9月5日(日)聖霊降臨節第16主日礼拝説教「一人、一つ、一つ、」
更新日: 2021.09.11
2021年聖霊降臨節第16主日(2021.9.5)礼拝説教 牧師 野田和人
エゼキエル書37章15~28節、コリントの信徒への手紙一1章10~17節
牧会祈祷
私たちの命の源であられる神さま、主の年2021年も私たちの暮らす北半球では季節は秋へと向かい、被造物はそれぞれに与えられた命を大切に育んでいますが、私たち人間はあなたによって与えられた命を蔑ろにするような愚かな行いを続けています。
どうか憐れんでください。その憐れみの中で、画面を通して、あるいはこの場、この時をイメージしながら、全世界に建てられたキリストのただ一つなる体である教会に連なる方々と共に、聖霊降臨節第16主日の礼拝に与ることのできる恵みを心より感謝いたします。
この場の真ん中にあなたがいてくださり、私たちのささげる礼拝が傲慢なものとなることのないように、最も小さい者の一人に為してくださった主イエス・キリストの働きに連なる、配慮に満ちたものとなりますよう、導いてください。
主の年2021年の夏も、世界では災害や紛争が続き、私たちが暮らすこの日本でも、オリンピックの開催を忘れさせてしまうような新型コロナウイルス感染症、度重なる豪雨などによっておびただしい数の人たちが未曽有の困難の中にあります。憤り、悲しみ、そして痛みが災害の渦中にある人々を襲い、困難の中にある人たち、その人たちを助けようと奮闘している人たち、そしてそれらを見守る私たちの心を締め付けます。
神さま、どうか私たちと共にいて、私たちに今必要な慰めと助けを与えてください。私たちはあなたによって慰められ、助けられることで再び共に生きる希望を持つことができるのですから。その希望の下で、私たちは私たち一人ひとりに与えられた役割を果たすことができます。今助けと安らぎを必要としているお一人おひとりを覚え、祈ることができます。
愛するこの神戸栄光教会に連なるお一人おひとりが、いつ、どこにあっても、主イエス・キリストを通して私たちに示された他者のために生きる志を表していくことができますよう、私たちのすべての手の業を、その働きをお導きください。
私たちの慰め主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
説 教 「一人、一つ、一つ、」
「一人、一つ、一つ、」、今日の説教題から皆さんは何を連想されるでしょうか。この説教題を目にしたある人は「『一人、一つ、一つ、』ということは、一人に一つずつ何かくださるということですか」と仰ったのですが、もちろんそういうことではありません。
「一人、一つ、一つ、」-「ああ、聖書のあそこかな」とピンとくる方もおられるかと思います。そうです。新約聖書のエフェソの信徒への手紙4章、「キリストの体は一つ」とまとめられている段落の5節「主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ、」の所ですね。
一人に一つずつ何かくださるのではなく、「主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ、」の「一人、一つ、一つ、」です。あとでまたお話しすることになりますので、覚えておいてください。
今日は聖霊降臨節第16主日ですが、今日までの聖霊降臨節16週、すなわち4ヵ月間の主日聖書日課の内、新約聖書から選ばれた主日の御言葉は、Ⅰコリント、Ⅱコリント、ロマ書からはそれぞれ2箇所ずつなのですが、使徒言行録からは6箇所となっています。ということは、皆さんは今回この使徒言行録を通して、使徒パウロの回心と回心後の三回に亘るアジアからヨーロッパにかけての宣教旅行についてあらためて聞いて来られたということになるわけですが、先週に続いて本日与えられましたコリントの信徒への手紙一は、彼の三回目の宣教旅行の途上、往路-行きになりますが、そこで約2年間滞在したアジア州のエフェソの町で記された手紙となっています。
記された時期は紀元54年頃、紀元50年に執筆された新約聖書では最も古い使信-テサロニケの信徒への手紙一に続いて古い使信です。
パウロは二度目の宣教旅行の際、ヨーロッパであるギリシアのアテネから少し西に位置するコリントへやって来て、そこで、イタリアからやって来たアキラとその妻プリスキラというユダヤ人キリスト者と出会い、職業が同じだったので、コリントの夫妻の家に住み込んで一緒にテント造りをしながらコリントでの伝道を始めました。
アキラとプリスキラ夫妻は今日お読みした箇所にも登場してくるアポロに、「水を注いだ」アポロにエフェソの町で「神の道」の手ほどきをしたあの夫妻です。二ヵ月前の7月11日にお話ししました。パウロはこのコリントで一年半の間腰を据えてイエス・キリストの福音を宣べ伝えたわけですから、パウロを慕い、彼の信仰によって養われた人たちは相当な数に上っていたことでしょう。
当時商業上の要地、中心地であったコリントは、いわば文化のるつぼのような状態となっており、繁栄と共に人心の荒廃も招いていました。そのコリントの町にパウロによって教会が建てられ、それら建てられた教会が比較的良い状態にある時にパウロはコリントの地を去り、エルサレムへと一旦戻ります。そして三度(みたび)宣教旅行へ旅立ったエフェソの地でこの手紙を認(したた)めたのでした。
エフェソはアジアの西の端、コリントはヨーロッパの東の端で、地理上はアジアとヨーロッパということですが、当時は、おそらく現在もそうだと思いますが、二つの町の間にあるエーゲ海を挟んで船の往来が盛んでしたから、パウロが今日の所に登場するクロエ家の使用人を通してコリントの教会で起こっている情報を入手することは可能でした。そのようにしてコリントの教会の内紛情報、分裂情報を入手したことが、このⅠコリント書執筆の動機となったのです。
そのパウロの切なる思いが今日お読みした最初の所、10節に記されています。「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と。
「わたしの兄弟たち」と、パウロは伝え聞いた不一致によって裂かれている、彼の愛して止まない教会を形づくっている人々の集まりに向けて手紙を書きました。そこではキリストの十字架を忘れた争いが教会を分裂させていました。
パウロもまさか自分の名を冠したグループがあるとは思ってもいなかった四つのグループ-分派について、それぞれの名がここに記されていますが、パウロはここでそれぞれのグループの性格や特徴を問題にしてそれぞれの分派に対して批判を展開したわけではありません。そのことについてここには何も記されていません。
ただ冠されている名称からあえて推測することはできます。例えばアポロ派は学識派・教養主義、ケファ-ペトロ派は正統派・律法主義、パウロ派はリベラル派・自由主義、そしてキリスト派は、このように分けてしまえば霊的熱狂主義派・聖霊主義とでも言うことができるでしょう。
教会といえども普通の人たちの集まりですから、自分と気の合う考えの人たちがそれぞれに集まって来るのは至極妥当なことでしょう。それはどこの教会でもそうではないかと思います。ただ重ねて申し上げますが、パウロが問題にしたのはそうしたグループ/分派それぞれの考え方の内容ではなく、教会での人々の各々の集まりそれ自体が教会に分裂をもたらしているという状況でした。
教会は確かに「二人または三人がイエス・キリストの名によって集まるところ」(マタイ18:20)に出来てきますが、そこで、イエスさまが「私もその中にいる」(同)と仰られるのが教会ですから、「それは私たち人間の集合によって成立する以前にキリストの一つなる体なのだ」ということをパウロはあらためて主張するのです。「あなたがたはそれを忘れてしまった」と。
ですから彼は今日の13節で「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」と問うたのです。「キリストは分けられないのにもかかわらず、あなたがたはキリストが分けられたかのようにキリストのいない自分の教会を建てている」とパウロは鋭く指摘します。
パウロの語る「キリストのみ」は、ここに記されている「キリスト派」といった排他的、独善的な性格を持ったものについて言っているのではなく、キリストにすべてを頼ることの他は一切の主義主張から自由である、それらに束縛されないということです。
キリストにすべてを頼ることの他は一切の主義主張から自由である、それらに束縛されない。この「キリストのみ」の根本を明らかにする問いが「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼(バプテスマ)を受けたのですか」(Ⅰコリント1:13)という、答える者を否応なしに「いや、そうではない」との否定へと導く問いでした。「いや違う。それはキリストだ」と。
人となられたキリストが十字架につけられたことによって、すべての者がキリストと共に律法の呪いに対して死んだこと、すなわち、自分の力ではどうしても守ることができないものなのに、その自分をがんじがらめにしている力から逃れたこと、そして罪が赦されたこと、したがってキリストを信じる者にはキリストと共に新しい命に生きる可能性があらためて開かれたこと。
キリストの名による洗礼(バプテスマ)によって私たちはこのような主の支配へと移され、その主にすべてを頼っている。教会はただこのイエス・キリストの名においてのみ救われ、支えられている。このことを私自身の心の底からの感謝と喜びとをもって認め、告白し、証ししていく時、私たちもパウロの問いに答えることができます。
「それはキリストだ。キリストが私たちのために十字架につけられたのであり、私たちはキリストの名によって洗礼(バプテスマ)を受けたのだ」と。
ところがここで、「それはそうなんだけど、でもね」という反論に余地を与えてしまうのが私たち人間なのですね。
毎年巡り来るペンテコステ礼拝で私たちは「この風を止めることはできない」とのリタニー(交祷)をご一緒に読むわけですが、そのリタニーでも毎年ご一緒に告白しますように、私たちが「お互いに殺し合いながらも、信仰告白を唱えることができ」たり、「悔い改めないでも平和を実現することができる」と巧みな言葉や策を弄して考えていたりしているうちは、私たちはコリントの教会の党派主義に陥っている多くの人たちと同じようにキリストの十字架を、すなわちキリストの福音を全く空しくしていることになるのです。
この党派主義の根本には恐れがあります。この場合、コリントの教会の党派主義に陥っている多くの人たちと同じように、私たちも他人を恐れるほどには私の内におられるイエス・キリストを畏れていないということではないでしょうか。そうです。私たちは他人を恐れるほどには私自身の内におられるイエス・キリストを畏れていないのです。どうでしょうか。畏れるべきはキリストのみであるのに、です。
私たちはキリストの一つなる体を形づくっている一人ひとりなのですが、その一人ひとりの内におられるキリストを本当に畏れているでしょうか。
「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか」に続く「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼(バプテスマ)を受けたのですか」とのパウロの今日の三つの問いは、コリントの教会の人たちも含めて現代の私たちをこの「キリストのみ」へと、「私たちのために十字架につけられたキリストのみ」へと立ち帰らせる問いとなっています。
パウロの考え方を受け継いで、教会との関連で自らの考えをパウロから約30年後に展開していったエフェソの信徒への手紙の著者は、今日のパウロの問いに手紙の4章1節以下で次のように答えました。
「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです。主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」(エフェソ4:1-6)
「一つ」という言葉が8回出て来ましたね。
今日最初にお読みした旧約聖書のエゼキエル書37章後半のテーマは「失われた統一の回復」です。それは象徴的に、主なる神さまがヨセフの木を取って-ヨセフの木というのはここでは北イスラエル王国のことですが、その木を取って、それをユダの木に繋いで-ユダの木というのはここでは南ユダ王国のことです-ヨセフの木を取ってそれをユダの木に繋いで一本の木とし、それらが主の手の中で一つとなることであると記されています。
この箇所は、キリスト教徒にとっては「キリストの体なる教会」の聖書的根拠と考えられている所なのです。そして預言者エゼキエルによれば、私たちが主の手の中で一つとなることは、神さまの支配と神さまとの永遠の平和の契約の下に私たちが置かれていることを表すものであり、それはその神さまの臨在される聖所を通して明らかにされるということでした。
その主の臨在について、新約聖書の第四福音書-ヨハネによる福音書の著者は次のように表しました。それは「肉となって、わたしたちの間に宿られた『言(ことば)』」(ヨハネ1:14)なのだと。そうです。神の子、主イエス・キリストです。
その主の臨在される聖所、すなわち「キリストの体なる教会」こそが私たちが主の手の中で一つとなること、主の平和-シャロームの象徴なのだと、私たちは旧約聖書以来連綿と教えられてきたのです。
主イエス・キリストを通して私たちに与えられた平和、神さまとの、そして私たち同士の間の平和への意志と、それを持続しようとする努力とを決しておろそかにしてはいけない。「一人、一つ、一つ」-「主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ」との言葉は、私たちのこの決意を、主イエス・キリストを通して私たちに与えられた平和、神さまとの、そして私たち同士の間の平和への意志と、それを持続しようとする努力とを私たちは決しておろそかにしてはいけないとの決意を支えるものとして、今私たちの間に、そして私たち一人ひとりの中にあります。
祈りましょう。
神さま、今日は私たちに「キリストのみ」ということについてあらためて教えてくださったことを感謝いたします。主に頼ること、その主の平和に頼ることの他は一切の束縛から自由であることを生きる道へと、私たちを導いてください。
主の御名によって祈ります。アーメン。