6月14日(日)聖霊降臨節第3主日礼拝説教「風は思いのままに」
更新日: 2020.06.16
聖霊降臨節第3主日(2020.6.14)礼拝説教 牧師 野田和人
申命記6章17~25節、ローマの信徒への手紙10章5~17節
牧会祈祷
慈愛に富みたもう、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2020年の聖霊降臨節第3の主日にあって、思いのままに吹き来る自由な霊を遣わしてくださったあなたを見上げてこの礼拝をささげることのできる恵みを、心から感謝いたします。
今日は日本基督教団の行事暦に従って、子どもの日・花の日としてもこの礼拝を守っています。本来ならば今年から、この子どもの日・花の日に合わせてジュニア・子ども祝福全家族礼拝を持つ予定でしたが、新型コロナウイルス感染症の影響を受けて教会学校の再開もままならない中、私たちの愛するほとんどの子どもたち、ジュニアたちの顔をこの礼拝で一緒に見ることができないことは本当に残念です。学校生活もやっと通常に戻り始めようとする中、どうか、私たちの未来である愛する子どもたち一人ひとりの命と人格が尊ばれ、どの子どももあなたに守られて健やかに成長していくことができますようお導きください。
私たちは聖霊がこの地上の風のように吹いていることを知っていますが、それを実感することの少ない者です。どうかあなたの聖霊を私たちの心にしみ込ませ、血が私たちの体の中を巡るように、あなたの御心を私たちの体中に行き渡らせてください。
この世界には多くの声があり、多くの霊がありますが、私たちはあなたの声に耳を傾け、あなたの霊を受け入れたいのです。
あなたの真理を私たちに輝かせてくださる光の霊を、
あなたの臨在を私たちに気づかせてくださる静寂の霊を、
私たちの心から不安を取り除いてくださる勇気の霊を、
私たちを静め、あなたの言葉に耳を傾けさせてくださる平和の霊を、
福音を告げ知らせるよう私たちを励ましてくださる喜びの霊を、
助けを必要としている人たちに向けて私たちを開いてくださる愛の霊を、
そして私たちすべてを主イエス・キリストに従うものとしてくださる真理の霊を、
私たちは受け入れたいのです。
この日、この場で、また離れた所で共にこの礼拝に集っている全世界のあなたの愛する友とともに、この祈りを私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前におささげいたします。アーメン。
説 教 「風は思いのままに」
毎主日、毎週の日曜日に与えられる日本基督教団の聖書日課には、旧約聖書と旧約聖書の詩編、新約聖書の福音書と使徒書(今日の手紙のような文書)の四つがあるのは皆さんご存じかと思います。このうちの詩編は詩編交読でご一緒に読んでいます。そして、日本の季節では春から秋にかけての、教会の暦では一番長い聖霊降臨節(20数週間ほど続きます)に入ると、聖書朗読のメイン、中心となるのは新約聖書の使徒書ということになるわけですが(今日はローマの信徒への手紙)、今日の説教題、「風は思いのままに」という今日の説教題は、今日の主日に当てられている新約聖書の福音書の箇所から、皆さんもよくご存じのヨハネによる福音書の3章8節のイエスさまの言葉から取られたものです。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」。この所です。
そして、今日の説教題「風は思いのままに」は、先週のお話のタイトルと繫がっているものだと思っています。先週の説教題は何だったでしょう。覚えておられますか。そうですね。「主の霊を測る。」というものでした。「主の霊を測る」-もちろんその反語的な疑問文と繋がっているということです。「主の霊を測りうる者があろうか。」-「主の霊を測りうる者などいない」とそれに続く「見よ、国々は革袋からこぼれる一滴のしずく、天秤の上の塵と見なされる。島々は埃ほどの重さも持ちえない」との言葉に繋がっているものだと思っています。
そう、「風は思いのままに吹く」というイエスさまの言葉は、自由な霊の働きを表している言葉です。そしてその自由な霊の働きは、私たち人間がこしらえた小さな枡で測り得るものでは決してなく、私たちの思いを超えて、私たちの間のあらゆる境界-リミットを超えて、主の福音を、私たちの救いを明らかにして、新たな神の民を造り出していくものとしてあります。
私たちはこの自由な霊の働きを通して、召し出されて信仰を賜っている者ですけれども、今日はこの自由な霊の働きが私たちのその信仰にどんな風に作用しているのか、どのように効いているのかについて、私たちの信仰をどのように導いてくれているのかについて、使徒パウロが記したロマ書、ローマの信徒への手紙に聴きたいと思います。
先ほどのお祈りで現在休止状態の教会学校のことに触れましたが、私たちの教会の各集会・組会も3月から休止状態の中で、昨年の10月からロマ書の学びに入った「聖書の集い」も休止となり、今日後からお読みしたロマ書も、今日お読みした箇所は10章と、だいぶ先の方ですが、何かたいへん懐かしい感じがします。集会・組会の再開については、ポスト新型コロナの新しい教会生活のあり方と併せてまだまだ慎重に検討する必要があると考えていますが、とにかく、もうすぐロマ書、組会ではもうすぐまた黙示録というところで、今日はローマの信徒への手紙10章が与えられています。
「聖書の集い」での学びを少し振り返ってみましょう。
ローマの信徒への手紙が記されたのは紀元後の55年~56年頃、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書が書かれた時よりも何十年も前のことで、著者のパウロが次の伝道旅行の目的地としてイスパニア/スペインを予定していた時になります(ローマ15:24)。スペインに行く前にまずローマに伝道の基盤を置いておこうという思いもあってのこの手紙の執筆でした。執筆の時期は、彼の第3回目の伝道旅行の途中、ギリシアのアカイア州のコリントの町に滞在していた時、彼がエルサレムの貧しい聖徒たちへの献金を携えて一旦エルサレムまで戻ろうと考えていた時でした。
なぜそんな時にローマの信徒への手紙なのかということになるわけですが、それは、これからエルサレムまで戻ろうとしている彼にとっては、エルサレムの諸教会が抱えていた問題と、彼の伝え聞く、ローマにある諸教会が抱えていた問題とが同じ種類のものだったからです。彼は滞在中のコリントの町で、次の伝道の目的地であるスペインと、そのための橋頭堡として位置付けているローマの諸教会を見据えながら、同じような問題を抱えているエルサレムの諸教会内での弁明を、自らの立場をつまびらかにはっきりと述べる弁明を準備していました。
こうした性格を持った手紙であったからこそ、自分がまだ会ったこともない、これから訪ねて行こうとする人たち宛ての手紙であるにもかかわらず、それが単なる自己紹介文とはならずに、自らの立場をはっきりと述べた、いわば自己推薦状といった趣を呈するものとなり、そこでパウロ自身の考えが、いわば彼の神学が展開されることになったと考えられるわけです。
このようにして出来上がってきたのがこのローマの信徒への手紙なのですが、では、パウロはここで一体何について弁明しようとしていたのでしょうか。エルサレムやローマの教会が一体どのような問題を抱えていたのでしょうか。それが、今日お読みした所にも見られる、律法による義と(律法による義というのは少し難しい言い方になりますが、律法主義的な行為義認論と言われるもので、行為/行いはもちろん大切なものだけれども、それをとにかく至上のものとして捉える考え方のことです)、そのような律法による義と、信仰による義(信仰によって義とされる、良しとされる)との対立であり、それぞれの考え方を支持するユダヤ人や異邦人たちの間での争いでした。
パウロ自身は、信仰による義を通して神の義が実現されることを明らかにするために、「たとえその身が(呪われて)キリストから離されようとも」(ローマ9:3)、まさに命を懸けてこの手紙を執筆したのでした。
今日最初にお読みした申命記6章の箇所は、イスラエルの救いの歴史を内容とする信仰告白の定式となっている所です。今でもユダヤ教徒の間ではこの箇所が彼らの信仰告白として唱えられています。
パウロは今日お読みしたロマ書の所で旧約聖書から多くを引用することで、神さまの契約を正しく理解するとはどういうことなのかを示しながら、神さまの契約が根本的にはイエス・キリストを証言するものであることを弁明しようとしています。
例えば、お読みした申命記の所で言えば、「主を畏れることによって私たちが受ける報いとは何か。常に幸いに生きるとは何か。それは、私たちすべての者に与えられている命の尊厳に基づいてすべての者に与えられている主の平和のことであり、その報いを私たちが分かち合って生きることが、私たちがキリストを証言することに繋がるのではないか」といった具合にです。
パウロは今日の箇所でまずレビ記18章(5節)から「わたしの掟と法とを守りなさい。これらを行う人はそれによって命を得ることができる」を引用し、これが今日の5節ですね。次に申命記から、今日お読みした箇所よりずっと後の30章(11~14節)から次のような箇所を引いて、それを解釈します。少し長いですが、今日の6~8節の所と比べながらお聞きください。「わたしが今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。それは天にあるものではないから、『だれかが天に昇り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。海のかなたにあるものでもないから、『だれかが海のかなたに渡り、わたしたちのためにそれを取って来て聞かせてくれれば、それを行うことができるのだが』と言うには及ばない。御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」。
比較してすぐ分かるのは、「戒め」に代わって「信仰による義」が入り、3回登場している「行う」という言葉が三つとも省かれていることです。
申命記で語られているのは、人間を律し生かすはずの、人間に身近な存在である戒め、律法のことですが、パウロは、実際にはそのようになっていない、逆に戒めが人間を殺すものとなっているような現実に鑑みて、「戒め」を「信仰による義」と入れ替えることで、無償で、ただで、恵みとして与えられる信仰義認、信仰によって義とされることの近さを物語っていきます。
「近い」ということでは、イスラム教のコーランには次のように書かれています。イスラム教も私たちと同じ唯一なる神を信じるものですが、「我らは(複数形で表されていますが、アッラーのことです)、人間を創造せし者。人の魂が何をささやいているか、すっかり知っている。我らは人間各自の頸(くび)の血管よりもさらに近い」。面白いですね。キリスト教は口や心ですが、イスラム教は頸の血管よりも近いですから、近さがより迫ってくる感じです。
とにかくパウロが今日の6~8節の所で私たちに伝えたいことは、私たちが使徒信条で告白するように、「死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇」られたキリストによってすでに救いは完成しており、そこに私たち人間の業の入る余地は全くないということです。それなのに相変わらず自らの行い、自らの業によって義を得ようとする、救いに与ろうとする、「主の霊を測ろう」とする誤りにあなたがたは陥っているのではないか、とパウロは語るのです。
「御言葉は、この福音を伝える言葉としてすでにあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にあるのだ。イエス・キリストを宣べ伝える言葉はあなたの近くにある。キリストはまさにその献身によって私たちに対する救いの働きを完成された方として、今ここに臨在しておられ、そのキリストを信じる信仰によって私たちは義とされる、良しとされるのだ」と彼は語るのです。自由な霊の働きは、このことを私たちに気づかせるためにあると言うことができるでしょう。
パウロはこのようにして彼の聖書を(私たちにとっては旧約聖書と呼ばれている彼の聖書を)、イエス・キリストを通して結ばれた神さまと私たちとの新しい契約という視点から解釈していきました。おそらくその過程では大きな不安や悩み、大きな葛藤を抱えながら、しかしまた大きな喜びをもって。そして私たち現代のキリスト者もこの伝統を受け継いでいます。
けれども、パウロのこうした一見強引とも思える解釈、「聖書の集い」でもその強引さがよく話題になりますが、こうした解釈が正しいかどうかについて、私たちは一体どのようにして知ることができるのでしょうか。私たちも自由に、勝手に解釈してよいということでしょうか。
それが正しいかどうかの判断基準は、何度かお話ししましたが、やはりそのような解釈がただ自らを高めるためだけに、自分自身を高めるというのは普通はいい意味で用いられる言葉ですが、ここではそうではなくて、そうした解釈がただ自らを誇るためだけに用いられていないかどうかをしっかりと見極めるところにあると思っています。私たちは自分自身を昇格させていくこと、自らを高みに置くことは良いことだとする性向を確かに持っています。しかしそうした性向にはっきりとNo!を与えるストーリーを私たちは大切にしたいと思うのです。
そしてそれは、「飢え、渇き、着る物がなく、虐待され、身を寄せる所もなかった」(Ⅰコリント4:11)パウロはもちろん、主イエス・キリストがご自身の身をもって私たちに示してくださった「低さ」でもあったのです。
ただその後のキリスト教の歴史は、その「低さ」とは反対に自己義認の、自らを良しとする高みの誘惑に陥った、「自分の目にある梁を認めない」/「自分の目の中の丸太に気づかない」(マタイ7:3)歴史ではなかったでしょうか。十字軍然り、南米をはじめとする植民地主義、そして現代の様々な紛争など枚挙にいとまはありません。ペンテコステの礼拝でご一緒に唱えたあのペンテコステ・リタニーで、私たちは「お互いに殺し合いながらも、信仰告白を唱えることができる」し、「得意になって暴力と武力によって真理を曲げることができる」と唱えたことと同じです。
しかしこのような状態の中で、なおあきらめずに真摯に今日の御言葉に立ち帰ることが、私たちにとってはやはり大切なのです。
「御言葉は、福音の良い知らせはあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある。あなたの頸の血管よりも近くにある。その言葉をしっかりと聞いて信じなさい。神さまが私たちすべての者の罪を負うために、神ご自身が低きに降り、十字架に上げられた主イエスを死者の中から復活させられた。そのことを通して私たち自身も新たに生かされたことを信じ、その信仰を口で言い表しなさい。イエスは主である、と。その主イエスに私はすべてを懸けるのだと告白しなさい。その時、私たちはそのように告白するすべての人とともに、主の平和を生きることができるのだ」とパウロは語っています。
そしてその時、私たちはこの現実の暗闇の中で、暗闇の中でこそ輝く光となり、神の民となることができるのではないでしょうか。
祈りましょう。
神さま、私たちは私たちに平安を賜る主の名を呼び求めます。私たちを、互いに対する恐怖や敵意、排除の論理の支配から逃れさせてください。私たちをそこへと導かない、互いに対する恐怖や敵意、排除の論理の支配から逃れさせようとしないあらゆるものから、私たちを離れさせてください。
平和の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。