5月10日(日)復活節第5主日礼拝説教「初めから、わたしと一緒に」
更新日: 2020.05.12
復活節第5主日/うたえ(2020.5.10)礼拝説教 牧師 野田和人
エゼキエル書36章24~28節、ヨハネによる福音書15章18~27節
牧会祈祷
慈愛に富みたもう私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2020年の復活節第5の主の日にあって、共にこの場に集うことはできなくとも、私たちの愛する家族の一人ひとりを覚えて、そしてあなたが愛してくださっている私たちの神の家族のお一人おひとりを覚えてこの礼拝をささげることのできる恵みを、心から感謝いたします。
特に今日は、私たち子どもに惜しみのない愛を注ぎ、私たち一人ひとりを忍耐と寛容とをもって育んでくださった私たち一人ひとりのお母さんを覚え、心より感謝いたします。今この地上にいる、また今は天におられる私たちの愛する母一人ひとりを、あなたの平安と祝福のうちに置いてください。
また今この時、災害や事故、新型コロナウイルス感染症をはじめとする病や争い等によって大きな困難の中にある私たちの友一人ひとりを覚えます。試練の中にある友や子どもたち一人ひとりをあなたが支え、あなたの慰めと平安の中で苦しみに与り、希望をもって生きることができますよう、どうぞお導きください。そのために私たちも共に祈りを深め、できるすべてのことを為すことができますよう導いてください。
私たち生きるものすべての母であり父である神さま、真実の光であるあなたは、御子イエス・キリストを遣わして私たちを顧み、養い、癒してくださいます。主は十字架によって死を滅ぼし、私たちを赦し、私たちに与えられている命を私たちが互いに大切に分かち合うことを示してくださいました。私たち一人ひとりが、子どもたちと大人たちが、すべての国の民、民族、人々が、その主イエス・キリストにおいて赦されて一つとなることができますよう、私たちに努めさせてください。
私たちはその祝祭の時を待ち望んでいます。私たちが一つとなることを待ち望んでいるすべての者の上に、あなたよりの励ましと力を与えてください。
私たちの永遠の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
説 教 「初めから、わたしと一緒に」
「あなたの無責任な行動が誰かの命を奪うかもしれない」。「あなたの無責任な行動が医療崩壊を招き、死者を増やす」。この言葉は、現在私たちの生命を脅かしている新型コロナウイルス感染へのリスクをできるだけゼロに近づけるための警告として、感染症対策の一つとして正しい判断だと思います。正しい判断ですが、実はこの「正しさ」への信奉が、私たちがこの未知の感染症と共に生きることを危うくさせ、かえって私たちをゼロリスクからはずれてしまうものの排除へと向かわせてしまう、そのような状況が今、生み出されています。そうです。感染リスクの高い人や集団への差別、中傷、バッシングといった迫害です。
今日のような緊急事態に陥ると、私たちは自分たちの安全が、自分の生命が一体何によって保たれているのかについて想像力-イマジネーションを働かせることを止めてしまいます。必要なことは排除の論理ではなく受け入れること、排除ではなく、受容-連帯の論理だというのにです。もちろん、変化の激しい様々な局面において冷静な対応が求められるのは当然ですが、その行き着く先が、行き着く所が決して排除や囲い込みであってはならないと思います。
排除ではなくて受け入れることー受容、連帯が私たちの安全と生命を支えています。このことについて、私たちの愛読書でもあるこの聖書は、私たちに示唆に富む内容を示してくれているのではないでしょうか。
今日最初にお読みした旧約聖書、エゼキエル書の最後の言葉は次のようでした。「お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる」。これは普通に考えれば素晴らしいことですよね。私たちが神さまの民となるのですから。ところが、この、イスラエルの民が彼らの神の民となること、私たちがこの神の民となることが大変な事態を引き起こしてしまったことについて、私たちは新約聖書で見ることができるのです。普通に考えれば素晴らしいことが、実は大変な事態を引き起こしてしまった。そのことについて記しているのが、今日後からお読みした、「迫害の予告」という表題-小見出しが付いているヨハネによる福音書の箇所です。
私たちが神さまの民となることが、イエスさまの時代において、そして後にそのイエスさまを信じる者たちにおいて、一体どのような事態を引き起こしたのでしょうか。それは良いことではなかったのでしょうか。
エゼキエル書の最初にお読みした箇所で、「主がその民を国々の間から取り、…主がその民を、すべての汚れとすべての偶像から清められる」と言われている「国々」や「偶像」について、詩編115編に見ると次のようになります。「なぜ国々は言うのか。『彼らの神はどこにいる』と。…国々の偶像は金銀にすぎず、人間の手が造ったもの」(詩編115:2,4)。エゼキエル書や詩編に記されている、この「国々」や「偶像」、これが、ヨハネによる福音書で多用されている「世」、私たちが「この世」と言うときの「世」という言葉に対応しているものです。
その「世」が、「お前の神はどこにいる」と問う国々や偶像が愛する愛とは、自らを義(正義の義)-正しい者とし、自分に仕え、自分を崇めてくれるものを愛する愛のことです。そして、イエスさまがここで弟子たちに向けて語られる「だが、あなたがたは世に属していない」との言葉は、あなたがたはそのような世の愛、自らを正しい者とし、自分に仕え、自分を崇めてくれるものを愛する愛に生きるものではないということです。なぜなら、「わたしがあなたがたを世から選び出し、あなたがたをわたしのもの、キリストのものとしたからである」とイエスさまは弟子たちを励ますのです。
これが励ましになればいいのですが、新約聖書の使信は、このイエスさまの励ましが単なる気休めではなく、キリストのものとされることによって大きな苦しみや困難の中に置かれるようになる弟子たちに向けての、本当の励ましとなっていったことを伝えるものなのです。
この「世」にとって、イエスさまの言葉や行い、イエスさまの言動はたいへん大きな脅威でした。なぜなら、22節に「わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない」と記されていますように、イエスさまの言葉や行いは、最も小さい者を受け入れると見せかけて、何か事があると真っ先に切り捨ててしまうこの世の偽善性、受容の仮面を被った排除と敵意の壁を打ち壊そうとするものだったからです。
真実に真摯に目を向けようとせず、平気でフェイク(偽物やまやかし)を真実と偽ってしまう現代においても、このイエスさまの言葉の有効性は決して失われるものではありません。
「互いに足を洗い合いなさい」。「互いに愛し合いなさい」。これらイエスさまの言葉は、排除と敵意を剥き出しにしたこの世の偽善性を刺し貫くものとしてあるのです。
だからこそ「世」はイエスさまを憎み、そのイエスさまのものとなった、キリストのものとなった弟子たちを憎み、迫害し、殺そうとしたのでした。けれども「僕は主人にまさりはしない」ように、この世の彼らに対する迫害や憎悪も、イエスさまご自身に対する迫害や憎悪に勝るものではいことをイエスさまは弟子たちに告げられ、「実はこれらのことは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである」(25節)との驚くべき言葉を語られるのです。
この言葉は、迫害の苦難も実は上からの光に照らされているということを表しています。憎しみや迫害も、実は上からの光に照らされて、すなわち賜物としてあるということ、苦しみの賜物としてあるのだということがここで伝えられていることではないでしょうか。
先週のお話で、あのペトロが、羊のために命を捨てることさえある牧羊者としての厳しく困難な使命を、主イエスからの賜物として受け取ったようにです。
今日お読みしたのは第4福音書15章の後半部分ですが、15章の前半部分、有名な「わたしはまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」の所では(今日の私のストラもそのブドウがあしらわれたものですが)、主イエスと弟子たちの関係-その一体性が「愛」という言葉を鍵として、「愛」をキーワードとして語られていました。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」(17節)と。
ところが、今日の後半部のキーワードは一転して「憎む」となっていて、たいへん対照的です。弟子たちにとっては最も聞きたくない「憎む」、「迫害する」といった言葉ではなかったでしょうか。けれども、イエスさまが弟子たちにとっては最も聞きたくない事柄についてわざわざ語られたのは、次の章の16章1節に「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである」とあるように、彼らが、今まさにつまずくような状況にあったからこそ語られたのだということが分かってきます。
弟子たちは今、イエスさまを信じることにおいて危機的な状況にあるのです。今、私たちが「お前の神はどこにいる」と聞かれたら、私たちはどう答えるのでしょうか。私たちの現在の状況も、少し想像力を働かせてみれば、彼らとそれほど変わらない状況にあると言えるのではないでしょうか。
ここでイエスさまがただ「互いに愛し合いなさい」という教えだけで終わらずに、これで終わっても良さそうなものなのに、これだけで終わらずに、憎しみ、憎悪についての話を持ち出されたのは、イエスさまがこれまでに語られた「愛」と「この世の愛」との大きな違いを、その対照性を明らかにして、危機的な状況においてもなお働く、いや、危機的な状況だからこそ働く聖霊の力を示して、危機的な状況の中にある弟子たちを、そして私たちを勇気づけるためだったのではないかと思うのです。
「この世の愛」は自らを義とし、自分に仕え、自分を崇めてくれるものを愛する愛、すなわち神さまを知らない愛ですが、イエスさまの語られるアガペー/神の愛とは、そのようなこの世によって迫害され、憎まれる、その憎悪を貫き通すような愛、憎しみの壁を貫いて打ち砕き、そこで新しい共生の形を、共に生きる連帯の形を創り出していくような愛のことです。
そのことをイエスさまはここで「覚えなさい」と、17節から18節の流れの中で語っておられるのです。「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。世があなたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」。
「覚えなさい」とは「知りなさい」、「悟りなさい」ということです。彼ら弟子たちがこの世から憎まれ迫害される、その根拠は、その言葉や行いによって神さまの愛を示されたイエスさまご自身にあることを知りなさいということです。なぜならイエスさまこそが彼らをこの世から選び出し、彼ら弟子たちはそのイエスさまによって示された愛を通して、互いに愛し合うことを通してイエスさまと一つになったからでした。
この世はこのイエスを目の当たりにしながらも、自分たちの言葉と行いこそが正しいのだと自らを決して譲ることなく、イエスさまを拒み、イエスさまの示されたアガペー/神の愛を拒みました。ここに神さまの愛を憎むこの世の罪があります。そしてその罪は、イエスさまと一つになったと思っている弟子たちの中にも、また同じようにそう思っている私たちに中にもあるのです。それが危機です。
けれども神さまの愛はこの罪を貫いて現れます。この罪のただ中で、その罪を赦すものとして現れます。それが「『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである」との言葉が意味していることであり、それら罪のすべてを担うために主イエスが自ら選び取られたのが十字架なのですよ、十字架の意味はここにあるのですよというのが、新約聖書の伝える使信となっています。
自らを義とし、自らを高めようとするこの世の愛ではなく、そのようなこの世の愛が否定される、この世の愛が打ち消されるところで現れ出てくる私たちの憎悪を貫き通す神さまの愛こそが、私たちが苦しみを賜物として受けることを可能にしてくださる。これが今日のヨハネによる福音書のメッセージではないでしょうか。
そして、このことを最もよく表している言葉の一つが、例えば「あなたの敵を愛しなさい」というたいへん有名な言葉ではないかと思います。憎しみに憎しみをもって報いることは主イエスに従う者の歩むべき道ではありません。憎しみに愛をもって報いること、苦しみを賜物として受けること、それによって私たちの内なる敵を、また外なる敵を友とする生き方を選び取ること。まことに困難ですけれども、それ以外に主イエスに従う道はないことを、イエスさまはここで弟子たちに、そして私たちに伝えてくださっています。
「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから」-そう、「あなたがたがまだ知らない時から、そしてあなたがたもやがて知るようになる苦しみの初めから(「初めから」というのは「苦しみの初めから」ということでしょう)、その苦しみの初めからあなたがたはわたしと一緒にいるのだから、だからわたしを証しするのだ」とイエスさまは私たちを励ましてくださっています。
このイエスさまを覚えて、今日の復活節第5主日の礼拝テーマは「うたえ」ですから、讃美歌406番「聖霊ゆたかに」の歌詞をよく味わいながらご一緒に賛美しましょう。