「もう石はない」
更新日: 2014.04.27
2014年 YMCA・YWCA主催 イースター早天礼拝
マルコによる福音書16章1-8節
伝道師 汐碇 直美
3歳の時の体操教室に、小学校5年生の頃の塾、夏のキャンプ、そして小・中と一番長く続いたプールと、私は小さい頃からYMCAに頻繁に通い、関わっていました。YMCAに通う前は、家からより近いスイミングスクールに通っていたのですが、スクール全体の雰囲気に馴染めず、怒られたわけでもないのに何故か先生たちを怖いと感じていて、私はその頃プールに行くのをとても嫌がっていました。そんな私にYMCAのプールを紹介してくれたのは、当時家族の中で唯一のクリスチャンであった母でした。初日に、同じ時間に通う子どもたち全員の前で紹介をされたこと、また進級テストの際、合格してもしなくても、毎回リーダーが必ず手書きでメッセージをくれたことなど、幾度となく驚いたことをはっきりと覚えています。その時はわかりませんでしたが、それはまさに、一人一人を神さまの子どもとして大切にするキリスト教主義の表れであったのだと今になって実感しています。当時、小学校ではいじめに遭っていて、とてもつらい日々を送っていましたが、不思議なことにプールの日だけはとても楽しみにしていて、しかも友だちづきあいの苦手だった私が、プールで友だちと会えることを心待ちにしていたのです。小さい頃からYMCAで育てていただいた私が、こうしてこのイースター早天礼拝にて用いていただける神さまの不思議な恵みと導きに、心から感謝をいたします。
今朝私たちに与えられました聖書の箇所はマルコによる福音書16章1節から8節です。主イエスが十字架にかかられた日から3日後、週の初めの日曜日の朝、イエスさまが十字架にかかられたのを遠くから見守っていたマグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメという3人の女性たちが、主イエスのご遺体に塗る香油を買って、お墓へと出かけていきました。彼女たちもまた、主イエスを裏切ってしまった弟子たちと同じように、失意の底にありました。自分たちを救ってくれるメシアだと思っていたイエスが、まさか、十字架に架けられて死んでしまうなんて。これほどに予想外の結末はない、と落ち込んでいたはずです。ご遺体をそのままにはしておけない、せめて油を塗ろうと出かけて行った彼女たちは、いったいどんな想いだったのでしょうか。お墓をふさいでいる石をいったいどうやって転がしたらいいのかと、そんな心配を抱えながらお墓へと向かった彼女たちを待っていたのは、しかし十字架以上に予想外としか言いようのない出来事でした。お墓についた彼女たちが見たのは、お墓の脇に転がされた大きな石、そしてそこで眠っておられるはずの主イエスのおられない、空のお墓でした。お墓の中にはそこにいるはずのイエスさまの代わりに、白く長い衣を着た若い人、天使がいました。驚く彼女たちに、天使は告げます。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる』と。」
天使は驚くことはない、と言いましたが、驚くなと言う方が無理な内容です。死んでしまったはずのイエスさまが復活された。しかし、ある意味で主イエスのご復活そのもの以上に驚くべきなのは、彼女たちに託された主イエスの弟子たちへのメッセージの方かもしれません。弟子たちとペトロは、十字架に架かられたイエスさまを最期まで見守ったマリアたちとは違い、イエスさまを見捨てて逃げてしまった人たちです。特にペトロは三度も「イエスなんて人は知らない」と、はっきりとイエスさまを拒絶しました。復活されたイエスさまはその弟子たちを責めるのでもなく、批判するのでもなく、恨みごとを言うのでもなく、もう一度、ガリラヤで会おうとおっしゃったのです。ガリラヤ、それは弟子たちとイエスさまが出会った最初の場所です。漁師であったペトロたちが、魚ではなく人間を漁る漁師にしようとイエスさまに声をかけられ、主イエスに従っていった、彼らにとっては地元、ふるさとである小さな町、始まりの町です。イエスさまを拒否した弟子たちを、イエスさまは拒否せず、むしろその失敗、挫折ごと受け入れ、なお、「もう一度最初からやり直そう」とおっしゃっているのです。
しかし、やり直すと言ってもすごろくのように振り出しに戻るわけではありません。今までのことを全て水に流して帳消しにするのでもなければ、これまでのイエスさまと旅をしてきた道のり、労苦、思い出、その全てが無になってしまうわけでもありません。ペトロがイエスさまを拒否したことも、イエスさまが十字架に架けられて亡くなったことも、決して消えることのない事実なのです。後に弟子たちがイエスさまに再会した時、その手には釘の傷跡が、脇腹には槍で刺された跡がありました。もう一度あのガリラヤで、今度は手に釘跡のあるイエスさまに出会う。自分たちがイエスさまを見捨てた結果としての十字架という出来事とも向き合いながら、もう一度イエスさまに従う歩みを始めることが、弟子たちには許されているのです。私たちはここに、イエスさまの限りない愛を見出すことができます。
主イエスはガリラヤで待っておられます。弟子たちがイエスさまから今度こそ逃げ出さず、もう一度会いにくるのを待っている。私たちにとって本当に恐ろしいのは、尊敬する人、大切な人に失望されること、見捨てられることではないでしょうか。主イエスは弟子たちを見捨ててもおかしくなかった。それなのに、あれほど裏切られたのにも関わらず、イエスさまはなおもまだ弟子たちに期待をして、弟子たちを信じて、待っておられるのです。
復活の日の朝、福音書が伝えているのは静かな光景です。空の墓にたたずむ天使とマリアたち。一見何もない、何でもない静かな光景ですが、しかしここで主イエスのご復活という、神さまの大きな御業がなされているのです。それを示すのが、脇に転がされたあの大きな石です。イエスさまのご遺体が納められていたお墓、そこは光が一切遮断された暗闇でした。命のない、冷たい空間には、死と絶望、後悔、悲しみだけが満ちていました。しかしその墓穴をふさいでいたあの大きな石は、そこにはもうありません。全ての終わりを告げた、私たちの行く道をふさぐあの石はすでに脇に転がされ、暗い墓穴には光が差し込んでいるのです。全ての終わりであったはずの墓穴は、その後2000年の長きにわたって続くキリストの教会の歴史の、その全ての始まりとなる場所へと変えられました。
天使は最初にマリアたちに「恐れることはない。」と告げました。しかし、そう言われてすぐに落ち着くことは、マリアたちにはできませんでした。今日の箇所の最後、聖書は次のように語っています。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」このマルコによる福音書は、本来はこの部分で終わっていたのだと考えられています。奇妙な結末です。マリアたちは怖くなって、誰にも何も言わず、逃げてしまった。あまりに大きな神さまの力、神さまの御業を見せられた彼女たちは、すっかり恐れをなしてしまったのです。託された弟子たちとペトロへの伝言を伝えることもできないほどに。しかし実際には2000年後の今日にまで主イエスがご復活されたとのこの良き知らせは伝わっていて、こうして今日、世界中の教会でイースターが祝われているのです。
恐れおののくマリアたちに天使は言いました。イエスさまのご復活をペトロたちに伝えなさい、と。イエスさまが伝えてくださった神の国の到来を、今度はあなたたちが伝える番なのだと。私たちの次の一歩を阻む、あの大きな石はもうありません。暗い墓穴に差し込んだ一筋の光が、途絶えたはずだった歩みの先へと、私たちを押し出します。最初に天使が言った「恐れることはない。」との言葉は、その時の彼女たちの耳には届きませんでした。しかしその言葉は彼女たちの耳に、彼女たちの中に残っていたはずです。後から彼女たちはこの言葉を思い出し、この言葉に励まされて、弟子たちに、そして人々にイエスさまのご復活を伝えることができたのだろうと想像します。
私たちにとっての墓穴とは何でしょうか。大切な人との別れ、人には知られたくない恥ずかしい失敗、忘れてしまいたい挫折。ここから先どうやって歩んでいけばよいのかわからない、と絶望するしかないような経験や痛みを、お一人お一人がきっと持っておられることと思います。しかし、主は私たちの行く手をふさぐこの大きな石を動かされ、光の差し込む新しい道を示されます。その道の先で主イエスは、もう一度私たちが歩み始めるのを待っておられるのです。
小学校3年生の私はYMCAのプールでもう一度泳ぐこと、そして人と出会うことを始めることができました。もう一度やり直すことができたのです。主イエスの愛によって満たされたあの場所で、神さまの子どもとして大切にされるという経験を通して、私は主イエスのご復活を体験していたのだと、今になって思います。YMCAでみんなから大切にされる経験によって、それから長い時間がかかりましたが私はいじめの時代を乗り越えることができ、徐々に人と出会う楽しさに目覚めていきました。それは小さな経験ですが、私にとっては始まりとなる、原点となるような経験でした。
行く道をふさぐ石を取り除き、光の差し込む新しい道を示してくださる主に感謝して、主イエス・キリストのご復活を心からお祝い申し上げます。
私たちの真の光なる神さま
命の終わりを命の初めに、おそれを信仰に、死を復活に変えてくださるあなたのみ恵みを心から感謝いたします。
あなたは私たちを暗闇から解放し、新しい道へと導き、その先で私たちが一歩を踏み出すのを待っておられます。おそれを信仰に変えてくださるみ恵みの中で、安心してあなたの招きに応えることができますように。
復活と命の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。