7月19日(日)聖霊降臨節第8主日礼拝説教「生きて治められる主」
更新日: 2020.07.22
聖霊降臨節第8主日(2020.7.19)礼拝説教 牧師 野田和人
ミカ書7章14~20節、使徒言行録24章10~21節
牧会祈祷
慈しみと憐れみに溢れたもう私たちの命と復活の主イエス・キリストの父なる神さま、今日も御言葉をもって私たちに語りかけ、主の年2020年の聖霊降臨節第8の主日礼拝、「復活の希望」の礼拝へと私たち一人ひとりを招き、赦しの恵みを与えてくださいますことを心より感謝いたします。
新型コロナウイルス感染症という私たち人類に対する新たな脅威の前で、アメリカやブラジル、インド、ロシアを始めとして、アジア、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニアに至るまで、数多くの人たちが共に一カ所に集ってこの礼拝を守ることができないでいます。けれども21世紀という時代にあって様々なツールを用いて、礼拝で語られる御言葉を通して与えられるあなたからの赦しの恵みを分かち合おうとしています。
その中で、あなたが建ててくださったこの神戸栄光教会に連なる私たちの愛する神の家族の子どもたち、大人たち一人ひとりをも覚えます。特に今、この地上での最後の生命の灯をあなたによって守られている私たちの信仰の導き手を覚えます。また、現在入院中の方々をも覚えます。
どうかその場にあって、あなたが御子イエス・キリストを通して私たちに与えてくださった復活の希望に生きることを求めて止まない一人ひとりを顧みてくださって、あなたよりの聖霊の注ぎを通してキリストの復活の力に満たされて、目の前にある困難、課題としっかりと取り組んでいくことができますよう、私たちを支え導いてください。
2020年7月豪雨災害によって命を失い、被災し、苦しみの中にある人々を覚えます。私たちも来週から復興のための支援募金を始めようとしていますが、私たちがしっかりと関心を持って、あなたが整えてくださる再生への道を、困難の中にある人々と共に進んで行くことができますよう、私たちの心を開いてください。
主なる神さま、私たちを憐れんでください。困難な世界の中にあっても、いや、困難な世界の中にあるからこそ、あなたの平和の福音は、その福音を、“Good News”を、“Gospel”を告げ知らせる私たちメッセンジャー一人ひとりを通して、私の足下から世界の隅々にまで遍く行き渡るのだという希望を私たちが決して失うことのないよう、私たちをお守りください。
復活の主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
説 教 「生きて治められる主」
新型コロナウイルス感染症が収束の兆しを見せないまま、また拡大へと向かっているようにも見える中で、私たち神戸栄光教会の各集会や組会はこの秋、9月からの再開を予定しています。その前に、8月23日(日)には毎年この夏の時期に当教会の会堂/礼拝堂を用いて演奏活動をしておられるVoice=Spective(ヴォイスペクティヴ)の皆さんを迎えて、今年の3月以降では初めてのコンサートをこの会堂で開催する予定となっています。開催に向けての状況は現在たいへん厳しいものがあると思っていますが、100人までとの観客の入場制限をはじめ、感染症対策には万全を期して何とか開催できるようにと私自身は願っています。というのも、Voice=Spectiveのコンサートには、私自身ある思い入れがあるからです。
数年前の7月に行われたコンサートの時のお話ですが、その年の前年、2015年だったと思いますが、2015年11月にはフランス・パリでの同時多発テロによって、またコンサート当日の前日には、バングラデシュ・ダッカでのテロによって多くの方々が、そこには日本のJICAの方々も含まれていたと思いますが、とにかくたくさんの方々が犠牲となりました。そのような中で、その日のコンサートのアンコールで歌われた讃美歌は、パリでのテロの犠牲者のためにノートルダム寺院で執り行われた追悼ミサの入堂曲であり、コンサート前日のダッカでのテロの犠牲となった方々を覚えてささげられたものでした。本当に身に沁みました。音楽を通して教会が用いられるというのはこういうことなのかと思いました。
ヴォイスペクティヴは、現在はもう少し少なくなっているかもしれませんが、15人の声楽家からなる声楽アンサンブルで、その時のコンサートでは、主に12世紀から14世紀に書かれた教会音楽と、時代を千年ほど飛び越えて、20世紀、21世紀に書かれた教会音楽が歌われました。実際に歌を耳にして、人が、私たち人間が声によって表現する神さまに向けての賛美は、どれほど時を経ようとも変わることはないのだということを改めて印象づけられました。
その中に14世紀に作られた「復活の生け贄」という曲がありました。そしてその歌詞を見ていてハッとさせられたのです。こんな歌詞です。「過越しの生け贄に賛美をささげよ。キリスト者たちよ。子羊が羊を贖い、罪のないキリストが父に罪人たちを執り成された。死と命とは戦い、驚くべき仕方でぶつかり合う。命の王は、死ぬことで、生きて治められる」。
今日の礼拝テーマは「復活の希望」ですが、今お伝えした歌詞がこの「復活の希望」についてすべてを言い表しているのではないかと感じるのです。「過越しの生け贄に賛美をささげよ。キリスト者たちよ。子羊が羊を贖い、罪のないキリストが父に罪人たちを執り成された。死と命とは戦い、驚くべき仕方でぶつかり合う。命の王は、死ぬことで、生きて治められる」。14世紀の歌です。
紀元前7世紀に南ユダ王国で活躍した預言者ミカの言葉を記した旧約聖書ミカ書は、その最後の所で神の民イスラエルの回復の希望を語りましたが、そこで語られた7つの言葉は、主イエス・キリストによって表された新しい契約の福音-良き知らせを見通すものとなっています。繰り返しになりますが、預言者ミカによって語られた神の民イスラエルの回復の希望を表す7つの言葉が、主イエス・キリストによって表された新しい契約の福音を見通すものとなっているということです。
「あなたのような神がほかにあろうか」で始まり、「①咎を除き、②罪を赦される。そして③怒りを保たず、④慈しみを喜ばれる。主は再び⑤我らを憐れみ、⑥我らの咎を足で踏みつけ、⑦すべての罪を海の深みに投げ込まれる」と表されるものです。
「キリスト者たちよ。子羊が羊を贖い、罪のないキリストが父に罪人たちを執り成された。死と命とは戦い、驚くべき仕方でぶつかり合う。命の王は、死ぬことで、生きて治められる」。どうでしょうか。
エルサレムで捕らえられ、地中海沿岸に位置するカイサリアに滞在していたローマ総督フェリクスの前で、恐れることなく、自らはこの道-キリストの道に従って律法と預言者の言葉を信じ、「正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いており」(24:15)、「わたしはただ死者の復活のことでこの場にいるのだ」(24:21)と大胆に語った使徒パウロの頭の中には、ユダヤ教的な死者の復活の希望を超えて、キリスト教的な死者の復活への希望がありました。
ユダヤ教的な死者の復活の希望というのは、例えばダニエル書(12:2)にも記されているものですが、「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」というものです。そしてキリスト教的な死者の復活への希望というのは、例えば「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる」-「死人を生かし、無から有を呼び出される」、これはロマ書の言葉(4:17)ですが、このような神の顕れとしてのキリストの復活の事実を、すべての者が永遠の命へと至ることができる死者の復活の初穂と考えるものです。
「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる」-「死人を生かし、無から有を呼び出される」神の顕れとしてのキリストの復活の事実を、すべての者が永遠の命へと至ることができる死者の復活の初穂と考えること、これがキリスト教的な死者の復活への希望と言うことができます。
「『ある者は』永遠の命に入り」ではなく、「『すべての者が』永遠の命へと至る」ということです。そしてこうしたパウロの思いの背景には、時代は後になっても、きっと先ほどからお伝えしている言葉があったのだと思うのです。「死と命とは戦い、驚くべき仕方でぶつかり合う。命の王は、死ぬことで、生きて治められる」。
今日の使徒言行録は24章10節からお読みしましたが、やはり1節から見てみますと、お読みした前の段落で、大祭司アナニアは弁護士テルティロを介してパウロを告発します。「この男は疫病のような人間(本当にひどい言われようですね)、すなわちローマの平和を乱す者、ナザレ人の分派の主謀者、神殿冒涜者である」(24:5)と。パウロが法律と秩序を脅かし、ローマ帝国の安全の脅威となっているということです。
そこでパウロの弁明が始まります。まず、自分が政治的な脅威ではないことを明らかにし、彼らの告発の主要な論拠をあっさりと斥けます。そして「彼らが『分派』と呼んでいるこの道-キリストの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じている」(24:14)と彼は語るのです。すなわち、歴史的なユダヤ教の中心的証言に一致しつつ、その証言に則して、なおその上で自分は「復活の希望」を抱いているのだと。
「この道」と大祭司との論争の争点となっているのは、「この道」が主張している、すべての者が永遠の命へと至る死者の復活のことであり、従って問題は政治的な事柄ではなく神との事柄であることを明らかにして、彼は弁明を終えます。
パウロは、今は捕らえられ、ローマ総督の前で弁明せざるを得ない状況に追い込まれているわけですが、すべてはパウロの幻に現れた主イエスが、その弟子であるアナニア(名前は大祭司と同じですが、主の弟子であるアナニア)に言われた言葉から始まりました。皆さんもご存じだと思いますが、あのダマスコ途上でのパウロの回心の時のことです。主はアナニアに向かってこんな風に言われたのです。「行け。あの者は(すなわちパウロは)、異邦人の王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(使徒9:15,16)。
パウロはそのことを、彼がイエスの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを示されてなお、そこで彼と共に働いてくださる主ゆえに、その主の名を、永遠の命へと至る復活の主の名を、「全く責められることのない良心」(24:16)をもって告げ知らせたのでした。このパウロの「全く責められることのない良心」に応えることができるのは一体誰なのでしょうか。
それがこれに続く物語の中で語られていくことであり、また、私たち一人ひとりがこれから紡ぎ出す、私の、私たちの使徒言行録の中で語られていく物語なのだと思うのです。私たちには、パウロの「全く責められることのない良心」に応えていく覚悟が求められています。
言行録の著者であるルカがこの使徒言行録を著した時には、イスラエル全体が回心するという可能性はすでに無くなっていました。だからこそ彼は彼自身の物語の中で異邦人の立場をより重んじたのだと考えられます。教会は、キリストの教会は、自分たちは「契約の民」だというイスラエルの特権的な考え方を考え直して、神さまに招かれた人たちすべてを「契約の民」と考えました。従って異邦人の最初の改宗者がコルネリウスと言う名のローマの百人隊長だったのはたいへん重要な事でした。
福音はすべての人に伝えられ、すべてを-あれほど嫌悪されていた、嫌がられていた百人隊長でさえ-変えるということです。肝心な点は、その方向転換にあります。先週のお話になりますが、そこで自分の元の立場にそのまま留まっている者は誰もいなくなるということです。なぜなら、そこで、どのような人も、敵対者でさえも赦されて、私たちに永遠の命を指し示してくださる復活の主と出会うことができるからです。私たちはそこで、闇の中に光を、絶望的な状況からの希望を見出すことができるのです。
「キリスト者たちよ。子羊が羊を贖い、罪のないキリストが父に罪人たちを執り成された。死と命とは戦い、驚くべき仕方でぶつかり合う。命の王は、死ぬことで、生きて治められる」のですから。
祈りましょう。
神さま、あなたは私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。私たちはあなたの慈しみ、憐れみの中で生き、活動し、存在しています。赦されて、永遠の命を与えられている私たちが、その恵みに固く立ち、未曽有の困難の中にあっても、小さく弱い者にも、また大きく強い者にも、あなたによって生かされている恵みを証しし、分け合っていくことができますよう、私たちを導いてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。