牧師メッセージ

「言の内に命があった」

更新日: 2015.01.29

2014年クリスマス・イヴ賛美礼拝

詩編98編1, 9節 ヨハネによる福音書1章1-14節

牧 師  野田和人

クリスマスクイズの中に次のようなものがあります。「アドヴェント」とはどういう意味ですか。4択で、a.待つ b.準備する c.弁当を加える d.来る。c.の「弁当を加える」は論外ですが、正解はd.の「来る」です。何かが起こる、何か思いがけないことが自分の前に立ち現われてくる、やって来るということです。この「到来」を待ち望む期間として、4週間弱のアドヴェントの時が私たちに与えられています。今日12月24日はその最終日です。

では、私たちは何のために到来を待ち望むのでしょうか。それは私たちの救いのためです。では、どこから救われるというのでしょうか。それはもしかすると私たちがそこにいることに気づいてさえいない、私たちの命を蝕む闇からです。

イエスと名付けられた幼子は、私たちの思いもよらない形で、私たちの中の一人となるべくご自身を肉におけるものとされ、僕の身分をもって私たちの間に来られました。ヨハネによる福音書は、この到来の経緯を「言は肉となって、私たちの間に宿られた」という一句で表しています。その「言の内に命があり、その命は私たち人間を照らす光であった。しかし暗闇は光を理解しなかった」-「言・命・光」は疑いようもなくイエス・キリストのことであり、暗闇とはその言・命・光を受け入れることのなかった、この世界の民、私たちを表しています。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与え」ました。言は、言を受け入れた者には言の内にある命を与えました。ここに救いがあります。

使徒パウロはこの間の事情について、Ⅰテサロニケ5:4以下で次のように述べています。「兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではない。あなたがたはすべて光の子、昼の子なのだ。私たちは夜にも暗闇にも属していない。私たちは昼に属しているのだから、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望を兜としてかぶり、身を慎んでいよう。神は、私たちを怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いに与らせるように定められた。主は私たちのために死なれたが、それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためなのだ」この最後のフレーズに救いの本質が言い表されています。

「主は私たちのために死なれましたが、それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです」-つまり救いとは、命であり光である言を受け入れなかった私たちが、そのような私たちのために死んでくださった方と最後には共に生きるようになること、命の光に入れられることです。ここに私たちがその到来を待ち望むクリスマスの意味があります。言の内にあった命は、それを自分自身のものとして守り通すのではなく、それを与えるもの、与え尽くすものでした。クリスマスを迎えるこの時は、私たちがこのキリストを通して与えられた私たちの命を、今度は主と共に与え尽くして生きるように呼び出されているということをもう一度真剣に考える時ではないでしょうか。

キリスト教主義の学校で育ったある作家が、その学校の生徒だった頃クリスマスのページェントでみんながイエスの誕生を祝っている時、でもこの人もうすぐ死んじゃうのにと思ったそうです。もうすぐ死ぬために生まれてきた人をこんなに祝福していることが不思議だったと。彼女の直観は当たっていました。誕生と十字架は密接に繋がっています。そこに救いがあるからです。そこに与え尽くして生きる命があるからです。

「神は、私たちを怒りに定められたのではなく、私たちの主イエス・キリストによる救いに与らせるように定められた。主は私たちのために死なれましたが、それは、私たちが目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」

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