牧師メッセージ

8月29日(日)聖霊降臨節第15主日礼拝説教「私たちは変えられる。」

更新日: 2021.09.04

2021年聖霊降臨節第15主日(2021.8.29)礼拝説教   牧師 野田和人

列王記上3章4~15節、コリントの信徒への手紙一15章35~52節

牧会祈祷
 慈愛に富み、憐れみ深い私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの名によって治められているこの地で私たちが生かされていることに感謝して、御名の栄光をほめたたえます。
 主の年2021年の聖霊降臨節第15主日の朝、緊急事態宣言の継続によってあなたの家族が共にこの御堂に集うことのかなわない中、様々な形で、また身体的、精神的に様々な状況を経験している中にあって、この主の日の礼拝に向けて私たちが一つとされていますことを心より感謝いたします。

 新型コロナウイルス感染症への対応によって日本や世界が揺り動かされる中、アフガニスタンやミャンマーをはじめ、自分の回りを少しでも冷静に見回せば、日本や世界の至る所で人間が人間を力で支配しようとすることの愚かさが、私たち人間に悲惨な結果をもたらしています。
 私たちはいつまで“Pax Romana”-ローマの平和、力による平和を望み続けるのでしょうか。あなたは私たちに人を殺すことではなく、救うことを教えてくださったというのに。
 悔い改め、最も小さい者の一人に為してくださる主の平和に生きる希望を、礼拝での賛美、祈り、御言葉を通して私たちに示してください。

 病のため、治療や療養のため、術後のリハビリのため、老いのため、孤独と向き合いつつ、困難の中にあってこの礼拝の時を覚え、その場で共に祈りをささげてくださっているお一人おひとりの傍らにあなたが共にいてくださって、私たちと共にそのお一人おひとりの支え、また助けとなってください。
 あなたの慰めと憐れみの内に私たちは避け所を与えられ、あなたの平安に生きる希望を持つことができるのですから。
 このお祈りを、私たちの平和の主イエス・キリストの御名によって御前におささげいたします。アーメン。
 

説  教           「私たちは変えられる。」
 先週の24日(火)から25日(水)にかけて、関西学院大学神学部と神学部の同窓会に当たる成全会の共催で“MSセミナー2020・2021”が当教会の地階集会室で開催されました。このセミナーは、日本キリスト教団の教会へ教師として遣わされて5年目、10年目の方々を対象に、その教師たちが牧会に出てからのフォロー/アフターケアも兼ねて行われるもので、今回はそれぞれ6人、4人の計10人の参加がありました。
 先輩諸先生方の神学講演を2回、牧会講演も2回聴きながら、今後のそれぞれの牧会へのヴィジョンを語り合うという、たいへん貴重なセミナーですが、参加者一人ひとりに課せられるのが、その週の直後に来る主日-そう、今日のことですが、日本キリスト教団の今日の主日聖書日課に基づいた説教なのです。そうです。今お読みした新約聖書のコリントの信徒への手紙一の15章35節~52節に基づいた説教です。
 この聖書箇所に基づいた参加者全員の説教10本が後半に印刷されたセミナーのハンドブックを見ながら、講師、スタッフ、参加者一同26人がセミナーに臨むわけです。
 二日間、朝、夕、4回の礼拝では、参加者自身が語るその説教を実際に聴き、あとの6人の説教はそれぞれが目で読むという形です。同じ聖書箇所での説教を一挙に10本。さすがにいろいろ考えさせられました。
 参加者のうちのお一人、昨年までは三木教会、今年から箕面教会で仕えておられる、私ともたいへん親しくさせていただいている家山華子先生の説教題が今日の私の説教題と全く同じだったことにはお互いに驚きました。「私たちは変えられる」ですよね。説教題盗作の疑いまでかけられたほどでした。とにかく、皆さんにも機会があれば同じ聖書箇所での若手の教師たちの説教10本、目を通していただきたいと思っています。

 もう一つ、前回の緊急事態宣言が明けた後の7月、関西学院大学神学部の学生1、2回生の何人かが、「教会と礼拝体験」という授業の一環として当教会の主日礼拝に参加してくださいました。覚えておられるでしょうか。
 授業ですので後でレポートの提出が求められるわけですが、MSセミナーでたまたまそのレポートを見る機会があり、少し目を通してみました。そのうちの一つに次のような感想、意見がありました。少しお聞きください。そのままの文章です。
 「若者が教会へ行きやすくなるためには、教会がへりくだって若者に歩み寄り、古典的な礼拝のあり方を見直す必要がある。具体的には、言葉に偏重しない礼拝のあり方を模索する必要がある。プロテスタント教会の礼拝は往々にして説教中心主義に陥りやすく、今回参加した礼拝の多くも説教が中心で、しかもその説教は非常に内容が濃く、何度もかみ砕かなければ理解することが難しいものだった。一方、現代の若者は多くの情報に囲まれ、また仕事や勉学などで頭を酷使している。そんな若者が休日である日曜日の朝に、高度な理解力を要する説教を好んで聞きに来るだろうか。もっと賛美の割合を増やしたり、説教の内容や言葉遣いを見直したり、あるいはカトリックや聖公会、正教会の礼拝のような、言語ばかりに依存しないリタージカルな礼拝のあり方を見出すべきだろう。」と記されていました。
 こちらのレポートも機会があれば皆さんに見ていただきたいと思います。「ああ、やっぱりこんなふうに思っているのか」という所もあって、たいへん興味深いものです。

 それで結局は難しい話になるのですが、「結局そうなんだ」とカメラの向こうで苦笑いしておられる方もおられるかと思いますが、今日後からお読みした新約聖書のコリントの信徒への手紙一で、使徒パウロはその初めに、1章18節ですが「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と語りました。この言葉も、初めて聞く者にとっては確かにたいへん分かりにくいものですが、パウロは続けます。「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めました」(Ⅰコリント2:2)と。そのように心に決めた使徒パウロが最も大切なこととして私たちに伝えたこと、それが今日お読みしたⅠコリント15章の始めに記されています。
 先月の教会員さんのご葬儀の時の聖書箇所でもあります。「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れ、…最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れたこと」(同15:3-8)だと。

 ところが、パウロはここで次のように問わざるを得なかったのでした。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(同15:12)と。
 キリストの教会といえども、死者の復活を単純な死体の生き返りであると、復活とその体について自然的、生物学的な視点から理解しようとする限り、復活を否定しようとするのも無理のないことではないかと思います。パウロが生きた紀元一世紀当時もそうであったし、現在もそうであるかもしれません。
 こうした状況の中でパウロは死者の復活を取り扱い、教会が何度も何度も聞かなければならない復活の教えをここで語ったのでした。

 彼は、体の復活を軽蔑するコリントの教会の人たちに対して彼独特の語り口で、読者にわざと反論させるというやり方で復活についての説明に乗り出します。「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれない」(Ⅰコリント15:35)と。「どんなふうに、どんな体で」ということで聞かれていることは、そこで問題にされていることは、「死者はどんな形で復活するのか」ということですが、その質問に対してパウロは短く、激しい非難の言葉を浴びせたのでした。「愚かな人だ」(同15:36a)と。
 「どんな形で復活するのか」と聞いてしまうところに、彼は先ほどお話しした、復活を単純な死体の生き返り、自然的、生物学的な視点で理解しようとする考えのあることを見抜いたので、そのように聞いて来る人に対して「愚かな人だ」と非難したわけです。

 そこで36節後半から、パウロは自然の類比をいくつも用いながら愚かではない自らの主張を固めていくわけですけれども、そこで中心となるのは38節の言葉です。「神は、御心のままに、…一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」。これは、「あなたが蒔くものはただの種粒-裸の種粒だが、神はその裸の種にそれぞれ体をお与えになる」ということで、彼が続けて語るのは、その体の多様性についてです。
 そしてこの体の多様性について語っている箇所が、パウロがその直後に語る復活の前奏曲、序曲となって42節からの復活の教えへと繋がり、44節の結論「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」に結びついていきます。神さまによって蒔かれた種は、死んでこそ命を得る種粒なのだということです。
 「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し…」(Ⅰコリント15:42)というのは、腐敗しやすく、汚れ、弱いものとして蒔かれた私たちの現在の体、この生命が失われると、神さまは御心のままにその裸の種に朽ちない、栄光ある、力強い体、次の生命である復活の体、霊の体を与えられるということです。「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」。そしてこれらすべてのことの基として、最後のアダム、すなわち主イエス・キリストが命を与える霊となったことが告げられます。

 この所で、たいへん重要な言葉なのですけれども、しかし私たちを混乱させる言葉がやはり「体」という言葉ではないでしょうか。体は私たちにとってたいへん身近にあるものですから、どうしても具体的な「物」を意識してしまうのではないでしょうか。
 私たちは死後の魂の平安ということをよく口にしたり祈ったりしますけれども、その時どのようなイメージで祈っているでしょうか。天上の魂がこの地上を微笑みながら見下ろしているというイメージでしょうか。そこに体という意識はあるでしょうか。
 皆さんは、もうお盆は過ぎましたが、お墓の前でどんなお祈りをしておられるのでしょうか。私は「神さま、召された者と共にある主の平安をこの地上にもお与えください」と祈ることが多いのですが、そこに体という意識はなかなか入ってきません。

 しかしパウロはあくまでも「体」にこだわるのです。パウロがここで言う体-霊の体は、私たちの現実の経験の外にあると思うのですが、それでもそれは体なのだとパウロは論じるのです。私たちは甦られたキリストの体を通してわずかにこの霊の体について知り得るのみですが、そしてそこにこそ私たちと復活のキリストとの結びつきもあるのですが、パウロがここで「キリストは命を与える霊となった」(Ⅰコリント15:45)と語っているのは、私たちが、死んで復活されたキリストの霊によって生かされる体を与えられたということではないでしょうか。キリストによって、すべての人が生かされる霊の体が与えられたということです。
 先週お読みした新約聖書のローマの信徒への手紙の8章23節をもう一度見て見ましょう。「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。
 この言葉も、死んで復活されたキリストの霊によって生かされる霊の体が私たちに与えられることを切望している言葉として、私たちは受け止めることができます。

 そして50節、パウロはやはり彼独特の議論の進め方で、コリントの教会の復活を否定する人たちの考えそのものを踏襲しておいて-それが「自然の命の体」を表す「肉と血」という言葉ですが、しかし「わたしはあなたがたに神秘を告げます」(Ⅰコリント15:51)と一挙に自分の庭へと論争相手を引き込むのです。
 「最後のラッパ」(同15:52)は「主の日」のしるしです。神さまの力が明らかにされるその最後の日に、死んでいる者も生きている者もたちまち、一瞬のうちに、今とは異なる状態、すなわち復活の霊の体へと変えられるというのです。死んでいる者も、私たち生きている者もすべてが、最後のラッパの鳴る時、一瞬のうちに復活の霊の体へと変えられる。
 これが「死者はどんなふうに、どんな体で復活するのか。どんな形で復活するのか」との問いへの最後の答えです。それはまさに神秘、奥義と言えるものです。しかしそれは私たちの創造主であられる神さまの意志である恵み、恩寵としての必然、必ず起こるものであるとパウロは告げるのです。
 私たちは変えられる。必ず、です。ここに、私たちの、死してなお生きる、自然の命の体に死んで、なお復活の霊の体に生きる希望があります。

 今日最初にお読みした旧約聖書のソロモン王、賢明なる王ソロモンのお話は、長寿も富も敵の命も求めず、ただ訴えを正しく聞き分ける知恵を求めたソロモンに対して、主なる神さまは知恵に加えて、ソロモンが求めることをしなかった、あるいは彼の考えもつかなかった富と栄光をも彼に与えたというお話ですが、お話としてはここに神さまの神秘、奥義を見ることのできるものです。
 そしてこの後に皆さんと一緒に歌う讃美歌「球根の中には 花が秘められ」も、神さまは私たち種の中に秘められている生命、私たちの気づいていない、考えもつかない神さまの霊の宝を、私の時ではなく、神さまの時に応じて必ず生かしてくださるという希望を歌った約束の歌ではないでしょうか。
 祈りましょう。

 神さま、私たちは私たちの本国である天から主イエス・キリストが救い主として来られるのを待ち望んでいます。なぜなら、キリストは万物を支配下に置くことのできる力によって、私たちの卑しい体をご自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるからです。
 そのようにして、私たちの古いいのちの終わりは新しい霊の体を持ったいのちの始めとなることを、感謝と悔い改めと喜びとをもって私たちに受け入れさせてください。
 命の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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