牧師メッセージ

「これはどういうことなのか」

更新日: 2016.06.05

2016年5月15日 聖霊降臨祭/ペンテコステ礼拝
エゼキエル書37章1~14節 使徒言行録2章1~12節

牧 師  野田和人

 今日最初にお読みいただいたエゼキエル書は、紀元前6世紀、イスラエルのバビロン捕囚の地で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨んで記された預言の書です。今日の「枯れた骨の復活」の箇所は、「主の手がわたしの上に臨んだ」との言葉に続いてエゼキエルに示された四つの幻(3:22,8:1,37:1,40:1)のうちの三番目、第一の幻が預言者の死を象徴していたのに対し、ここでは預言者の言葉を通しての死から生への呼びかけがなされているのが特徴です。捕囚民の失望は、現在十数名の方々と毎週木曜日夜に学んでいる「嘆きの詩編」を思わせる言葉となって表れています。「我々の骨は枯れた、我々の望みは失せ、我々は滅びた」。これに対して主なる神は言われます。「わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる」と。これは創世記2章7節で、主なる神が人を土の塵から創造し、その鼻に息を吹き入れられたことで人が生きる者となったことの再現ということができますが、その前に、私たちは、私たちも捕囚の状態にあったことを知る必要があるでしょう。
 それがたとえば創世記11章の「バベルの塔」によって生じた混乱です。人びとはもはやお互いを理解することができなくなりました。そしてこの混乱を解消するものとしてよく引き合いに出されるのが、使徒言行録2章の聖霊降臨の出来事です。ただそれは主イエス・キリストの名によって遣わされるものでした。最近の組会でも主日礼拝でも学んでいるヨハネによる福音書14章26節を見てみましょう。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」。

 「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」で始まる、私たちキリストの教会の誕生の基となる聖霊降臨についての記事は、主日聖書日課では毎年今日のこのペンテコステ礼拝で朗読される箇所になっているので、「ああ、また一年が巡って来たなあ」と実感される方も多いのではないでしょうか。この一年を、そしてこの神戸栄光教会が創立されてからの130年を、聖霊の力に導かれて歩むことができたことを心から感謝するものです。

 「一同が一つになって集まっていると」というのは、「皆、心を合わせて一緒に、一ヵ所にいた」ということです。そこで何をしていたのでしょうか。先週お話ししたように、彼らはそこで「心を合わせて熱心に祈って」いました。復活の主イエスと共に過ごした40日間の後、イエスさまが天に挙げられてから今日までの10日間のことです。彼らの渇きは、聖霊の力に覆われることを求めて、心を合わせて熱心に祈ることにおいて表されました。「私たちの渇きはどのような形で表されるでしょうか」と先週お尋ねしましたが、どうだったでしょうか。彼らの渇きは、主の復活から50日目、すなわちペンテコステの今日、潤されました。
 「一同は聖霊に満たされ」‐「一同は」ですから、一人の例外もなく、そこにいたすべての者の上に聖霊が注がれ、すべての者が聖霊で満たされ、そして「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」のです。今日はこの箇所を10の言語で朗読していただいたように、「ほかの国々の言葉」とは、文字通りの意味で「いろいろな国の言葉で」と理解することもできますが、もう一つ、「だれにも理解できない、日常言語とは異なる言葉としての異言を語りだした」と取ることもできます。解釈は分かれますが、大切なことは、神の偉大な業を語るための「舌」を持っていなかった人びとが、今や語り始めたという事実ではないでしょうか。そして彼らの話す言葉をそこにいたすべての者が理解したのです。ガラテヤの信徒への手紙2章20節で、使徒パウロが「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語った言葉が、今語り始めた彼らの、そして私たちの共同の証言となっていくところに教会が誕生していきました。
 今日は、彼らをしてそのような「神の偉大な業」を語らしめる力を彼らに与えてくださった聖霊の働きについて、その謙遜さについて注目したいと思います。

 やはりヨハネによる福音書ですが、16章13‐14節には次のようにあります。「真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げる。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである」。「その方」とは聖霊のことで、「わたし」とはイエス・キリストのことです。ここには、聖霊の働きの本質である謙遜さという事柄がよく表されているのではないかと思います。というのも、自らの権威によって語ることをしないで、なお私たちが未来へと一歩を踏み出すことのできる希望を与えてくれるものが聖霊だからです。それが「これから起こることをあなたがたに告げる」ということです。聖霊は、主イエスが話されたことをことごとく私たちに思い起こさせ、そのようにして私たちに教えてくださるということです。
 したがってその未来とは、私自身が興味を持つような、私たち自身が関心を抱くような未来ではありません。そうではなくて、私たちが本当の意味で「今、ここ」に生きることを得させてくださる、私たちの主イエス・キリストそのものについて語るものです。私たちの未来は、「今、ここ」に生きて在る主イエス・キリストそのものであるということ、主イエスご自身が私たちの未来であるということ、そこに私たちの生の中心があるのだということ、このことを知らしめてくださるのが聖霊の謙遜ということではないでしょうか。こうして三位は、父・子・聖霊は一体となっていきます。
 だからこそ使徒パウロも、この聖霊から受けて「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と語ることができたのでした。そして弟子たちも、婦人たちも、イエスさまの兄弟たちも、この聖霊から受けて「神の偉大な業」を語り始めたのです。人びとは皆、驚き戸惑います。「いったい、これはどういうことなのか」。エゼキエル書37章10節を見てみましょう。「わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った」‐「いったい、これはどういうことなのか」。

 私たちには二通りの道があります。私たちを同じ聖霊の風の中に包んでくれる「神の偉大な業」を語る言葉に私たちがひたむきに聴き、命の泉から湧き出る水を賢明に取り次いでいくのか、それとも、「この人は大工の息子ではないか」(マタイ13:55)、「この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4:22)とあざ笑うのか。私たちがもし渇いているのなら、聖霊はその渇きを必ず潤してくださり、私たちに真実の謙遜を生きる道を指し示してくださるでしょう。そのためにご自身を献げて聖霊を遣わしてくださった主を覚えて、ご一緒に主の聖餐にあずかりたいと思います。祈りましょう。

 神さま、あなたは「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」(ゼカリヤ4:6)と言われます。上より聖霊の恵みを注いで、私たちの心を天の露で潤してください。そして地の面に生ける水を注ぎ、私たちに最良の平和の実を結ばせてください。困難のなかにあるこの地上のすべての友を顧みてくださり、必要な助けと慰め、励ましを与え、聖霊の導きによって主の平和の希望を生きる者としてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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