牧師メッセージ

8月15日(日)聖霊降臨節第13主日礼拝説教 「従うー仕える」

更新日: 2021.08.21

2021年聖霊降臨節第13主日(2021.8.15)礼拝説教   牧師 野田和人
創世記24章62~67節、コロサイの信徒への手紙3章18節~4章1節

牧会祈祷
 いつも私たちを植えられ、私たちを抜かれ、あらゆることを壊され、すべてを新たにされる私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2021年の聖霊降臨節第13主日、新型コロナウイルス感染症が一年と数ヵ月を経て今なお猛威を振るい、日本各地では大雨による被害、災害が続いている中にあって、この8月15日の主の日に、あなたが愛してくださるこの神戸栄光教会の礼拝へと様々な仕方で私たち一人ひとりが呼び集められ、あなたの招きに応えて、この場で、またあなたに与えられた場で共に礼拝をささげることのできる恵みを心より感謝いたします。
 私たちは今日8月15日に、76年前の悔いるべき戦争の敗戦の記念の日を迎えました。私たちが私たちの子どもたちの将来に向けて今為すべきことは何か、深い悔悟の念をもって平和を祈り求めて止まないお一人おひとりの祈りに合わせて、教会学校をはじめ、尼崎市内の園田愛児園や立花南愛児園の子どもたちと一緒にささげる「こどもへいわせんげん -へいわをいのる- 」の祈りを今年もここにおささげいたします。

 かみさま わたしたちは へいわの はんたいについて かんがえました。
 へいわの はんたい それは せんそう さつじん
 へいわの はんたい それは ぼうりょく けんか
 へいわの はんたい それは かくへいき うえ

 かみさま わたしたちは へいわの イメージについて かんがえました。
 いえが ある。ともだち かぞくが いる。テレビが みられる。
 はたけが いっぱい あって たべものと みずが ある。
 まいにち みんなが わらって すごせる。がっこうに いける。
 うれしいこと かなしいこと たのしいことが かんじられる。
 にゅうどうぐもが みられる。
 せんそうを しない。みんな しなない。だれも しなせない。
 まずしいひとが いない。みどりが いっぱい ある。

 かみさま わたしたちは へいわでない じょうたいも かんがえました。
 でんきが つかない。ばくだんが ふってくる。たべものと みずが ない。
 かぞくも ともだちも みんな いなくなる。がっこうに いけない。
 おかねを よくばる。みんなが しあわせじゃない。

 かみさま いまは ほんとうに へいわでしょうか。
 76ねんまえに あった せんそうで おおくの ひとが きずつき
 ころされました。もう にどと こんな せんそうは いやだと おもって
 いるのに せかいじゅうでは せんそうが たえません。
 そして せんそうを とめようと しないで かえって いつでも せんそうが はじめられるように すこしずつ じゅんびを しています。
 かみさま へいわを ください。
 かみさま わたしたちを へいわを つくるための どうぐに してください。

 かみさま へいわに なるために わたしたちは かんがえました。
 だれも せんそうに いかせない。じぶんも いかない。けんかを しない。
 たべものが ないひとに たべものを あげる。ぶきを なくす。
 かみさまに いのる。
 かみさま へいわを ください。
 かみさま わたしたちを へいわを つくるための どうぐに してください。
 へいわの しゅ イエスさまの おなまえによって いのります。アーメン。

説  教            「従う-仕える」
 今日は午後から、まだ合同礼拝を再開できていない教会学校の「夏の集まり」が、昨年の8月30日に続いて、昨年は一旦延期になって8月30日に行われたのですが、その昨年の「夏の集まり」に続いて行われます。無事に開催することができ、9月19日以降の、まずはJC・少年科合同礼拝の再開へと繋げていくことができるようにと心から願っています。
 教会学校のお知らせは、週報を開いて2頁の左上の四角の中に毎週掲載されていますが、その一番上には「教会につらなる神の家族」と記してあります。実はこの言葉が私たち神戸栄光教会の教会学校のテーマ/標語となっています。
 私がこちらに8年前の2013年4月に着任してしばらくして、当時の教会学校の校長から教会学校全体-こひつじ科、少年科、JCを併せた教会学校全体が一つになって歩むことができるようなテーマを示してほしいとのご要望を受け、私の希望も入れて、当時一緒に教職として務めてくださっていた橋本祐樹先生、汐碇直美先生らと話し合って最初に決めた教会学校のテーマが「神の家族」でした。
 2013年8月の週報からこのテーマ/標語が週報に記載されるようになり、2014年度の終わりにもう一度教会学校教師、スタッフと教職とで相談をして、2015年4月からは先のテーマに「教会につらなる」が付け加えられて教会学校のテーマが「教会につらなる神の家族」となり、現在に至っています。

 この教会学校のテーマ「神の家族」の背後にある、元となった聖書の言葉は「実に、キリストはわたしたちの平和であります」(エフェソ2:14)との有名な言葉で始まるエフェソの信徒への手紙2章14~22節の箇所です。
 「実に、キリストはわたしたちの平和であります」と言うときの「私たち」とは、この手紙が記された当時の紀元一世紀末(80年代後半)頃のユダヤ人とユダヤ人以外の他民族の人たち、すなわち異邦人たちをあわせた「私たち」のことです。
 キリストは、自分たちは神さまの近くにいると考えていたユダヤ人にも、あの人たちは、あいつ等は神から遠く離れていると考えられていた、また自分たちでもそのように思っていた異邦人たちにも平和の福音を告げ知らせられたということです。それはエフェソ書によれば、「十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされた」(同2:16)ということになります。

 何度かお話ししましたが、ここには二つの大切な事柄が記されています。まず、「十字架を通して、神と和解させ」-これはユダヤ人も異邦人も十字架の主イエス・キリストを通して、それぞれが神さまとの間の平和へと導き入れられたということです。
 そして、「十字架によって敵意を滅ぼされた」-これは、以前は激しい民族主義や宗教的要求、プライドによって互いを隔てて反目し、貶め合っていた者同士が、今は十字架の主イエス・キリストによって神さまとの間の平和へと導き入れられた者同士として結び付けられて一つになったということです。
 この二つの和解、まず私たちと神さまとの間の和解、そして私たち人間同士の間の和解、この二重の和解を明らかにしたところにエフェソ書の貢献が認められるわけですが、この二重の和解の下に結び付けられて一つになったものこそが、同じエフェソ書の直後で「もはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である」(同2:19)と告げられるのです。

 教会に来ている子どもたちが互いを隔てて反目し、貶め合っているわけではもちろんありませんが、エフェソ書のこの二重の和解-まず私たちと神さまとの間の和解、そして私たち人間同士の間の和解のイメージは、初めて教会に足を踏み入れる子どもたちも含めて、私たちの教会の外へと広げていくことのできるものだと考えています。
 教会の内へと、そして外へもこの二重の和解のイメージを広げていく中で、この「神の家族」は「キリストにおいて、…組み合わされて成長し、…霊の働きによって神の住まいとなる」(同2:21,22)となるのではないでしょうか。
 そうであるのならば、これは何も教会学校に限ったことではなく、私たちの教会にもそのまま当てはまるものであるということは明らかです。教会学校のテーマは確かに「教会につらなる神の家族」ですが、それは、こひつじ科から始まってご高齢の方々までをも、また新しく教会に来ておられるたくさんの方々をも含んだ大きな「神の家族」の中で、あらゆる敵意を滅ばされたキリストにおいて組み合わされて成長していく家族一人ひとりの、主と共にある集まりへと結び付いていくものであるということを皆さんにもご理解いただいて、この二重の和解の下でのお互いの成長のために祈り合っていこうではありませんか。

 実は今から12年前、2009年の神戸栄光教会の総員修養会のテーマが「神の家族」でした。当時総員修養会に参加された方は覚えておられるでしょうか。「神の家族-支え合う教会を目指して」。テーマとなった聖書の言葉、聖句はローマの信徒への手紙12章15節「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」でした。
 この言葉は直前の13節の言葉、「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい」と併せて、私たちが先程のエフェソ書の言葉にあった「キリストにおいて、…組み合わされて成長し、…霊の働きによって神の住まいとなる」とは具体的にはどういうことなのかについて私たちに教えてくれます。それは「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなす」ことだと。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことだと。
 修養会のテーマに基づいて10の分団に分かれて話し合われた内容の中で、いくつかの分団に共通なものとして挙げられていた言葉が「奉仕」でした。「仕えること」です。「神の家族」を表すキーワードではないでしょうか。

 今日後からお読みした新約聖書のコロサイの信徒への手紙の箇所は、いわゆる家庭訓-訓練、訓示の「訓」ですね、家庭道徳訓として知られている所です。初めて読まれた方はびっくりされたのではないでしょうか、聖書にこんなこと書いてるのって。初めて読まれて、あるいはもう何度も読まれてどんな印象をお持ちでしょうか。
 ここでは「従う」という言葉がキーワードになっているのですが、妻と夫、子どもと親、奴隷と主人といった家族関係を、従わせる者-従わされる者といった主従関係として固定化するような時代錯誤的な表現を、ここに感じられるでしょうか。
 この箇所は、実際まさにそうあるべきだ、そうすべきだという考えを一方的に押し付けようとする、この手紙が執筆された紀元一世紀後半(60年代前半)当時の価値観や常識をそのまま反映した、時代的制約を受けた個所として読まれたりもするところです。
 今日最初にご紹介したエフェソの信徒への手紙の5章後半の「妻と夫」の箇所を始めとして、新約聖書にはこのように家庭訓と呼ばれているものが合わせて5箇所あるのですが(後はⅠテモテ2:8-15,6:1-2、テトス2:1-10、Ⅰペトロ2:13-3:7)、特にエフェソ書はこのコロサイの信徒への手紙を下敷きにして、コロサイ書執筆から約20年後に記されたところから、コロサイ書の解説の役割も負っています。一度読み比べて見てください。

 ところでこのコロサイ書は、使徒パウロの死後まもなく、パウロにたいへん近い者によって執筆されたと考えられているのですが、私たちが「神の家族」と言う時、そのテーマとなる聖句の一つとして選ばれることの最も多い、パウロ自身の手によるガラテヤの信徒への手紙の3章28節には次のようにあります。覚えておられる方も多いでしょう。「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」と。
 奴隷も自由な身分の者もない、男も女もないとパウロは語ったわけですが、その主張と、パウロを引き継いだとされる者によって記された今日のコロサイ書の箇所とを比べて見ますと、この短期間に一体どこでどうなってしまったのか、一体何が起きたのかと考えざるを得ない変わりようではないでしょうか。言葉だけを抜き取ると「妻たちよ、…夫に仕えなさい」、「奴隷たち、…主人に従いなさい」というわけですから。
 そこで一つの理解としては、この箇所を使徒パウロの語った解放の福音、“liberation”の解放ですが、その解放の福音に対する反動として読むことができるというものがあります。解放-“liberation”に対する反動です。解放-“liberation”があれば、それに対して世の常として反動が出て来るものですし、それは私たち一人ひとり、誰の心の中にも芽生えて来るものではないでしょうか。そしてこの解放-反動は、残念ながらこの現代世界にも共通するところではないでしょうか。

 ただ今回は、先ほどの「神の家族」を表すキーワードである「仕えること」という視点から今日のコロサイ書の箇所を読み直すのもいいのではないかと思います。というのも、今日お読みしたコロサイ書の箇所は、直前にある3章17節の言葉「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」との言葉に続いて記された家庭訓であるからです。
 先ほどの「妻たちよ、…夫に仕えなさい」の言葉の間に「主を信じる者にふさわしく」とあるのも、この17節を受けての言葉だと思います。
 「すべてを主イエスの名によって」、この「主の名によって」、「主にあって」ということがすべての事柄の根底にあります。もちろん、家庭訓においてもです。そしてこの「主の名によって」、「主にあって」という言葉は、「主の導きの下に」と言い替えることもできるでしょう。

 今日最初にお読みした旧約聖書の創世記24章の最後の箇所は、アブラハムの息子イサクとその妻となるリベカの、掛け値なしに美しく、祝福された場面です。そしてこのお話の根底に流れているのは、24章全体をお読みいただければお分かりになるかと思いますが、神さまの導きなのです。詩編23編の作者が「主はわたしの魂を生き返らせ、御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる」(詩編23:2,3)と謳った導きです。この主の名による導きが家族の始まりには必ずあるということなのです。

 新約時代を生きる私たちは、そこでどのような主をイメージすることができるのでしょうか。皆さんはそこでどのような主を思い浮かべられるのでしょうか。
 それは例えば、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)と語られ、自ら弟子たちの足を洗われ、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13:14)と言われた主イエスの姿ではないでしょうか。ここに私たち「神の家族」の原点があります。

 弟子たちの足を洗われる主を通して、私たちに私たちと神さまとの間の和解が示され、私たちが互いに足を洗い合うことを通して、私たち人間同士の間の和解がもたらされる。
この二重の和解を教会の内へと、また外へと広げていく神の家族の一員として、私たち一人ひとりは時代的な制約に関わりなく立てられているということです。
 そのようにして、「あなたがたは(私たちは)主キリストに仕えているのです」(コロサイ3:24b)。祈りましょう。

 神さま、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行う」(コロサイ3:23)ことができるようにしてください。
形だけで姉妹、兄弟と呼び合う偽りを捨て、幼子から、人生の深みを私たちに現してくださるご高齢の方々に至るまで、主に結ばれた神さまの家族となることができますように。
 そして今日午後に行われる予定の教会学校「夏の集まり」で、あなたが与えてくださる生きた水、永遠の命に至る水について学ぶ子どもたちと共に、私たちをその水によって潤される、主の示してくださった平和に仕える者としてください。
 主の御名によって祈ります。アーメン。

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