8月16日(日)聖霊降臨節第12主日礼拝説教「神の子どもたちの世」
更新日: 2020.08.21
聖霊降臨節第12主日(2020.8.16)礼拝説教 牧師 野田和人
士師記6章36~40節、ヨハネの手紙一5章1~5節
牧会祈祷
私たちの命を育み守ってくださる神さま、多くの罪と悲惨の中にある私たちを、主の年2020年の聖霊降臨節第12の主日の礼拝へと召し出してくださり、あなたの前に、一緒に、あるいは離れて礼拝をささげることを許されている大きな恵みを、心より感謝いたします。
けれどもこの同じ日を、未曽有の困難の中で迎えなければならない数多くの人たちがおられることも覚えます。災害や争い、終わりの見えない新型コロナウイルス感染症のパンデミックの中で、愛する者を失い悲嘆に暮れているお一人おひとりを、あなたが慰め、支え、力づけてください。苦しみの中にあってなお、あなたによって与えられている尊厳に支えられて生きることができますよう、慰めの主にある希望に向けて一人ひとりを導いてください。
今なお差別を助長するような言動の絶えないこの世界の中で、憎しみのあるところに愛を、絶望のあるところに希望を、悲しみのあるところに喜びをもたらそうと働いておられる、忍耐強く誠実な働き人お一人おひとりの日々の営みを支え、主の平和に向けて、この地上の国々の指導者たちの働きを律し、導いてください。
心穏やかでなく、将来への不安の中で、あるいはあなたによって与えられた地上の人生の最期の時を間近に控えて、あなたにどのように祈っていいのか分からない友、私たちの知らない苦しみを背負っている友のことも覚えます。沈黙の祈りの内にそれら友のことを覚え、一人ひとりがあなたの慰めと恵みに触れ、あなたの癒しと平安を与えられて日々を過ごすことができますよう、心より請い願います。
私たちを忍耐強く諭し導いてくださる、私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
説 教 「神の子どもたちの世」
私が長崎県の諫早教会からこの神戸栄光教会に来させていただいたのは、今から7年前の2013年4月でしたが、こちらに来て1,2年ほど経った頃、当時神戸栄光教会の教会学校の校長を務めてくださっていた方から、教会学校のテーマを決めてほしいというお願いがありました。そこで諫早教会時代、諫早や九州教区の教会では、教会学校のことを「学校」ではなくて「子どもの教会」と呼ぶところが多かったのですが、その諫早教会の子どもの教会の毎年の夏のキャンプのテーマにしていた「神の家族」というのはどうでしょうかとお勧めしました。すると「ああ、それはいいですね」ということになり、その後1,2年はこの「神の家族」が神戸栄光教会の教会学校のテーマとなり、それからまた1,2年して、現在の「教会につらなる神の家族」が教会学校のテーマとなっています。いつも週報の2頁、左上の教会学校の所と、最後の頁のやはり教会学校の所に記していますが、皆さんご覧になっていただいているでしょうか。
「神の家族」、あるいは「教会につらなる神の家族」といったテーマに関連する聖書の御言葉と言えば、皆さんもいろいろと思い浮かべられるのではないでしょうか。「神の家族」、「教会につらなる神の家族」とのテーマに関連する聖書の御言葉-もちろんいろいろと思い付くことができるかと思いますが、そのうちの一つとして、例えばロマ書、ローマの信徒への手紙の12章、4節5節の御言葉を挙げることができます。有名な言葉ですので、どうぞお聞きください。「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」。
体は多くの部分から成り立っていてもすべてが同じ働きをしていないように、わたしたちもキリストに結ばれて一つの体を形づくっており、それぞれは互いに部分なのだということです。
この所で大切なことは、「キリストに結ばれて」という点です。キリストに結ばれて私たちは一つなのだ、イエスさまに結ばれて私たちは一つの体を形づくっているのだということです。それは、私たちだけで一致団結するというのではないのです。
私たちの内でバラバラなものが合わさって、様々な働きを担っているものが合わさって一つになるというのではなく、これも例えばヨハネによる福音書でのイエスさまのお祈りにあるように、-ヨハネによる福音書の17章(21節)にあるお祈りですが、これも皆さんよく知っておられると思いますので、どうぞお聞きください-「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」とのイエスさまのお祈りにあるように、私たちが、私たちだけではなくて、イエスさまと神さまとの交わりの中に私たちが入れられて一つになるということです。
バラバラな私たちが合わさって、様々な働きを担っている私たちが合わさって私たちだけで一つになるのではなくて、そのような私たちがイエスさまと神さまとの交わりの中に入れられて一つになるということ、これが「キリストに結ばれて一つ」ということです。
近くにいて、あるいは遠くにいるにもかかわらず好き嫌いの激しい私たちだけでは、とても一つになることはできない。遠くにいるにもかかわらず、あるいは近くにいるからこそということもあるかもしれませんが、少し想像してみてください。遠くにいても好き嫌いの激しい私たちだけでは、とても一つになることはできない。けれどもそんな私たちの間にイエスさまが入ってきてくださることで、そのイエスさまを通して私たちみんなが神さまとの交わりに入れられて一つになることができるということです。
なぜそんなことができるのでしょうか。なぜそんなことができるのかと言えば、これは先々週のお話、「食べ物は誰のために」のお話と関連するのですが、イエスさまは、私に嫌われている方、私からこの人は弱いと思われている方の人たちといつも共にいて、その人たちのためにご自身の命を差し出されて、その人たちを、嫌われている所から、弱いと思われている所から回復してくださったからです。
そしてそのことで、実は、人を嫌っている自分、自分は強いと思っている方の人たちにも、その人たちが嫌っている相手と共に、その人たちが弱いと考えている人たちと共に、それぞれは一つの体の大切な部分として生かされているということ、そのようにして、イエスさまを言わば媒介として、イエスさまを間に立てて、私たちすべてが一つの交わりの中に入れられているということを分からせてくださったからです。
そのようにして、自分は強いと思っている者の傲慢さを打ち砕いてくださった。そこに私たちは私たちへの神さまの愛を見ることができるのではないでしょうか。私たちへの神さまの愛を感じ取ることができるのではないでしょうか。
私たちがこの神さまの愛を通してキリストに結ばれて一つとなるように生かされているということ、それは自ずと、自然に、私たちにも私たちがその愛を実践することを促してきます。迫ってきます。私たちがこの神さまの愛を通してキリストに結ばれて一つとなるように生かされているということは、自然に、私たちがその愛を実践することを迫ってきます。それが、今度は先週のお話、「主の食卓は誰のために」の所でお話ししたことと関連するわけですが、「隣人を自分のように愛しなさい」ということと繋がってくるわけです。
隣人を、かつてあなたの弱さを支えるように、あるいはあなたの高慢を打ち砕くように、あなた自身が主によって愛された、そのようなあなた自身として愛しなさい。かつてあなたの弱さを支えるように、あなたの高慢を砕くようにあなた自身が主によって愛された、そのようなあなた自身として隣人を愛しなさいということです。
今日後からお読みした新約聖書のヨハネの手紙一の著者が、5章2節3節で「掟」という言葉で言い表していることは、福音書で、これはマタイ(22:34~40)、マルコ(12:28~31)、ルカそれぞれの福音書に記されているものですが、特にルカによる福音書(10:25~27)で、イエスを試そうとして、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた律法の専門家の質問に、イエスさまが逆に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と聞き返す形で、その律法の専門家に応えさせた二つの掟のことです。これも有名な所ですが、覚えておられる方はご一緒に言ってみてください。
まず最初の掟は、覚えておられますか。ご一緒に、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。そう、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」でしたね。そして二つ目の掟は、どうぞご一緒に、「また、隣人を自分のように愛しなさい」。
ルカによる福音書ではこの後に「善いサマリア人」の譬話が続くのですが、私たちは神さまの御子であられるイエスさまを受け入れ、そのイエスさまに信頼することによって何よりもまず神さまを愛します。そしてこの神さまへの愛、それは私たちへの神さまの愛に応えるものですが、この愛が、私たちの他者への愛、私たちが隣人を愛することの力強い支えとなっています。私たちが神の御子イエスさまを受け入れ、そのイエスさまに信頼することによって神さまを愛する、その愛が私たちの他者への愛、私たちが隣人を愛することの力強い支えとなっているということです。
この愛に生きることが、今日の5章1節で「神から生まれた者」と呼ばれている者の姿であり、神から生まれた者の持っている特権と言ってもいいものではないでしょうか。私たちが神の御子イエスさまを受け入れ、そのイエスさまに信頼することによって神さまを愛すること、その愛が私たちの他者への愛、私たちが隣人を愛することの力強い支えとなっていること、この愛に生きることが「神から生まれた者」の持っている特権と言うことができるのではないかと思うのです。
次の言葉もよく知られている言葉ですが、ヨハネによる福音書の1章12節以下に記されている通りです。お聞きください。「言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」。その通りです。
今日最初にお読みした旧約聖書の士師記の箇所には、たいへん珍しい現象が起きたことが記されています。士師の一人であるギデオンが「羊の毛だけが乾いていて、土には一面露が置かれているようにしてください」と神さまにお願いするとその通りになったというお話です。初めはこれとは反対に「羊の毛にだけ露を置き、土は全く乾いているように」とのお願いでしたが、それも聞き入れられました。このお話は、こうした本当に珍しい現象が起きたことを通して、ギデオンが神さまの救いの約束を確信できたことを伝えています。
私たちも、実はこうした珍しい現象を目の前にしたのではなかったでしょうか。こうした珍しい現象を私たちも目の当たりにしたのではなかったでしょうか。ただそれは、ギデオンのように私たちから願ったことではなかったのですけれども。
それが、私たちを神さまの救いの約束の確信へと導いた出来事であったと言うことができるでしょう。人としてこの世に来られた、神の御子であられるイエスさまが、その十字架の苦難と死、そしてそこから甦らされたことを通して、私たちすべての者が新しく生まれ変わるチャンスを与えられた、その機会が与えられたということです。先程のヨハネによる福音書の言葉によれば、血-血液の血ですね、「血、肉の欲、人の欲」から私たちが離れて、新しく生まれ変わらされて、私たちに神の子どもたちとなる機会が、そのチャンスが与えられたということです。
この神さまの愛に支えられて、この愛の中で、私たちは、私たち自身の愛、他者への愛、隣人への愛を表す機会が与えられています。だからこそ、先程の二つの神の掟は決して難しいものではないのだと、「神である主を愛する」ことと「隣人を自分のように愛する」という二つの神の掟は決して難しいものではないのだと、今日の箇所に記されているのです。
神さまの戒めに従うことは、神さまの前で、その愛の中で、私たちと同じ神の子どもたちを愛する、その子どもたちが生きる世を、その世界を愛する絶好のチャンス、絶好の機会だからです。だからこそ、この掟はあなたたちにとって何ら重荷ではなく、かえって恩寵なのだと、真に味わい深い恵みなのだと、この手紙の著者は、当時のヨハネ共同体に属する者たちに向けて、そして現代の世を生きる私たちに向けて語りかけているのではないでしょうか。
この恩寵を、この恵みを、この世で、神の子どもたちの世で十二分に表すこと、それがここで「打ち勝つ」と言われていることですが、そのために私たちは神さまから信仰を与えられ、「神から生まれた者」、「神の子どもたち」、そして神さまの家族とされているのだということを、今日あらためて覚えたいと心から願います。
祈りましょう。
神さま、主イエス・キリストを通して、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、私たちが日々の生活の中で関わるすべての人をあなたの平安の内に入れてくださって、一つとしてください。私たちの世界は、神の子どもたちの世界は繋がっており、自分だけの安全は、自分だけの平和はあり得ないのですから。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。