牧師メッセージ

2014年総員修養会説教「前のものに全身を向けてⅡ」

更新日: 2020.06.02

2014年度 総員修養会(2014.11.16) 礼拝説教「前のものに全身を向けてⅡ」
牧師:野田和人
聖書:エレミヤ書29章1節、10節~14節 フィリピの信徒への手紙3章7節~16節

 パウロは今日のフィリピの箇所の直前で次のように語っていました。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」。これは、彼がかつて持っていた宗教的特権と宗教的熱情について語った言葉です。しかしダマスコ途上でのイエスとの出会いを通じて、彼にとってかつて益であったそれら特権や熱情が損となった、徹底的な価値の転換が起こったことを大胆に語ります。それは世界を得ることに遥かに勝る、キリストを得ることへと繋がる価値の転換でした。
 私たちは例えば海外から帰って日本食を味わう時、その価値を再発見して、ああ日本に生まれてよかったとしみじみ思う時があるかと思います。もちろんそれぞれの国の人たちも同じような感覚を持つと思いますが、キリスト者としての私たちは、私たちの人生の一場面で、ああクリスチャンでよかったと思う時があるのではないでしょうか。そのような思いの原点にあるものとして、私たちは今日のパウロの言葉に聴くことができると思うのです。
 彼は11節で「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と語りましたが、これは、私たちの信仰は「ああよかった」で完結するものではなく、イエス・キリストという真理の内に私たち自身を見出していくように、常に将来へと開かれていることを表しています。そしてそれがどのように開かれているのかについて、彼は12節以下で語るのです。
 「あなたたちの指導者の中にはこう言っている者がいるだろう。『私はすでにそれを得た、すでに完全な者となった、既に捕らえた』と。しかし私は既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもない。何とかして捕らえようと努めている。それは自分がキリスト・イエスに捕らえられているからだ。兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていない。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることだ」。
 パウロが何とかして捕らえようとしている賞は、「死者の中からの復活」-すなわち新しい創造・新しい命に与ること、キリストという真理の内に自分を見出すことでした。そのゴールへと至る道程がどれほど遠く険しくとも、すでにキリストに捕らえられている者、その死によって贖われた者にとっては、そのゴールへと必ず導かれる希望に満ちた道のりであることを、パウロはフィリピの信徒たちに向けて熱心に語ったのでした。かつて、捕囚の民が遥か彼方にまだ見ぬ希望の約束を与えられたからこそ、異郷の地バビロンでの苦難に耐えることができたのと同じように。
 「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ-かつての宗教的特権、宗教的熱情、そしてそこからの徹底的な価値転換を伴う、キリスト者としてこれまで走破した行程をも後ろに置いて、前のものに全身を向けつつ-必ず辿り着くゴールに向けて、ひたすら走りなさい」。
 キリスト以外に自らの内に何ら誇るべきものを持たない者の歩む道こそが、確かにそれはパウロも辿った苦難の道だけれども、苦しみを通して導かれるその道こそが間違いなく完全へと至る道、新しい創造・新しい命に生かされる道なのだということをパウロは力説します。そしてこれは、私たちにとっては日々の祈りを通して、また毎週の礼拝を通して確認を積み重ねていくしかないものです。この礼拝を通してゴールへと向かう力が与えられます。それは、この礼拝を通してキリストという真理の内に教会が自らを見出すことができるからです。

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