6月21日(日)聖霊降臨節第4主日礼拝説教「幻が来た。」
更新日: 2020.06.23
聖霊降臨節第4主日(2020.6.21)礼拝説教 牧師 野田和人
ハバクク書2章1~4節、ヨハネの手紙一2章22~29節
牧会祈祷
救いの源である、私たちの命と復活の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2020年の聖霊降臨節第4の主の日も、あなたによって私たちがこの御堂へと召し出され、あるいはこの会堂が映し出されている画面の前へと召し出され、今は離れている友のことも覚えながら一緒にこの礼拝をささげることのできる大きな恵みを心より感謝いたします。
神さま、あなたは御子を私たちと同じ人間の姿でこの世界へと遣わされ、そのことによって私たちに対する救いの業を成し遂げられました。あなたは、罪と死の力に支配されている私たちをその罪と死の縄目から解き放ち、私たちに永遠の命を賜るためにあなたの愛する御子をこの世界へと遣わされました。聖書はこのことをはっきりと証しし、これを信じた人々の救いの連鎖をはっきりと証言しています。そしてキリストの教会は、実に2000年に亘って私たちに賜ったこの救いを語り継いできました。
私たちがこの救いの連鎖を私たちの愛する子どもたちに、私たちが出かけて行って出会う人々に、そして私たちのところを通り過ぎていく人たちにもしっかりと繋げていくことができますよう、私たちを、主イエスこそキリストである、主イエスこそ救い主であるとの告白へと導いてくださる聖霊の助けを与えてください。
まだまだ拡大を続ける新型コロナウイルス感染症の流行によって顕わにされた、私たちが安心して生きていると思っていた世界に走った亀裂、裂け目はまことに深く、私たち人類の生存そのものを脅かし、私たちのこれまでの生き方、進み方を否応なく再考させるものとして迫ってきています。どうかこの事態に落ち着いて対処できる知恵を、裂け目を分断とするのではなく、そこから共に生きる-共生へと繋いでいく知恵と力を私たちに与えてください。
あなたの御子、主イエス・キリストを通して私たちに与えられた救い、永遠の命、主の平和を、私たちがこの愛すべき世界の中で実際に表していくことができますよう、聖霊の助けを与えてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
説 教 「幻が来た。」
先週の日曜日は、日本基督教団の行事暦で「子どもの日・花の日」でしたが、これはアメリカ合衆国起源の日曜学校運動の中から生まれてきた日です。ちょうど夏の花が咲き始めるこの時期を“Flower Sunday”-「花の日曜日」として覚えて、「花の日曜日」を記念して、そこに、教会や学校、施設などに集い、この社会で育っていく子どもたちの成長を重ね合わせて祈る日となりました。
先週の木曜日には、当神戸栄光教会と関係の深い「神戸婦人同情会」に所属している尼崎市にある園田愛児園で、花の日礼拝を5歳児(年長組)さくら組の20人の子どもたちと一緒に守りました。礼拝が終わった後、その日が園田愛児園での子どもたちとの最後の礼拝となった若林一義先生には「これまでありがとうございました。」と、そして若林先生のあとを引き継ぐ私には「これからよろしくお願いします。」と、それぞれ一人ひとりに色紙で作った二つのレイと花束を子どもたちからいただき、その後には本当の大きな花束を、若林先生にはバラの花束を、私にはひまわりと、二種類の花束をいただきました。色紙で作ったレイと花束はこんなものです…。いいでしょ。レイは掛けたまま車に乗り込み、そのまま近くのコストコで買い物をしようかとも思いましたが、さすがにやめました。
その時、花の日は子どもの日でもあるのに、私たち大人が花束やレイをもらうのは反対だなあ、逆だなあと思ったのですが、そこで、はたと気づいたのです。そうだ、私たち大人も子どもなんだということを。
そう、私たち自身も私たち一人ひとりに命の息を吹き入れてくださった神さまの前では、その神さまの子としてこの社会の中で生かされており、それは私たちが、神さまがこの世界に遣わされた御子イエス・キリストと結びついているからこそ可能なのだということです。この、言わばキリスト教の原点について、私たちがイエスさまと結びついているからこそ、私たちは神の子としてこの社会で生かされているのだというキリスト教の原点について、あらためて確認を促しているのが、特に「御子」に集中しながらあらためて確認を促しているのが、今日後からお読みしたヨハネの手紙一の箇所となっています。
子と言うからには親がいるわけですが、キリスト教ではそれを、親を「父」という言葉で表しています。旧約聖書での「父」のイメージはと言うと、皆さんはどのようなイメージを持っておられるでしょうか。天地万物の創造主なる偉大で崇高な父、また、律法の、守られるべき戒め、掟である律法の遵守という契約に基づいてイスラエルの民を導く厳格な父というイメージが強いかと思います。
ところで、新約聖書に登場するイエスさまはそのような父に対して何と呼びかけられたのでしょうか。皆さんご存じですよね。そう、「アッバ父よ」(マルコ14:36)と呼びかけられました。これは私たちの言葉で言えば「とうちゃん、おとうちゃん」との呼びかけです。父に対してこんな風に親しく呼びかけられたイエスさまの登場で、新約聖書での父のイメージは、あの、我に返って我が家に戻ってきた放蕩息子(ルカ15:11ff)に走り寄ってすべてを受け入れた父、この父とは神さまのことですが、あの放蕩息子をまだ遠くから見つけて走り寄って抱きしめた父、そのような慈愛に満ちた、憐れみ深い父といった印象が強いのではないでしょうか。
けれども新約聖書が伝えたいのは、旧約聖書から新約聖書へのそのような父のイメージの変化、偉大で崇高、厳格な父から慈愛に満ちた憐れみ深い父へといった、父のイメージの変化ではありません。
イエスさまが「アッバ父よ」と呼びかけられたのはいつだったでしょうか。イエスさまが「アッバ父よ」と言われたのは、あのゲツセマネの祈りの時、汗を滴らせて祈っておられた時、そうです、ご自分が十字架に架けられる直前でした。そこでその父はイエスさまから杯を、十字架を取り除かれたのでしょうか。その父はイエスさまから杯を、十字架を取りのけることはなさらなかったのです。
新約聖書が物語っているのは、そのイエスさまの十字架の死と死からの復活を通して、イスラエルの民のみならずその出来事を信じるすべての者が、厳格で慈愛に富む神さまを本当に父と呼ぶことができるようになったということです。受肉された、肉の形をとって私たちの所へ来られ、人となられた御子イエスさまのみが神を指し示すことができるのであって、その御子イエス・キリストを通して初めて、私たちは父なる神に対して「あなた」と、「私たちの父よ」と親しく呼びかけることができるのです。そしてこれが、例えば「主の祈り」となって表れているものなのです。
今日お読みした23節を原文に即して訳すと次のようになります。「御子を否定する者はだれも、父を持たない。御子を告白する者は、父を持つ」。ここで「否定する」と「告白する」といった厳しく対立する二つの表現が用いられています。
「御子を否定する者」とは、この段落の表題にもなっている「反キリスト」-アンティ・クリストのことですが、この反キリスト-アンティ・クリストは、福音書で度々言及されるキリスト者を迫害する者という意味ではありません。そうではなく、直前の22節で「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう」と言われている、キリストを偽る者、似非キリスト者のことです。これは当時のキリスト教会、すなわちヨハネの教会を内側から蝕んでいく者たちがいたことを示すものでもあります。
どのように偽るのか、どうイエスさまがメシア/キリストであることを否定するのかと言うと、この箇所からだけでは分かりにくいのですが、Ⅰヨハネ4章2節やⅡヨハネ7節にあるように、「イエス・キリストが肉となって来られたこと」を否定するということなのです。ここで言う反キリスト者たちは、キリスト/救い主の存在を否定しているのではなく、それがイエスという一個人、一人の人間において現れたことを認めないのです。
ここで語られていることは、組会の聖書講解でもすでに学んだことですが、実は初期キリスト教会で異端として退けられた「キリスト仮現説」(仮に現れると書いて、仮現説です)、この仮現説の考え方です。それは、イエスはその生涯を通して本当の肉体をもって存在したのではなく、ただそう見えているにすぎない-イエスは本当の肉体の形をもって生きて死んだのではないという考え方で、やはり異端として退けられたグノーシス主義と通じるものがあります。
福音書は、一人の人間であったイエスさまこそがキリストであり、神の子であったことを証しすることに力を注いだわけですが、後のこの書簡では、先の仮現説を主張する者たちに対して、福音書とは逆に、語っている内容は同じなのですが順序を逆にして、そのキリストとは、一人の人間としてのイエスとともに現れたことを主張することに重点が置かれました。私たちは、今はこのことをすんなりと受け入れていますよね。けれども当時はそうではなかったというわけです。
キリストが一人の人間としてのイエスとともに現れたことを主張することに重点が置かれたのは、もしそうでなければ、キリスト教の根本であるⅠヨハネ2章2節の言葉が成り立たなくなるからです。「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」。
あるいはⅠヨハネ4章9-10節の言葉も全く意味がなくなるからです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。
そしてこの言葉が、今日お読みした23節「御子を否定する者はだれも、父を持たない。御子を告白する者は、父を持つ」への応答となっています。
御子イエスを媒介としないキリスト教信仰はあり得ないということです。そしてそこに私たちの信仰の具体性、生きた信仰もあるということで、これはヨハネの時代でも現代でも全く変わらないことではないでしょうか。
その具体性を生きる指針が28節の「御子の内にとどまる」ということであり、そのために「初めから聞いていたことを、心にとどめる」(24節)ようにと勧められているのです。
この「初めから聞いていたこと」と通底しているのが、今日最初にお読みしたハバクク書2章の箇所と考えてよいかと思います。
預言者ハバククは、この世界に暴虐と不法が満ち、律法は無力であり、正義は示されず、たとえ正義が示されても曲げられてしまうことを嘆いたわけですが、そのハバククに対して、主なる神は幻を書き記し、その到来を待つようにと告げます。「定められた時のためにもうひとつの幻がある。それは必ず来る、遅れることはない」と。そしてその幻は確かに来たのです。
「初めから聞いていたこと」とは、ここではイエスさまの言葉、イエスさまが語られた「神の国」のことです。そしてまた、イエスさまに関する言葉、イエスさまについての言葉、言葉の正確な意味で「イエスはキリストである」という福音を指し示しています。「イエス・(中黒)キリスト」の中黒についての言葉-「イエスこそはキリストである」との福音を指し示しています。
このヨハネの手紙を最初から辿っていきますと、それは「命の言」(1:1)であり、「永遠の命であるイエスさまご自身」(1:2)であり、それは私たちが「互いに愛し合うこと」(3:11、4:11)において表されると記されていますように、私たちがキリストに倣って「自らを与える愛の形」と言ってもよいものではないかと思います。
このキリストの形を身に着けることによって、かつて生き、今も生きて働いておられるこのキリストの形、自らを与える愛の形を私たちが身にまとうことによって、私たちは父なる神と結びついて、「主の祈り」の現実を具体的に生きることができるのだと、このヨハネの手紙はその読者を、そして現代の私たちをも励ましてくれているのです。
祈りましょう。
「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」(Ⅰヨハネ4:11-12)。
神さま、御子の来られた時から2000年を経た現代においても、私たちがその御子の内にとどまることができますよう、あなたの送られた幻を、キリストの平和と愛の現実として私たちが生きることができますよう、私たちを守り導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。