牧師メッセージ

7月4日(日)聖霊降臨節第7主日礼拝説教 「私には敵はいない。」

更新日: 2021.07.08

2021年聖霊降臨節第7主日(2021.7.4)礼拝説教     牧師 野田和人

歴代誌下6章12~21節、テモテへの手紙一2章1~7節

牧会祈祷
 真理と平和の源なる全能の神さま、御子イエス・キリストの年2021年の聖霊降臨節第7主日にあって、「祈り」の礼拝テーマの下、私たち一人ひとりがこの祈りの家へと召し出されて共に集い、御前に礼拝をささげることのできる大きな恵みに心より感謝いたします。
 新型コロナウイルス感染症の第4波の流行から互いを守るために、私たちは二ヵ月に亘ってこの礼拝堂での対面礼拝を数名の者で守ってきました。その背後にはリモート等を通しての何百人もの方々のお支えがありました。
 状況はそれほど変わらず、まだ予断を許しませんが、なおリモートを通して、またその場での祈りと賛美とを通してこの礼拝をお支えくださっている方々と共に、今日はたくさんの愛する友と一緒にこの場で礼拝をささげることのできる喜びを、私たちは分かち合いたいと心から願います。

 この喜びは、あなたの造られたこの世界の隅々にまで等しく行き渡るはずのものです。しかし私たちはあなたが与えてくださったこの大地に見えない境界線を張り巡らせ、利己心、敵意、傲慢さをもって敵味方を分け、分断と囲い込みの争いを繰り返しています。
 神さま、どうか私たちを私たちが望んでいない敵意という闇の中から掬い上げ、怒るに遅い者とし、互いを認め合うことのできる者としてください。
 あなたが主イエス・キリストを通して統べ治められるところに、私たちの敵はいないのですから。

 戦争、暴力、迫害、災害、病、孤独、高齢などのために困難の中にある者たちにあなたが目を留めてくださり、必要な助けと励まし、慰めを与えてください。そして私たちが復活の主にある希望を持って生きることができますよう、その道を整えてください。

 私たち神戸栄光教会の教会学校はまだ再開されていませんが、幼子、青年をはじめ、愛するこの神戸栄光教会に繋がるお一人おひとりを覚えます。長く教会生活を続けておられる方も、新しく私たち神戸栄光教会の神さまの家族の一員となられた方も、すでに召された方も、これから生まれて来る者も、共に赦されて、主の恵みの内を喜びをもって生きる者としてください。
 私たちの慈愛の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

 

説  教          「私には敵はいない。」
 愛する皆さん、お元気ですか。この礼拝堂で皆さんと対面でお会いするのは本当にお久しぶりですね。「対面で」という言い方にも少しは慣れてきましたが、そうではない方もまだたくさんおられることを覚えて、教会活動を少しずつ再開していきたいと願っています。
 今日後からお読みしたテモテへの手紙を記したパウロ先生も、こんな時のことを思って私たちに手紙を書き残してくれたのではないかと思います。

 その手紙の中で、使徒パウロは「信仰によるまことの子テモテへ」(Ⅰテモテ1:2)、そして私たち手紙の読者へ向けて語りかけます。「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」(同2:1)と。
 「願い、執り成し、感謝」。これらは私たちキリスト者がささげる祈りの内容を言い表している言葉ですね。途中の「祈り」には罪の告白も入ってくるでしょう。
皆さんもお一人おひとりがそれぞれ祈りの形を持っておられると思いますが、私の場合は、牧会祈祷もそうですが、例えば感謝、罪の告白、願い、そして執り成しといった形になるでしょうか。

 ダビデの子、ソロモンはどうだったでしょうか。今日最初にお読みした旧約聖書・歴代誌下6章の祈りを見てください。賛美、感謝、遠慮のない願い、そして最後に罪の告白-「罪を赦してください」でした。
 この祈りの核心部分も、お読みした最後の21節にあります。「僕とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けてください」(歴代誌下6:21a)。「この所」とは、主なる神が「御名を置くと仰せになった所」 (同6:20)-ここでは神殿、私たちにとってはすなわち教会のことです。
 「どうか、あなたのお住まいである天から耳を傾け、(この所でなされる祈りを)聞き届けて、罪を赦してください」(同6:21b)。

 このソロモンの祈りが新約聖書の時代へと受け継がれて、「神さま、あなたが御名を置かれるこの教会がささげる祈りを聞き届けて、私たちの罪を赦してください」との私たちの祈りとなりました。
 その教会がすべての人々のためにささげる祈りが何のためにあるかというと、私たち祈る者が、教会が「常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」(Ⅰテモテ2:2)とパウロは続けます。ここでの「品位」とは「公共の責任」、「公共の良識」ということになります。

 ただここで大切なのは、その祈りは一人自分のためだけにではなく、あるいはソロモン時代のイスラエルのためだけにではなく、また教会のためだけにでもなく、すべての人々のためにささげられなければならないということです。教会は他者と共に、「王たちやすべての高官」(Ⅰテモテ2:2)と共に、信心と公共の良識、平安と平和を生きる者でなければならないということです。これが執り成しの祈りです。
 教会がささげる祈りはすべての人々のためにささげられなければならない。なぜなら、神の御子であられる主イエス・キリストはすべての人のために、すべての人の罪を贖うために御自身を献げられたのだから。ここに偽りはない、とパウロは告げるのです。

 「すべての人々のために」-この手紙の2章では「すべての」という言葉が強調され、「王たちやすべての高官のためにも」と記されていますが、これは当時の政治を司る者たち、また異教徒や迫害者ら、自分たちを憎み、自分に敵対する者たちをも含むものと考えられ、まさに限定のない「すべての」ということになります。
 「王たちやすべての高官のためにも」ということについては、2章8節以下の大変議論を呼ぶ女性の果たすべき務め-教会で女性はこうあるべきだ、こうでなければならないといった事柄-について記されている箇所との関連で、教会内部の秩序を保持することとこの世界の支配構造の維持とを結びつけて、ここでは為政者、支配者のために祈ることが勧められているという考え方もあるのですが、2章4節の「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」との言葉を見れば、これらの祈りがこの世界の支配構造の安定のために祈られる祈りではないことが明らかとなるでしょう。

 「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」というのは、すべての人々が救われて真理を知るようになることが神さまのご計画の内にすでにあるということです。この世に対する神さまの救いの意志は、神なき者に対しても全く有効であるということです。
 だから教会がささげる祈りはすべての人々のためにささげられるのです。その根拠となっているのが、繰り返しになりますが、神の御子であられる主イエス・キリストはすべての人のために、すべての人の罪を贖うために御自身を献げられたという事実にあるということです。

 2章5節、6節は、当時の初めの教会においてすでに定式化されつつあった教会の告白、教会の信条として聞くことのできる言葉です。神は唯一であること、神と人との間の仲介者/仲保者も人としてのキリスト・イエスただ一人であること、そしてこの仲保者イエス・キリストの十字架の死がすべての人の贖いを可能にしたということ、この三つです。
 新約聖書の福音書のイエスさまの言葉、「人の子はー人の子とはイエスさまのことですがー人の子は多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」(マルコ10:45、マタイ20:28)とのイエスさまの言葉を先取りした感のある使徒パウロの言葉、「キリストは、わたしたちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世からわたしたちを救い出そうとして、御自身をわたしたちの罪のために献げてくださったのです」(ガラテヤ1:4)-このパウロの言葉を受けて形づくられていったのが、先ほどの初めの教会の信条でした。
 神は唯一であること、神と人との間の仲介者/仲保者も人としてのキリスト・イエスただ一人であること、そしてこの仲保者イエス・キリストの十字架の死がすべての人の贖いを可能にしたということです。

 私たちはすでに為されたこの教会の告白、信条、証を担い続けなければならないのですが、私たちが仲保者としての主イエス・キリストをどの程度分かっているのか、認識しているのかということについては、私たちはいつも問われる所ではないでしょうか。
 例えば、私たちは仲保者/仲介者が私たちに必要であることをまず分かっていません。かえって、神さまとうまくやって行くためには余計なもの、邪魔なものとさえ感じていたりするのではないかということです。
 神さまにお願いさえすれば一時の困難から救われる。しかしもしそうであるのなら、そこには罪とは何かということについて、私の罪がどれほど重いのかということについての認識が全く欠けていると言わざるを得ないでしょう。

 神さまと私たちの間にはたいへん大きな一つの傷口があって、私たちがそのような神さまと関わるというのは自明のことではないということです。今日ご一緒に交読しました詩編143編2節にありますように「御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいない」のですから。
 神さまに対する、また他者に対する私たちの関係は、その間で大変重大な修復を必要とするほど、いわば外科手術を必要とするほど、大きく乱されているのだということに私たちは気づく必要があります。
 この乱れを回復するために、この罪を取り除くためにこそ御子イエス・キリストは私たちの間に肉となって宿られ、すべての人のために、この最も小さい者の一人を生かすために御自身を献げてくださったのです。

 罪とは、例えばこのような最も小さい者の一人を殺してしまうということではないでしょうか。そうしないように、教会は「願いと祈り-罪の告白と、執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげ」るのです。
 教会はこの世界の支配構造の安定のためにではなく、私たちが「平穏で落ち着いた生活を送るため」に、平安と平和を造り出すために「王たちやすべての高官のためにも」祈るのです。

 2010年のノーベル平和賞を受賞された、中華人民共和国の著作家であり人権活動家でもあった劉暁波(リウ シアオ ポー)さんを思い起こします。彼は私と同じ1955年生れ。4年前の7月、61歳の時、志半ばで亡くなりましたが、彼が出席できなかった11年前のノーベル平和賞授賞式の際に読み上げられた、その1年前の2009年に彼が自らの裁判審理のために記した「私には敵はいない-私の最後の陳述」という文章が私の記憶に鮮烈に残っています。
 今から32年前、1989年に中国・北京で起こった天安門事件の時、私はブラジル・サンパウロでそろばん教師、日本語教師としての3年間の務めを終えて、サンパウロ日本人学校の生徒や現地の日本人、日系人、外国人を対象に始めた語学教室や学習教室も5年目となり軌道に乗っていた頃で、天安門事件のことについては大変なことだなあとは思いつつも特に意識はしていませんでした。
 皆さんはどうでしたか。ここにはその時まだ生まれていなかった方もたくさんおられますが、歴史を知ることはやはり大切です。

 事件から20年が経ち、劉さんの信念は全く変わることがありませんでした。そして次のような文章がノーベル平和賞授賞式で読み上げられました。
 「当局からの生活監視、労働強要、そして今再び私を敵とみなす政府によって私は被告席に押し込められている。それでも私は自由を奪った政府に対して伝えたい。20年前に『6月2日ハンスト宣言』で表明した時の信念と変わりはない。『私には敵はおらず、憎しみの気持ちもない』と。」「私は個人的な境遇を越え、国家の発展と社会の変化を見据えて、最大の善意をもって政権からの敵意に向き合い、愛で憎しみを溶かしたい。」「私がしてきたあらゆることは罪ではない。たとえ罪に問われても、恨みはない。皆さんに感謝を。」

 「私には敵はおらず、憎しみの気持ちもない。…愛で憎しみを溶かしたい」。この言葉は劉さんにとっては理想ではなく現実でした。そしてもちろんイエスさまにとってもこの言葉は現実でした。そして私たちにとってもこの言葉が現実であるはずなのです。
 私には敵はいない。この言葉は、私に敵対する者は全く寄せつけないという意味での私は無敵であるということを言っているのではもちろんありません。
 私には敵はいない。この言葉は、主イエス・キリストによって死から生へと、死から命へと生かされた最も小さい者の一人が、あらゆる障壁を越えてすべての人のためにささげる最も大きな執り成しの祈りではないでしょうか。
 祈りましょう。

 神さま、私たちは知っています。あなたの御前に自分をあるがままに、直接、ダイレクトに示すことは許されていないということを。あなたが私たちに仲保者イエス・キリストを与えてくださったことを心から感謝します。この主によって私たちは私たちの気づかない罪を知らされ、あなたに向けて執り成され、確かな命に生きることができるのですから。ますます困難を抱えているこの世界を主の平和で覆ってください。
 敵意の壁を取り壊し、敵をなくされた主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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