2023年7月9日(日)聖霊降臨節第7主日礼拝説教「神のものは神に」
更新日: 2023.07.19
2023年聖霊降臨節第7主日 礼拝説教「神のものは神に」 牧師 佐藤成美
エレミヤ書38章7節-10節 ルカによる福音書7章12節-15節 使徒言行録20章9節-12節
「聖霊の働きとはどういうことですか」、という質問をよく受けます。
三位一体における神様の働きで言うならば、父なる神の「創造」の業と、子なるキリストの「救い」の業を、わたしたちに伝え、信じさせる、いわば「メッセンジャー」の働きをするのが聖霊だ、と言えるでしょう。
ただ、わたしたち人間の側が、あたかも聖霊の働きをすべて理解できるかのように振る舞ってしまうことには、注意しなければなりません。なぜならば、神様の働きは、わたしたち人間の理解を超えたものだからです。
なぜわたしたちが、聖霊の働きを恣意的に扱いたがるのか、それは、目には見えない神様の働きを、出来るだけ自分たちの手の内に置いて、安心したいからです。
今日のルカ福音書のお話で、イエスはあるやもめの一人息子を死からよみがえらせます。では、死んでいた人間が「蘇生」ではなく、「新しい命と体」によみがえるとは一体どういうことなのでしょうか。永遠の命によみがえったこの息子は、もはや死ぬことはなかったのでしょうか。
しかし、このお話を、そんなわたしたち人間の理屈で納得することは無理なのです。わたしたちには理解できないことだけれども、それでも神様は主イエス・キリストを通して、わたしたち人間に死を超えた新しい命と体を与えてくださる、それを信じて受け取る以外にはないのです。
でも、「訳は分からないけれども、ただ信じなさい」となると、途端に神様が遠いところに行ってしまうような気持ちに、わたしたちはなってしまうものなのです。
だからこそ聖書は、イエス・キリストというお方の人格を語るのです。イエスは、一人息子を失って悲しんでいるやもめを見て、これを憐れに思ったのです。「憐れに思った」とは、ギリシア語で「内臓を食べられる」という言葉から来ています。
イエスは、泣いている母親を見て、自分の内臓が食いちぎられるほどの痛みを感じて、死んだ息子に新しい復活の命と体を与えられたのです。
わたしたちには、神様の為さるすべての業が理解できるわけではありません。だけれども同時にその神様は、イエス・キリストにおいて、わたしたち一人ひとりの人間を、自らが痛みを感じるほどの憐れみを持って、いつも見つめていてくださるのです。
わたしたちのほうが神様のすべてを理解しようとするのではなくて、イエス・キリストの憐れみにより頼んで、神様と共に歩む者でありたいのです。