牧師メッセージ

8月8日(日)聖霊降臨節第12主日礼拝説教 「決められた道を走りとおし、」

更新日: 2021.08.12

2021年聖霊降臨節第12主日(2021.8.8)礼拝説教   牧師 野田和人
エレミヤ書20章7~13節、使徒言行録20章17~36節

牧会祈祷
 いつも私たちを植えられ、私たちを抜かれ、あらゆることを壊され、すべてを新たにされる私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2021年の聖霊降臨節第12主日、新型コロナウイルス感染症が猛威を振るう中にあって、この主の日に、この祈りの家である私たちの愛する神戸栄光教会の礼拝へと私たち一人ひとりが呼び集められ、対面で、あるいはリモートで、お互いに顔と顔とを見合わせながら、あなたの招きに応えて心からなる礼拝をささげることのできる大きな恵みに心より感謝いたします。
 私たちは先週の平和聖日においても平和を求める祈りをささげました。
 「詩人は語りました。『剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とし、国に向かって剣を上げず、戦うことを学ぶな』(イザヤ2:4、ミカ4:3)と。
 しかし影なる詩人は応えます。『鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ。弱い者も、わたしは勇士だと言え』(ヨエル4:10)と。
 神さま、ぶつかり合うこれらの詩から私たちを遠ざけず、研ぎ澄まされた心で私たちがより良く知り、私たちをあなたに委ねる信仰を与えてください。」
 このように祈りました。
 私たちが研ぎ澄まされた心でより良く知ることのできるものが何なのかは、沖縄、広島、長崎、そして日本の敗戦を通して私たちには明らかなことではないでしょうか。

 今日は礼拝の後、午後一時から行われる2021年の平和聖日講演会で「核のない世界を目指して」とのお話をお聞きできる幸いを心から感謝します。

 主イエス・キリストを通して示されたあなたの平和の福音が、私たちの生活圏を通して広められていく神さまの宣教に私たちが携わることのできる恵みを、私たちの近くにいる、また遠くにいる私たちの隣人と分かち合うことができますよう、私たちを導いてください。
 神さま、私たちの知っている所で、あるいは知らない所で大きな苦しみを背負っている人たちのことを覚えて祈ります。すべての人を慈しんでくださる主イエス・キリストゆえに、思いがけない所で与えられるあなたの癒しと平安が、それらお一人おひとりの生きる力となりますよう心より願います。
 この祈りを私たちの救い主、主イエス・キリストの御名によって御前におささげいた
します。アーメン。

説  教        「決められた道を走りとおし、」
 ひと月前の7月11日、聖霊降臨節第8主日礼拝での「私は何者?!」とのお話の中で皆さんとご一緒に見た、今日お読みした使徒言行録20章の一つ前、19章の1節には次のようにありました。「…パウロは内陸の地方を通ってエフェソに下って来て、何人かの弟子に出会い…」、そう、パウロの第三回宣教旅行の始まりのところでしたね。
 彼はシリアのアンティオキアから陸路を通ってエフェソの町に入りました。そこで三年ほど滞在し、新約聖書のコリントの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、フィレモンへの手紙などを認(したた)めた後、ヨーロッパの東端に位置するギリシアのマケドニア州を巡り歩いて言葉を尽くして人々を励まし、ギリシアで三カ月間を過ごします。その後、ギリシア国内は通って来た道を戻ってマケドニア州のフィリピへ、そこから船出して、アジア大陸の西の端に位置するトロアスまで戻ってきた後は、行きに通った陸路ではなく海路を選びます。
 それは「アジア州で時を費やさないように、エフェソには寄らないで航海することに決めていたから」(使徒20:16)でした。そしてトロアスからエフェソの南方約50㎞の所にある港町ミレトスの町まで、エーゲ海を通って船でやって来ます。第三回宣教旅行の最後の部分です。

 彼はここで、立ち寄るのをわざわざ避けたエフェソの町へ使いをやって、かつて過ごしたエフェソの町に立てた教会の長老たちを呼び寄せ、彼らに別れを告げるのです。 その時の別れの言葉が今日後からお読みした使徒言行録の箇所となっています。
 それは「自分の決められた道を走りとおし、あとはただ、投獄と苦難とが自分を待ち受けていると聖霊が告げているエルサレムへ戻る」(使徒20:24,23)だけといった自らの状況をエフェソの長老たちに向けて語る、訣別説教-遺言の形となりました。
 わざわざエフェソから長老たちを呼び寄せたわけですから、パウロには彼らにどうしても伝えたいことがありました。それは一言で言いますと、今日の箇所にも記されていますが、「キリストの教えに従う-仕える」ということです。

 8月の主日礼拝の説教題は皆さんがお持ちの8月の教会のカレンダー/予定表の上の部分に記されているのですが、皆さん通してご覧になっておられるでしょうか。
 各主日の説教題を順に並べてみますと、先週が「逃亡者、迫害者が…」、今日が「決められた道を走りとおし、」次週が「従う-仕える」、そして一週飛ばして「私たちは変えられる。」-「逃亡者、迫害者が…」「決められた道を走りとおし、」「従う-仕える」そして「私たちは変えられる。」と、実は一つの流れとなっています。

 パウロの訣別説教に戻りますが、ここではまずアジア州、すなわちエフェソの町での宣教活動について振り返ります。そして、「そして今」から始まる-この箇所には「そして今」という言葉が三回出て来ますが、それによって話の内容が分けられています-「そして今」から始まる22節からは、現在の状況と自らの決意を述べます。そして次の「そして今」(25節)からは、今度は自分自身とエフェソにある教会の将来について語り、最後の「そして今」(32節)からの箇所でこの訣別説教の結論を述べるという形になっています。

 ここでのパウロの語り口の特徴は、元々パウロと言えば大体そのような傾向があるのですが、全くあやふやなところがないという点でしょう。
 ユダヤ人の迫害に遭いながらも謙遜と涙をもって主に仕えてきたことは誰もが、エフェソの長老たちもよく知っているということですし、エルサレムでの自らの災難を予告しつつも、それは聖霊に迫られてのこと、聖霊に捕らえられてのことであり、「主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません」(使徒20:24)と言い切ります。
 そしてその「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために」(同20:28)、教会の群れの命を守るために長老たちを召し出したのでした。
 「群れの命を守る」というのは、ここでは、この時は、「残忍な狼ども」や「邪説を唱えて従わせようとする者」という、キリストの教えに反対する異端者からの攻撃に抗うということですが、現在ならどうでしょう。現在なら、例えば信教の自由を破壊しようとするものに対して抗い、先週は日本基督教団の戦責告白を皆さんにお配りしましたが、私たちの教団がそうすることのできなかった、権力におもねることをせず、キリスト者としての「見張り」の使命を貫徹するということでしょうか。
 そのために「わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい」(同20:31)とパウロはここで勧めるのです。

 彼がこれだけはっきりと語ることができたのは、自分は「役に立つことは一つ残らず」(同20:20)、「神のご計画をすべて、ひるむことなく伝えてきた」(同20:27)。「だから、だれの血(滅び)についても、自分には責任がない」(同20:26)という自負があったからでした。誇りがあったからでした。
 ただこの自負は、彼が「自分を全く取るに足りない者と思い、涙を流しながら、またユダヤ人の数々の陰謀によって自らの身にふりかかってきた試練に遭いながらも、主に仕えてきた」(同20:19)ところから導き出されてきたものでした。初めから、神さまからの力を背景にして、彼の身についていたものではありませんでした。

 これが一体どういったものなのかについて、少し見方を変えて、今日最初にお読みした旧約の預言者エレミヤの言葉に聴いてみたいと思います。
 エレミヤはその告白の中で次のように語ります。「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」(エレミヤ20:9)と。
 エレミヤは、そうしないでおこうとしても預言することを止めることはできませんでした。彼はどうしても主の言葉を伝えるように、伝えるようにと向けられていきました。そこで、神さまの代弁者-神さまの言葉を預かっている預言者ですから-神の代弁者としての彼の深刻な警告が、偶像崇拝へとひた走る民によって真剣に受け入れられ、聞き入れられ、民の中に深い悔い改めが呼び起こされることを祈り求めていきました。
 しかしそれは全く実現しませんでした。その代わり、彼の預言/警告は嘲りと虐待、迫害を引き起こす大きな原因となってしまいました。
 「わたしは神に惑わされた」-その激しい感情の吐露がエレミヤ書20章後半のエレミヤの誕生日の呪いとなって現れます。「呪われよ、わたしの生まれた日は。母がわたしを産んだ日は祝福されてはならない」(同20:14)。彼は20章の最後で「なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きに遭い、生涯を恥の中に終わらねばならないのか」(同20:18)とまで語りました。

 それでも彼は主の言葉を伝えることを断念することはどうしてもできませんでした。彼はそこで、「わたしは神に惑わされた」、「なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆
きと恥の中に生涯を終わらねばならないのか」との絶望、預言者の職務遂行を不可能にするような絶望の向こうに、その彼を神は用いられるということ、「なぜ、わたしは母の胎から出て労苦と嘆きと恥の中に生涯を終わらねばならないのか」との預言者の職務遂行を不可能にするような絶望の向こうに、その彼を神さまが用いてくださるという預言者の職務の本質を見出したのでした。
 彼の預言/告知/宣言は、彼が自ら紡ぎ出した言葉で語ったものではなく、神さまが彼にそのように語らしめた、揺るぎのない真実の現れでした。自分の生まれた日を呪う彼を通してなお、神さまの真実は伝えられるということ、だから「わたしの負け」なのです。先週のヨナも、今日のパウロも同じ思いだったのではないでしょうか。

 使徒言行録のパウロの訣別説教は、同じ著者であるルカによる福音書の22章に記されているイエスさまのいわゆる告別説教ともたいへんよく似ています。
 イエスさまは弟子たちとの最後の食卓で、最後の晩餐ですが、次のように語られました。「わたしは苦しむであろう。見よ、わたしを裏切る者があなたがたの中にいる。そしてわたしが去った後、教会の指導者の本来の姿についてあなたがたの間に誤解が生じるであろう。しかしあなたがた弟子である者は、給仕する者としてのわたしを模範とすべきである」と。そして弟子たちと一緒にオリーブ山に行かれた後、イエスさまは迫りくる誘惑と危険とを弟子たちに警告され、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と教えられたのでした。
 これはたまたまよく似ているというよりも、やはり使徒パウロが、主イエスが弟子たちに命じられた教え、主を模範とすべきである、主に倣うようにという教えを伝承に基づいて実践してきたからだと思います。それが「役に立つことは一つ残らず、公衆の面前でも方々の家でも、あなたがたに伝え、また教えてきました」との言葉となり、エフェソの長老たちに対して忠告に加えてあえて自分自身を模範として示し、あとは「神とその恵みの言葉とに」(使徒20:32)彼らをゆだねたのでした。
 この後パウロは彼の最後の自由な旅としてエルサレムへ向けて進み、エフェソの長老たちはパウロの模範に倣って、その教会の群れを養い、世話をし、その命を守っていきます。

 ところでこの「模範」ということですが、そもそも従うべき模範というものがなければ、私たちキリスト者もこの世に提示すべきものは何も持っていません。
 イエスさまはただ新しい考え、新しい思想を教えに来られたわけではなく、イエスさまの教えから自ずと湧き出てくる新しい生き方を私たちに示されたのでした。イエスさまの教えとその証言が指し示しているのは聖なる考え、聖なる思想というよりも、むしろそれを体現する聖なる民のことです。主イエス・キリストを通して示された神さまの恵みの言葉によって造り上げられ、聖なる者とされた民のことです。それは敵意という隔ての壁を取り壊すために用いられる聖なる民です。
 イエスさまがもたらしてくださった福音は、イエスさまに従う、イエスさまに倣う人々の心に響くだけでなく、私たちの生活そのものに体現されるのです。そのことを自らの存在を通して明らかにしたのが使徒パウロであり、私たちの知っているところで言えば、マザーテレサであり、デスモンド・ツツ大主教であり、ネルソン・マンデラ元大統領やキング牧師ら、主の平和のために生きた有名、無名の私たちの信仰の先達たち、その模範の連鎖なのではないでしょうか。
 私たちもこの模範の連鎖を、その鎖を繋いでいく一人ひとりなのだと、パウロはエフェソの長老たちを通して現代の私たちにも語りかけています。

 ところが、この使徒パウロのあまりに揺るぎのない証、宣言に対して「私にはとてもじゃないけれどそんなことはできない、彼は特別だ、例外だ」と、この模範の連鎖を断ち切ろうとする、私のところで断ち切ろうとする力が私たちに働いていることも事実ではないでしょうか。
 そこでの言い種は、私などの取るに足りない者が教会の群れや他の誰かに対して自分自身を模範として示すなどおこがましい、現実離れしている、という一見謙虚さを装う姿勢です。けれどもこの姿勢を推し進めていけば、私たちの主イエス・キリストも例外となってしまうでしょう。イエスさまは例外なのでしょうか。イエスさまを例外にしてしまうと、私たちは一体誰に倣うのでしょうか。
 こうした見た目の謙虚さは、実は高慢であることの裏返しではないでしょうか。あまりに高慢なので、神さまの恵みの福音を力強く証しするために求められる生活や心の転換を受け入れることができないのではないでしょうか。
 このことを、今日の使徒パウロのエフェソの長老たちに向けての訣別説教から私たちはあらためて示されます。

 私たちは謙虚さと高慢さ、謙虚さと傲慢とを取り違えてはいけません。エレミヤやパウロはその絶望的な状況を通して、その絶望の向こうにある彼らの職務の本質を見出しました。その彼らを、そのような状況にある彼らをこそ神さまは用いられるということです。
 彼らの預言/告知/宣言は、彼らが自ら紡ぎ出した言葉で語ったものではなく、神さまが彼らにそのように語らしめた、揺るぎのない真実の現れでした。
 そしてそれは私たちも彼らと同じように見出すことができる、その真実に近づくことができるのだと、パウロは語っています。
 「あなたがたはそのようにして神とその恵みの言葉とにゆだねられた、神とその恵みの言葉とに手渡された聖なる民として、堂々とキリストの模範の連鎖に加わって、主が与えてくださった平和を現実のものとして生きることができるし、そうすべきだ」と。
 祈りましょう。

 神さま、あなたの平和をあなたの真実の現れとして私たちに与えてくださったことを心から感謝します。あなたの平和が現実であることを否定しようとする私たちの高慢さ、傲慢を、どうか聖霊の力によって打ち砕いてください。
 そして決められた道を走りとおす小さな一人ひとりを、あなたに連なる平和の道具として力強く用いてください。
 主の御名によって祈ります。アーメン。

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