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7月11日(日)聖霊降臨節8主日礼拝説教

更新日: 2021.07.17

2021年聖霊降臨節第8主日(2021.7.11/部落解放祈りの日)礼拝説教 牧師 野田和人
エレミヤ書7章1~11節、使徒言行録19章1~20節

牧会祈祷
 命の源である主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2021年の聖霊降臨節第8主日、「生活の刷新」との礼拝テーマの下、「部落解放祈りの日」としても今日の礼拝を覚え、それぞれの生活を与えられている場で、また感染症に留意しながらその場から召し出されてこの礼拝堂に集い、共に御前に礼拝をささげることのできる大きな恵みを心より感謝いたします。
 私たちがそれぞれ祈りに覚えている愛する友と、この恵みを分かち合うことができますように。直接お会いすることはなかなか叶いませんが、今病院で、ご自宅で、また様々な施設であなたによってその命を守られているお一人おひとりの祈りをあなたが聞き届けてくださって、そのお一人おひとりを力づけてください。

 今日の「部落解放祈りの日」を覚えて祈ります。
 「主よ、あなたを悲しませた人たちのように、私たちも誰かを悲しませているかもしれません。主よ、あなたをふみにじった人たちのように、私たちも知らない間に誰かをふみにじっているかもしれません。主よ、自分たちだけが正しいと思っている人たちのように、私たちも自分たちが正しいと思い込んでいるかもしれません。主よ、気づかせてください。悲しむ人の声を私の悲しみとすることができますように。」(小郡教会2020年のリタニー)
「神さま、あなたは一人ひとりに大切な使命をお与えくださいました。私たちはそれに気づかず、不足のみを嘆きます。神さま、あなたは一人ひとりに違いを備えられました。私たちは自分以外の良さと価値を見落とし、認めようとしません。神さま、あなたは差別や孤独の中にある人々に寄り添ってくださいます。私たちはイエスさまによって癒しとやさしさを示されました。神さま、私の心と体を、それらを必要とする人々のために用いる勇気をお与えください。」 (埼玉和光教会2019年のリタニー)

 私たちのいのちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

説  教           「私は何者?!」
 イエスさまの死後、イエスさまの十字架での死から埋葬、復活、そして昇天の後、約束された聖霊が一同の上に降り、ペトロを中心とする弟子たちは大胆に主イエス・キリストを証しし始めました。
 今日後からお読みした新約聖書の使徒言行録にはその一部始終が記されていますが、彼ら弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになるのは、後にパウロと呼ばれるようになったサウロの回心-これは使徒言行録の9章に記されていますが-このサウロの回心を経て、そのサウロをタルソスという町で見つけ出してアンティオキアに連れ帰ったバルナバとサウロの二人が丸一年、アンティオキアの教会で多くの人に主イエス・キリストについて教えていた頃からでした。使徒言行録11章26節には次のように記されています。「…このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになったのである」。

 神戸栄光教会はキリスト教プロテスタントのメソジストという教派の流れを汲んでいますが、キリスト者という呼び名も、メソジストという呼び名と同じように、最初はその道に従う者を揶揄する、その道に従う者を皮肉って呼ぶ呼び方でした。「ああ、クリスチャン-キリスト者か。ああ、メソジストか」といった具合にです。
 しかし彼らは、また私たちの先達たちもその呼び名を大胆に受け入れていきました。そのようにして異邦人世界へ向けてキリスト教を伝えていくのに最も大きな役割を果たしたのが、使徒パウロでした。

 皆さんはパウロ先生が自身の宣教旅行を三回行ったことをご存知ですよね。今日最初にお話ししたアンティオキアからバルナバと二人で旅立ったのが、その第一回目の宣教旅行でした。使徒言行録13章に記されています。
 皆さんが持っておられる聖書の一番後ろに付録として付いている「パウロの宣教旅行1,2,3」の地図をご覧いただければお分かりになりますが、彼はその第二回目の宣教旅行の際には、フィリピやテサロニケのあるマケドニア地方、またアテネやコリントのあるアカイア地方-現在のギリシア南部ですが、それらの地方へと赴き、その間、一年半程留まったコリントの町でコリントの諸教会を設立した後、帰途へと着きます。
 その帰途の途中、現在のトルコ西部、アジア州のエフェソに立ち寄ると「ここでもうしばらく滞在してほしい」と人々から頼まれるのですが、その願いを断り、「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って人々に別れを告げ、カイサリアからエルサレム、それから現在のトルコ南部、シリアに近いアンティオキアへと下って行きました。
 イエスさまが亡くなられてから約20年後、紀元52年頃のことです。

 パウロはアンティオキアでしばらく過ごした後、トルコ中部のガラテヤ地方やフリギア地方にいる弟子たちを力づけるため、第三回目の宣教旅行へと旅立ちます。旅が進み、パウロがかつて「神の御心ならば、また戻って来ます」と言って去ったアジア州最大の町エフェソへと今度は陸路を通って下ってきたところで、今日の聖書箇所と繋がります。

 彼はこのエフェソに2,3年滞在し、ここで「コリントの信徒への手紙」や「ガラテヤの信徒への手紙」、「フィリピの信徒への手紙」を認(したた)めたわけですが、このパウロに先立ってエフェソに現れたのが、今日の聖書箇所の最初に登場するアポロでした。
 アテネと並ぶ学問都市アレクサドリア出身、雄弁で学識があり聖書に詳しい-旧約聖書をキリスト者の視点から読み解くのに長けている、熱心さと正確さとを併せ持った、すなわち主の弟子たる特質のすべてを兼ね備えていたアポロ。皆さんはアポロと聞いて何か思い出すことがありますよね。そうです。あの「水を注いだ」アポロです。
 彼はこの後望んでいたギリシアのコリントへと赴くわけですが、そのコリントでのアポロの目覚ましい働きについて、パウロはコリントの信徒への手紙一3章で次のように記したのでした。「ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(Ⅰコリント3:4-6)。

 ただエフェソで宣教していた時のアポロ、主の弟子たる特質をすべて兼ね備え、イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたアポロは、実はヨハネの洗礼(バプテスマ)しか知りませんでした。そこで、コリントでパウロと出会い、自分たちの家を開放して彼と一緒に住み、パウロの薫陶を受けてコリントからエフェソまでパウロに同行したアキラとプリスキラ夫妻は、アポロにもっと深い「神の道」を手ほどきし、その後彼はコリントへと渡ったのでした。
 使徒言行録の著者であるルカが、このアポロ伝承をわざわざパウロの第3回宣教旅行の始まりの所に「アポロがコリントにいたときのことである」(使徒19:1)と挿入したのは、この伝承を通して、アキラとプリスキラ夫妻がアポロに手ほどきした「神の道」、すなわちキリスト教の特質について、特にその洗礼の特質についてパウロを通して伝えておきたかったからでした。この後異教世界ローマへと向かう神の国の使信の特質をここで確認しておきたかったからでした。
 それは、イエスの名による洗礼(バプテスマ)、すなわち聖霊降臨へと導く聖霊による洗礼(バプテスマ)でした。それがこの後に続くアポロの弟子たちへの、パウロを介したイエスの名による洗礼の授与、聖霊降臨となって現れたのでした。

 パウロは、アポロに導かれて主の道に入った者たちと出会った時、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」との彼の問いに「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と答えた彼らの反応に衝撃を受けました。そこで、アポロが彼らに授けたヨハネの洗礼(バプテスマ)が悔い改めの洗礼であることを説明すると、彼らはイエスの名によって洗礼(バプテスマ)を受け、パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降ったのでした。

 ここで語られているのは、洗礼には順番があって、水による洗礼に聖霊による洗礼が段階的に続くということではありません。アポロに導かれた人たちが聖霊を受ける-主をその人の内に宿らせるためには、イエスの名による洗礼(バプテスマ)、聖霊による洗礼(バプテスマ)が必要だったということなのです。
 悔い改めの洗礼とイエスの名による洗礼との二つが報告されていますが、前者はあくまでも来るべきイエスを信じるための道備えであり、後者は、すでに来られ、私の罪の赦しのために支払われた代価である十字架と、そこからの甦り、昇天を通して、神さまがそのイエスさまを通して遣わしてくださった賜物としての聖霊による洗礼であということです。
 聖霊による洗礼は、その聖霊によって支えられている私の悔い改めと赦しが、主イエス・キリストの代価によって与えられた本当に奇跡的な賜物であるということを私たちに知らせてくれます。それは、私が選ぶことのできるものではなくて、私が捕らえられるいうこと、私が聖霊に捕らえられて罪と闇の支配から解き放たれて生きるということです。頑なに不義の道を進もうとする私をその道から引きずり出し、わが不義を覆い、わが罪を贖ってくださったキリストへの回心に向かって私が生きるということです。

 ところが、自分たちが罪と闇の支配の下にいることにさえ気づかないユダヤ人の祈祷師たちにはこのことが分からないのです。彼らが自分たちの主なる神さまの前で本当に生きるためには、聖霊に捕らえられ、キリストへの回心へと心を回すことが必要だということが彼らには分からないし、分かろうともしないのです。
 そのことなしで主イエスの名を唱えさえすればすべてうまく行くと思ったのです。そこで彼らは「パウロが宣べ伝えているイエス」を自分たちの魔術/呪術と同列の類だと考え、それでうまく行っているのならこちらもちょっと使わせてもらおうと軽く考えて、試みにイエスの名を唱えて病を癒そうとしたのでした。

 ユダヤ教は元来呪術を厳しく禁じていました。今日最初にお読みした旧約聖書・エレミヤ書でエレミヤに臨んだ主の言葉、「主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」(エレミヤ7:4)との言葉はそのことを表しています。
 にもかかわらず、ここには「ユダヤ人の祈祷師/呪術師」という、結びつくはずのない言葉が登場するほど、神の民としての彼らの生活は混乱していました。

 しかしここに登場してくる悪霊は、事はそう簡単には運ばないことをよく知っていました。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく分かっている。彼らは確かに自分たちを追放する力を持っている。それは聖霊とかいうものを通して与えられている力のようだが、そのことを全く気にもかけずに、ただイエスやパウロの名だけを持ち出して我々に命じようとするお前たちは一体何者だ」と、ユダヤ人の祈祷師たちを問い詰めます。
 私たちはここで、神さまからの賜物をお金で手に入れられると考えた魔術師シモンを思い起こします。使徒言行録8章18-19節です。「シモンは、使徒たちが手を置くことで、“霊”が与えられるのを見、金を持って来て、言った。『わたしが手を置けば、だれでも聖霊が受けられるように、わたしにもその力を授けてください』」。

 19章11節に「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」とあります。
 ここに働いている力は、自分の意のままに用いることのできる、あるいは売買可能な魔術の種ではなく、主イエスとの関わりの中で、十字架の死とそこからの復活、昇天を遂げられたキリストとの関わりの中で働く、そのキリストへの回心に由来する力です。
 「キミが真剣であるのならば何を信じていようと問題ではない」、「何を信じていてもキミが真剣であるのならばそれでいい」のではないのです。そうではなく、「キミが真剣であるのならば、真剣であればあるほどこのキリストを信じよ。代価を通して聖霊によって私たちに悔い改めと赦しを与え、私たちと神さまとの間に、また私たち同士の間に和解の道を開いてくださったこのキリストを信じよ」と、パウロもルカも、悪霊をさえ介してエフェソの人たちに向けて語ったのでした。「このキリストを信じよ」と。

 そしてもちろん私たちも問われています。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」と。私たちはどのように答えるのでしょうか。「私はキリストからの者です。私たちはキリストの者です」と答えることができるでしょうか。
 この問いに「私はキリストからの者です。私たちはキリストの者です」と答えることができれば、その答えは現代世界の混沌とした情勢の中で、私たちが今暮らしているこの日本の社会の状況の中で輝きを放ちます。「私はキリストからの者です。私たちはキリストの者です。最も小さい者の一人と共におられるキリストの者です。私たちは聖霊の助けによってそこから離れることは決してありません」。

 私は一昨日、教会員の方のお知り合いの映画監督の貞末麻哉子さんが撮られたドキュメンタリー映画「普通に死ぬ-いのちの自立-」を元町映画館で鑑賞しました。重い障がいがあるわが子とそのご家族が生まれ育った地域での生活を継続することと、その生活を支える医師、看護師、ヘルパーをはじめ、支援者の方々の10年に及ぶ、差別との、そして共に生きることとの激闘を描いた作品です。
 そこで語られる「自立」とは、他人の助力-助けなしで独り立ちすることではなく、互いの「いのち」を骨身から尊重し合って、「いのち」として互いに立たせる、「いのち」として互いに立ち合うことでした。
 互いの「いのち」を骨身から尊重し合って、「いのち」として互いに立たせる、「いのち」として互いに立ち合うこと、それは私たちがキリストの者であることの一つの表れではないかと思いました。

 魔術師たちが彼らの高価な書物をすべて焼き捨てたのも、自分たちが何者であるのかをはっきりと示すためでした。私たちも含め、現代の魔術師たちがその書物のすべてを焼き捨てることはもちろん簡単なことではないでしょう。闇は深いです。
 しかしその闇の中で、「私はキリストからの者です。私たちはキリストの者です。最も小さい者の一人と共におられるキリストの者です。私たちは聖霊の助けによってそこから離れることは決してありません」との答えは輝きを放ち、闇を少しずつ溶かしていくことを私は信じています。
 祈りましょう。

 神さま、聖霊の導きによって私たちの道と行いを正し、私たちの間にあなたの公正をもたらすことができますように。そのために労するキリスト者一人ひとりの歩みを支えてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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