9月12日(日)聖霊降臨節第17主日礼拝説教「憐れみー赦し」
更新日: 2021.09.14
2021年聖霊降臨節第17主日(2021.9.12)礼拝説教 牧師 野田和人
創世記45章1~15節、ヤコブの手紙2章5~13節
牧会祈祷
慈しみ深く、憐れみに富みたもう私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2021年の聖霊降臨節第17主日、あなたによって導かれた敬愛するランバス父子によって創設されたこの神戸栄光教会が創立から満135年を迎えたこの主日、本来ならば私たちの数多くの信仰の先達の方々と共にこの主日を迎えるはずでしたが、今は、お一人おひとりが忍耐と希望をもって、それぞれに与えられた場で心と思いを一つにして、「隣人」の礼拝へと結び合わされています恵みを心より感謝いたします。
けれども私たちの日常生活においては、新型コロナウイルスの感染の影響のみならず、様々な原因によって私たちの間の分断が進行しつつあります。私たちにとっては、お互いを分からないことが互いを恐れ、互いに憎しみ合うことの源にあります。
あなたと私たちの間を分かち、私たち同士の間を分け隔てし、私たちの存在そのものを脅かそうとする力に対して、主が、にもかかわらずこのような私たちを受け入れてくださったがゆえに、私たちが根気よく、忍耐しつつ、互いに出会い、互いを知り、互いを受け入れ合うことを求め続けていくことができますように。そして私たちが、近い、また遠い隣人と共に生きる道を辿っていくことができますよう、私たちを諭し、励まし、導いてください。
私たち神戸栄光教会の教会学校を覚えます。あなたの愛する子どもたちの活力と共に、教会学校を一日も早く再開できますよう導いてください。
今、様々な困難の中におられるお一人おひとりを、私たちが祈りと慰め、共感と励ましのうちに覚え、お一人おひとりが日々の健康へと立ち帰る道をあなたが備えてくださることを確信して、恐れることなく希望をもって、私たちの愛する皆さんと共に生きていくことができますよう、私たちを支え、導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
説 教 「憐れみー赦し」
今日の礼拝テーマは「隣人」ですが、イエスさまが私たちに、聖書では律法の専門家たちに対してでしたが、イエスさまが私たちに教えてくださった大切な二つの教え、二つの掟のうちの一つに隣人の教えがありました。新約聖書で「最も重要な掟」(マルコ12:28-31,マタイ22:34-40,ルカ10:25-27)とまとめられている所で、三つの共観福音書に記されています。
マルコによる福音書とマタイによる福音書では、律法学者の「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか、最も重要でしょうか」との問いにイエスさまが答える形となっています。
「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け。わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(マルコ12:29-31)
第一の掟は現在でもユダヤ教徒の間で朝と夕の一日二回唱えられている「シェマ」という信仰告白の最初の部分、旧約聖書の申命記6章4節「シェマ、イスラエル」、「聞け、イスラエルよ」からの引用(申命記6:4-5)です。そして第二の掟、隣人の教えはやはり旧約聖書のレビ記19章18節からの引用となっています。「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」。
ただ、旧約聖書でこれら二つの掟/戒め、神さまへの愛と隣人への愛とを結びつけている箇所はありません。この二つを第一と第二の教えとして一つに結びつけられたのがイエスさまでした。
福音書のこの教えは、使徒パウロによって記された新約聖書のガラテヤの信徒への手紙5章14節に至って、「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされる」という言葉によって、私たちキリスト者の生活の根本を指し示すものとなりました。
ところが、この律法を全うするという隣人愛を実行しながら、それと同時に人を分け隔てする、えこひいきするということが行われているというのが、今日後からお読みした新約聖書のヤコブの手紙の著者が指摘していることでした。それが「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです」(ヤコブ2:8)という、いかにも皮肉っぽい言い方に表れています。
えこひいきと隣人愛は両立するのでしょうか。今日お読みした箇所の前の段落(同2:1-4)から見てみますと、「立派な身なりの人には特別に目を留めて、貧しい人を辱めるえこひいきが隣人愛と言えるのか。それは言えないだろう。あなたがたは自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下している。富んでいる人に特別に目を留めることが隣人愛ででもあるかのように隣人愛の意味を取り違えて、それが神さまの意思に反していることに全く気づいていない。主イエス・キリストを信じると告白しながら、信じるようになる以前の自分と少しも変わっていないではないか」-手紙の筆者はこのように指摘するのです。
「誤った考えに基づいて」と記されていますが、それは、隣人とは一体誰なのかという隣人理解と関係してくると言えるでしょう。隣人は損得勘定で決まるもの、あるいは決められるものでしょうか。
一体隣人とは、私の隣人とは誰でしょうか。これと同じ質問をした人が福音書に登場してきますね。先週の説教題「一人、一つ、一つ、」が聖書のどこからだったかよりも簡単ですね。どこに登場してくるのでしょうか。
そうです。ルカによる福音書の10章、「善いサマリア人」の譬の発端となった、ある律法の専門家でしたね。「わたしの隣人とはだれですか」(ルカ10:29)。皆さんももう何度も目を通されたお話だと思います。
イエスさまに促されるままに律法のうち最も大切な二つの掟をそらんじた律法の専門家が、イエスさまに「それではそれを実行しなさい」(ルカ10:28)と勧められた時、自分を正当化しようとして言ったのが「では、わたしの隣人とはだれですか」という問いでした。
「正当化しようとして」というのは、「私は我が同胞であるユダヤ人を愛することにかけては他の誰にも引けを取らない。人に対しても、神に対しても全く正しい関係にある。何の落ち度もない」ことを示そうとして、ということです。
レビ記に記されている「隣人」は、確かにヤハウェ/主なる神さまの契約の民、すなわちイスラエルの民、ユダヤ人のみに限定されていました。ただ、今日のヤコブの手紙の箇所が主張しているのは、そのような意識がキリストの教会の中にも持ち込まれているのではないかということなのです。
イエスさまの考えはそれとは違っていました。イエスさまは律法の専門家の問いに答える形で一つの譬を話されました。ある一人のユダヤ人が旅の途中強盗に襲われ、半死半生になって道端に倒れているところを、当時のユダヤ社会の宗教的指導者である祭司と、しばらくして祭司に続いて下級祭司のレビ人が通りかかったのですけれども、自らの身の危険を恐れてか、あるいは死にかかっている者、死者に触れてはならないとの律法に従ってか、二人ともその人が倒れている道の反対側、向こう側を通って行きました。
ところが、当時ユダヤ人から蔑まれ、憎しみの対象となっていたサマリア人がそこを通りかかると、半死半生のまま打ち捨てられているユダヤ人を見て憐れに思い、心を動かされ、介抱を尽くした、というお話です。
イエスさまは言葉を改めて律法の専門家に聞きます。「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(ルカ10:36)。イエスさまは「わたしの隣人とはだれですか」と問う律法の専門家に対して「半死半生で道端に捨てられているあなたの同胞が、あなたが探し求めている隣人である」とは告げられませんでした。「だれがこの人の隣人になったと思うか」と問われたのです。
イエスさまがこの譬を持ち出されたのは、そもそも私たちが「私の隣人とは誰ですか」と問う必要がないことを私たちに示されるためではなかったでしょうか。あるいは、私たちは自分から私の隣人が誰であるかを決めることはできない、ということを示されるためではなかったでしょうか。
困窮の極みにあって、今助けを必要としている人が目の前にいる、その場に居合わせた私はもうその人の隣人なのだということです。そのことを私自身の中にしっかりと受け取るためにあらゆる感覚を研ぎ澄ませること、それが、レビ記と言葉は同じですが、イエスさまの勧められる「隣人を自分のように愛しなさい」、「隣人をあなた自身として愛しなさい」ということではないでしょうか。
こうしてサマリア人は自分を蔑み、憎んでもいる敵であるユダヤ人の隣人となりました。困窮の中にある者と同じ所に立って、出自、身分にもこだわらず、ユダヤ人を、自らも神さまから憐れみを受けた自分自身として愛したのでした。
ただこれはあくまでも譬です。問題は、私たちはこのような形でイエスさまの促しに応えて、本当に助けを必要としている人の隣人となることができるのかどうかということです。どうでしょうか。
イエスさまご自身は実際に飢え、渇き、寝る所もなく、病に倒れ、獄中にある、そのような最も小さい者たち、当時は罪人として厳しい差別を受けていた人々と同じ所に立って振舞われました。彼らの隣人となられました。私たちに可能でしょうか。私たちは他者の痛みを本当に自分の痛みとして担うことができるのでしょうか。
これは、私という肉の体としての人間の立場に立って考える限り不可能ではないかと思います。そしてそこに私の、私たちの罪もあるのだと思います。自分を正当化しようとして、どうしても自分と他人との間に同じように神さまを受け入れることのできない罪があります。
ただ私たちにとっての救いは、イエスさまご自身が自ら罪人の一人となられて、すなわち私たちの隣人となってこの罪を負われて十字架に架かってくださったところにあります。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34)との十字架上での死に極まった叫びを通して、私たちの死すべき命が贖われた、罪が赦され、復活のキリストと共に新たな命に生かされ、私たち一人ひとりは神さまの子として受け入れられたのでした。
ここに神さまの、私たちを憐れもうとされる意志があります。
今日お読みしたヤコブの手紙の背景にある伝承が、異なる経路と発展を経て受け継がれたのではないかと考えられている箇所が、イエスさまの山上の説教の最初、八福の教えの中の五番目にあります。マタイによる福音書の5章7節「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」でしたね。この言葉を少し言い替えると「その隣人に憐れみを示す人々は幸いである。神が彼らに憐れみを示したもうたからである」となります。
この聖句「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」が先月の8月の暗唱聖句だった愛児園での子どもの礼拝では、こんなお話をしました。
「憐れみ深い」って難しいけれど、やさしい、親切だったら分かるかな。けどこれは自分のことではなくて、みんな一人ひとりが自分の回りの人にそうすることで分かるものだよね。それはたとえば、今苦しんでいる人や悲しんでいる人と一緒になって、その人を包み込んであげるってこと。ただこの言葉をイエスさまが仰ったということは、そこにはもうちょっと深い意味があるんじゃないかと思うんだ。憐れみ深い人っていうのは、まずイエスさまだった。イエスさまは十字架に架かって死んだんだけれど、それは、私たち、みんな一人ひとりを造ってくださった神さまの言うことを全然聞かない、そんな私たち一人ひとりを赦してくださるためだったんだ。だから憐れみ深いっていうのは、自分の大っ嫌いな人とも一緒になってその人を包み込んであげる、赦すってことになるんだ。こんな風にして、私たちみんなはイエスさまの憐れみの中に包まれていることを忘れないようにっていうのが、みんなが覚えてくれた今月の聖書の言葉なんだよ。
こんな風にお話ししました。
このようにして、憐れみと赦しは結びつきます。神さまの憐みは私たちの憐れみに先行しています。憐れみ深い人とは、神さまが遣わしてくださったイエス・キリストにおいて、神さまの無限の赦しを経験した人のことです。だからこそ、その人は本来自分の内にはない、神さまの憐みが働く場である赦しの場を用意することができるのです。
今日最初にお読みした旧約聖書、創世記のヨセフ物語のクライマックスの場面は、この神さまの、私たちを憐れもうとされる意志を明らかに、また高らかに示している箇所として読むことができる所です。
創世記の37章から50章まで、14章に亘る血沸き肉躍るヨセフ物語ですが、その頂点は今日お読みしたヨセフの「打ち明け話」にあります。そしてその中心は、この短い箇所で三度繰り返される「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」(創45:5f)との、おそらくヨセフ自身も気づいていなかった神さまからの招き、神さまの、先行する、私たちを憐れもうとされる意志にあります。
その意志の前では、ユダらヨセフの兄たちの罪、父ヤコブの悲しみ、そしてヨセフの報復、すべては消滅し、家族全体が新しい時の中で新しく隣人となることへと招き入れられています。
私たち新約の時代、憐れみ深い方は自らの尊厳も名誉も、恥に陥っている人々に贈り、その恥をその身に負われました。そのようにして主はその弟子たちを恥となさることはありませんでした。それが主の憐れみであり、その憐れみのみによって、私たちも赦しの場を携えて、互いに互いの隣人として生きることができるのではないでしょうか。
祈りましょう。
神さま、あなたは「わたしの思いはあなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なる」(イザヤ55:8)と言われます。私たちの道より高いあなたの道、わたしたちの思いより高いあなたの思いを私たちに示してください。主が私たちの隣人となってくださったように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。