説教がなされ、その力強い勧めを受け入れた三千人ほどの信徒たちの信仰共同体の姿がまず描かれます。
 2章41節以下には「ペトロの言葉を受け入れた人々はバプテスマを受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。…信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(使徒2:41~45)とあります。
 これに続いて、ペトロとヨハネが祈るために神殿へと上って行った際の、足の不自由な男との対話と奇跡、その出来事を目撃した民衆の驚き、その機会を捉えた神殿でのペトロの二番目の説教へと進みますが、4章に至って、ペトロらは彼らの大胆な活動にいら立つエルサレムの宗教指導者たちに捕らえられ、大祭司たちの尋問を受けます。
 しかしそこでペトロは「わたしたちが救われるべき名は、天下に、ナザレの人イエス・キリストの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)と大胆に語り、そのことで二度に亘って「今後あの名によって誰にも話すな」(同4:17)と脅された後、二人は釈放されます。

 この後が今日お読みしたところです。釈放された二人が仲間のところへ行き一部始終を話すと、信徒たちは神さまを賛美し、すべては神さまのご計画の中にあることを確信して「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」(4:29)と祈ります。すると祈りは聴かれ、「皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した」(4:31)のでした。
 そして「信じた人々の群れは心も思いも一つにし」(4:32)と、初めの信徒たちの共同の生活の様子が再び描かれるというわけです。

 このように、使徒たちが聖霊に満たされてイエス・キリストの名において力強く語ることを受けての信徒たちの一体性が、使徒言行録の2章と4章では強調されています。
 外に向けては何ら臆することなく「あのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのだ」(使徒2:36)と告白し、内に向かっては「心も思いも一つにし」ました。
 この「心も思いも一つにし」の「一つにした」という言葉は、彼らの変化を物語る言葉でした。すなわち、それまでとは違って、自分の持っているものを惜しみなく差し出すということ、持つということに執着しないで、私の内に生きて働いておられるキリストの霊に導かれて、大胆に語り合い、大胆に分かち合うということです。

 最初にお読みした旧約聖書のイザヤ書49章で主がイザヤに言われた「わたしがあなたを忘れることは決してない」との言葉が、キリスト・イエスを通してこのような形で実現されたと考えることもできるのではないでしょうか。
 主が私を忘れられた所で起こってくるのが、例えば奪い合いであり、主が私を忘れられない所で起こってくるのが分かち合いだと言えるのではないかということです。
 この、すべてを共有していた、分かち合っていたことについて記している33節から34節にかけては、次のような訳が良いかと思います。真ん中のところを新共同訳と比べてみてください。「使徒たちは、大いなる力で主イエスの復活を証しし、大いなる恵みが一同の上にあった。なぜなら信者の中には、一人も貧しい者がいなかったからである」。

 使徒言行録の著者であるルカは、自身のルカによる福音書の中で「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(ルカ12:34)とのイエスさまの言葉を記していますように、私たちの現実をよく見つめていました。そこで、「持つということ」-所有欲から解き放たれている状態にある共同体の様子を「一人も貧しい者がいなかった」と表しました。これは人々が経済的にバランスの取れた状態にあったことを表す言葉というよりも、自分が貧しく惨めであると感じさせられる者が一人もいなかったということではないでしょうか。そしてそれは私たちの豊かさについてもあらためて考えさせるものではないかと思うのです。

 先週(6/20)の礼拝の聖書箇所だったコリントの信徒への手紙二8章1節以下に「…満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった…」とあり、先々週(6/13)にも、また先週もお話しした中に「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(Ⅱコリント8:9)ともあったように、聖書の語る「貧しさ」は、その反対概念である「豊かさ」と直結しています。
 そしてそれは、イエスさまの語られた山上の説教の中にも、マタイによる福音書5章3節以下の山上の説教の初め、八福の教えの最初の教えにも見られるものです。「幸いだ、心の貧しい人たちは。なぜなら天の国はその人たちのものだから」。

 ここでイエスさまの教えを聞いているのは弟子たちですが、彼らは彼ら自身の従順によってイエスさまに従っていった時点で、自分たちのそれまでの生活の安定を失った状態にありました。自らの財産も、故郷と呼ぶことのできる土地やそこでの親しい交わりも失った上に、彼らは自分たちがこれから生き抜いていくための頼みとなる知恵も持ち合わせていませんでした。彼らは自分たちを召し出された方以外の何ものにも望みをかけることができなかったのです。
 イエスさまは、イエスさまゆえにあらゆる貧しさの中で生きることになった弟子たちに向けて語られました。すべてが主に向けて開かれた貧しさの中に主の聖霊の息吹が吹き込まれて、身も心も天の国の力で豊かに満たされる、そのような貧しい人々に向けて「幸いだ」とイエスさまは宣言されたのでした。
 これが例えば「貧しさがあふれ出て、豊かさとなった」、「貧しさによって、豊かになる」ということかと思います。ですから、ここで「一人も貧しい者がいなかった」というのは、今お話ししたような意味で「すべての者が豊かであった」とも言うことができるでしょう。

 使徒パウロはローマの信徒への手紙の中で「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。…わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ7:19,24)と絶望的な心情を吐露していますが、このような惨めさを感じさせられる者が一人もいなかったということなのです。
 描かれている事柄はあまりに理想的すぎるかもしれません。しかし、やはり最初の信徒たちの生きた経験を如実に伝えるものとして、キリストの体である教会が決して失ってはならない最初の共同の思い-自ら握りしめている物や心を神さまに向けて手放すことによって、そこに満ちてくる豊かさが確かにあるのだという思いがここには記されています。
 それはこの神戸栄光教会が135年前に立てられた時にもあった思いですし、この私たちがキリスト者として立てられた時にもあった最初の思いではなかったでしょうか。

 アウグスティヌスはその著書『告白録』の中で、「わたしを創造され、あなたを忘れるわたしを忘れ給うことなき神よ、わたしはあなたを呼び求める」と記していますが、その彼はローマの信徒への手紙の中の一節によって回心へと導かれました。「欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(ローマ13:14b)。
 欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはならない。この言葉が彼の肉を稲妻のように貫き、彼は回心へと導かれました。しかしその回心はもちろん彼のメリット-功績ではなく、母や友人たちの祈りを通して、私は忘れてもその忘れる私を忘れ給わない神さまによって備えられていたものでした。
 「肉に心を用いない」。このように備えられた最初の思いが、今度は聖霊の働きに導かれて主とその復活を大胆に証しし、そのことを通して身も心も、物も心も大胆に分かち合うことへと繋がっていきました。そしてパウロの語った「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」ような惨めな思いを打ち砕いて、霊の実を、愛、寛容、誠実といった霊の実を結ばせていったのです。

 「一人も貧しい者がいなかった」との言葉は、教会が立てられ、私たちが立てられた時の最初の思い-自ら握りしめている物や心を神さまに向けて手放すことによって、そこに満ちてくる豊かさが確かにあるのだという思いを、私たちに再び思い起こさせる言葉です。そしてそれが、神さまが私を忘れておられないことの証拠でもあるのです。
 あのペンテコステの霊、真理の風、愛の炎に導かれてキリストの証人とされた私たち一人ひとりがそれぞれに与えられた賜物を用いて大胆に語り、表現し、あらゆる偏見、差別を越えて、身も心も、物も心も分かち合う-そこには一人も貧しい者がいない-すべてが満たされている。これが今日私たちに与えられた恵みです。
 祈りましょう。

 神さま、聖霊降臨節第6主日の恵みを感謝します。今共にこの場に集うことのできないお一人おひとりを顧みてください。その場にあって、お一人おひとりの日々の生活を守り、祝福をお与えください。
 私は忘れても、忘れる私を忘れ給わないあなたの深い憐れみを感謝します。あらゆる偏見、あらゆる差別を超えて、すべての者に与えられているあなたの憐みを、聖霊の導きによって私たちも分かち合うことができますように。
 今、日本基督教団教師検定試験のための課題提出の真っ最中にある、山内慎平先生をはじめとするお一人おひとりの教師の上に、あなたのお守りと力強いお支えがありますように心から願います。
 主の御名によって祈ります。アーメン。

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