3月8日(日) 受難節第2主日礼拝説教「信じる力」
更新日: 2020.04.21
受難節第2主日(2020.3.8)礼拝説教 牧師 野田和人
列王記下6章8-17節,ヨハネによる福音書9章24-41節
牧会祈祷
慈愛と憐れみに富みたもう、私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2020年の受難節の第2の主の日に、今、世界を席巻している新型コロナウイルスの猛威のただ中で、十分に配慮を示しつつ私たちをこの祈りの家へと呼び集め、共に賛美を合わせ、御言葉に聴く幸いへと招いてくださった恵みを、心より感謝いたします。
同じ配慮を示しつつ、共に集うことのかなわないお一人おひとりの上に、今はお休み中の教会学校に連なる愛する子どもたち一人ひとりの上に、そして大きな困難の中にあって助けを必要としているお一人おひとりの上に、あなたよりのお守りと力づけ、慰めと平安が豊かに与えられますよう、心から願います。
主の日毎に与えられる大きな恵みを受け止めきれずに、御心に適わない歩みを重ねて今御前に立っている私たち一人ひとりを、どうかお赦しください。巡り来た新たな主の日の礼拝を通して、賛美と祈りと御言葉によって私たちの頑なな心を砕いてください。そして、身の回りの現実に一喜一憂する私たちの感情を、私たちのために十字架への道行きを今も辿っておられる主イエス・キリストの従順と忍耐へと向けさせ、私たちの悔い改めと共に、私たちを敵意と排除へと向かわせる悪の支配の誘惑から私たちを遠ざけてください。主が私たちすべてを受け入れてくださったように、主の和解と主にある一致に生きる希望を私たちに与えてください。
私たちが十分な配慮を示しつつ耐えなければならない未曽有の困難は、まだ続くでしょう。各国の指導者たちと共に状況をしっかりと見極めつつ、感染収束に向けて適切な対応を取ることができますよう、そのために日夜奮闘している一人ひとりを、あなたのお支えとお導きのうちに置いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
説 教 「信じる力」
「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」(ヨハネ9:2)。第4福音書9章は弟子たちの、この名もない、目の見えない人の存在を無視した無神経な問いかけから始まっています。「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」(ヨハネ9:3)。
このイエスさまの答えで思い起こすのは、この福音書が記される約半世紀前、紀元50年代、イエスさまとは地上で直接会うことのなかった使徒パウロが、コリントの信徒に宛てて記した手紙の中の一節です。彼が自分の身に与えられた「とげ」-痛みについて、それを取り払ってくださるよう三度主に願った時の主の答えはこうでした。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9)。すると彼はこのように語りました。「キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。…なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(同12:9-10)。
「神の業がこの人に現れるためである」というのは、神さまがこの人なら大丈夫だと思ったからではないでしょうか。見えない、見えなくなる、できない、できなくなる-これでもう終わりと私たちが思ってしまうところで、神さまは働いてくださる。そこで何か新しいことを始められるということではないでしょうか。
私たちが今その中にいる受難節/レントの期節に覚えるべき事柄の一つは、今日の週報の5頁の「レントへの招き」にも記されていますように、レントは「信仰に導かれた者が、キリストの体なる教会に加えられるための洗礼の準備の時」であるということです。洗礼が啓蒙(蒙ーくらさ、無知を啓く)であるということでは、それは暗闇から光の中へと入っていくことを意味しますから、今日の主日聖書日課もそのことを表すために、暗闇、あるいは目が見えないことについて記した箇所が選ばれているということでしょう。そしてそれは今日最初にお読みいただいた、列王記下に登場してくる預言者エリシャの祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」にも見られるものです。
私たちは福音書のよく構成された物語を通して、この福音書が記された動機を目の当たりにすることができます。それは、当時、ヨハネの教会に属していた者たちをも含んだキリスト者たちを異端であると宣言した紀元一世紀末のユダヤ教に対して、その激しい迫害による信仰共同体の分裂を避けるためにも、自分たちのイエス理解を再確認する必要があったということです。それがここに登場する目の見えない人の口を通して語られた、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」との言葉に続く、「あの方は神のもとから来られた」、そして、「主よ、信じます」との言葉で言い表されている事柄ではないでしょうか。
私たちはこの福音書の初め、第1章の後半で、ヨハネ版「人間をとる漁師」の記事を見てきました。そこでは、「私は世の罪を取り除く神の小羊であるイエスに出会った」との洗礼者ヨハネの証言が彼の弟子たちをイエスさまと出会わせ、彼らはイエスさまの所へ来て、見て、留まりました。その時彼らがイエスさまの下に留まって目にしたものは、その時のイエスさまの言葉、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」との言葉に導かれて、旧約聖書で夢から覚めたヤコブが語った言葉、「まことに主がこの場所におられるのに私は知らなかった。ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家だ。そうだ。ここは天の門だ」(創28:16-17)で表される、今ここにある、私たちのこの地上にある神の家、天の門そのものでした。そこで彼らが見たものを今日の箇所に登場する目の見えない人の言葉で表すとすると、「今は見える」、「神のもとから来られた」、そして、「主よ、信じます」ということになるのではないかと思うのです。
イエスさまは地べたに座って施しを求めていた目の見えない人の目を、見えるようにされます。「イエスという方が言われた通りにすると見えるようになりましたが、その人がどこにいるのかは知りません」と始めは言っていたその人の内に、変化が起こってきます。あらゆる手段を用いてこの出来事を否定しようとするユダヤ教側の指導者や権力者たちとの度重なる議論を通して、この人の内にある変化が起こってくる様子をドラマチックに描いているのがこの9章です。
イエスさまがこの人を癒されたのが安息日であったことから、「律法を犯す者なら神からきた者ではない、罪人である」と主張するファリサイ派の人々に対して、生まれつき目の見えなかった人は自分の経験から出発しています。つまり「目の見えなかった私が今は見える」という経験です。このイエスさまのなされた癒しに対して、反対者たちが執拗に問いを繰り返すのを聞いて、その人は「ではあなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」と、強烈な問いを投げ返します。ここには、この直前にこの人の両親が自分たちを問い詰めるユダヤ人たちに対して見せた恐れは全くありません。ファリサイ派の人々や両親の的外れな言い分とは違って、まるで本当の問題を見抜いているかのようです。それは、「見える」ということは、ただ単に見えるのではないということです。
こうした言動が出てくるのも、やはりこの人が「目の見えなかった私が今は見える」という確信にしっかりと立たせられていたからだと思います。彼はこの事実の上にしっかりと立つことができました。彼は自分の身に起こったことを率直に見つめることを通して、イエスという方がどのような方であるのか、イエスさまへの理解を深めていったのではないでしょうか。そのようにしてこの人の内に変化が生じ、この癒しの出来事の内実が一体何であるのかを悟ったのではないでしょうか。悟らされたのではないでしょうか。すなわち、これこそが自分に本当の命を得させる救いの出来事であることを。この私は、これまでもこの主によって生かされてきたのだということを。
だからこそ彼は今日の30節以下でユダヤ人たちを全く恐れることなく彼らと議論をし、イエスさまこそが神から来られた方であると宣言できたのでした。ここから「主よ、信じます」との信仰告白へと至るまでは、外に追い出されてしまったこの人に主から出会ってくださるわけですから、わずかの道のりです。
私たちは「神の業の現れ」を、この人の内に生じてきた変化に見ることができます。この人に「信じる力」が与えられていく過程に。
敵対者たちの追及や策略がかえってイエスとは誰なのかを、イエスさまの働きを確認させるものとなるという状況は、3週前にこの福音書の5章で私たちが見た、ベトザタの池で38年間病気に苦しんでいた人をイエスさまが癒された時と同じですが、癒された者たちの反応はたいへん対照的なものとなっています。
ベトザタの池で病を癒された者は、安息日規定違反を問われると、「安息日に床を担いだのは、自分を癒してくださった方がそうしなさいと言われたからだ」と答えました。その後、自分を癒してくださった方が誰であるかを知らなかったこの人に、神殿の境内でイエスさまから出会ってくださり、「あなたは良くなったのだ。だからもう罪を犯してはいけない。わたしを拒んではならない」と言われたのですが、彼はその直後にそこを立ち去り、自分を癒したのはイエスだとユダヤ人たちに知らせました。
そこでは、生まれつき目の見えなかった今日の人の両親のように、まだ恐れが支配していました。なぜなら彼には癒しの「しるし」が自分を一体どこへ導いていくのか、分かっていなかったからです。彼は、「ただ一つ知っているのは、病気だったわたしが、今は歩くことができるということです」との救いの確信に立つことができませんでした。
ところがこの9章ではそのことが乗り越えられています。ここにやはりこの福音書の構成の大きな意味があるのだと思います。
「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」。この事実に立つこと、この事実に立ち続けることを通して、この人は真にそこにあるもの、自分を生かす命を、主イエスを通して与えられる救いを見ることができました。この私は、これまでもこの主によって生かされてきたという事実を。そしてそれは、目の見えないこと、あるいは他の障碍がたとえ続いていたとしても、ある定められた時に必ず見ることのできるものではないかと思うのです。それがここで「目が見える」ということのもう一つの意味であり、私がイエスさまと出会い、イエスさまを知るということ、そこで私に「信じる力」が与えられるということではないでしょうか。
レントは、洗礼によって与えられている信仰を新たにする時でもありますけれども、「私はそこにいた。それは私に起こったことなのだ」という確信に私たちが立ち返り、その確信に立ち続けることが私たちの命を満たし、そしてその充満が、私たちをこの地上の日々でのそれぞれの、また共通の課題へと向かわせる力を与えてくれるのだと信じています。私たちが知っているただ一つのことは、「目の見えなかったわたしが、今は見えるということ」なのですから。
祈りましょう。
神さま、あなたは暗闇の中から私たちに働いてくださって、新しいことを始められます。私たちが主イエス・キリストによって赦されて、あなたの平和を実現する者として生かされていることを、受難節から復活節に向けてあらためて覚えさせてください。
主の聖名によって祈ります。アーメン。