牧師メッセージ

9月6日(日)聖霊降臨節第15主日礼拝説教「キリストはあなたを照らされる。」

更新日: 2020.09.08

聖霊降臨節第15主日(2020.9.6)礼拝説教     牧師 野田和人

出エジプト記13章17~22節、エフェソの信徒への手紙5章11~20節

牧会祈祷
 私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、あなたが導いてくださって、この神戸の地に建てられた愛する神戸栄光教会の、また全世界の教会の聖霊降臨節第15の主日礼拝に、神さまと人とに仕える志を様々な場面で表すためにそれぞれ役割を与えられた私たち一人ひとりが呼び出されて共に集い、心からなる礼拝をささげることのできる大きな恵みを与えられていますことを、心より感謝いたします。
 この場の真ん中にあなたがいてくださり、私たちのささげる礼拝が傲慢なものとなることなく、最も小さい者の一人に為してくださった主イエス・キリストのお働きに連なる、配慮に満ちたものとなりますよう、導いてください。

 主の年2020年の夏も、世界では災害が続き、私たちが暮らすこの日本でも災害にも比べられる暑さに加え、新型コロナウイルス感染症、豪雨、迫りくる台風などによっておびただしい数の人たちが未曽有の困難の中にあります。憤り、悲しみ、そして痛みが災害の渦中にある人々を襲い、困難の中にある人たち、その人たちを助けようと奮闘している人たち、そしてそれらを見守る私たちの心を締め付けます。
 神さま、私たちと共にいて、私たちに今必要な慰めと助けを与えてください。私たちはあなたによって慰められ、助けられることで再び共に生きる希望を持つことができるのですから。その希望の下で、私たちは、出かけて行って実を結ぶようにとあなたが選んでくださった私たち一人ひとりに与えられた役割を果たすことができます。
 
 愛する神戸栄光教会に連なるお一人おひとりが、いつ、どこにあっても、主イエス・キリストを通して私たちに示された他者のために生きる志を表していくことができますよう、私たちのすべての手の業を、その働きをお導きください。
 私たちの慰め主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

説  教       「キリストはあなたを照らされる。」
 先週の礼拝でのお話の始めに、今私たちを不安に陥れている「新型コロナウイルス感染症のパンデミックが起きていなければ、この夏に東京で、日本で開催されていたはずのオリンピック・パラリンピック」という風にお話ししたのですが、皆さんは今回の大会のビジョン/展望に三つのコンセプト/考えがあるのをご存知でしょうか。三つあります。まず、「全員が自己ベスト」、二番目が「多様性と調和」、そして最後、三つめが「未来への継承」です。お聞きになって、どう感じられるでしょうか。
 今大会のビジョン/展望としての三つのコンセプト/考えが、「全員が自己ベスト」、「多様性と調和」、そして「未来への継承」ということです。私自身は、少なくとも「多様性と調和」といったところにオリンピックの精神が表されていると思うのですが、どうでしょうか。皆さんはどう思われるでしょうか。

 今から12年前にアジアで開催された北京オリンピックのテーマが、覚えてはおられないと思いますが、その時のテーマは“One world, One dream”-「一つの世界、一つの夢」でした。“One world, One dream”-「一つの世界、一つの夢」。
 現在の中国の「一帯一路」的世界戦略を思い浮かべる時、かつての北京でのこの“One world, One dream”とのテーマには少なからず疑心暗鬼を持ってしまうのですが、その当時にはやはり言葉の純粋で理想的な意味で“One world, One dream”だったのだと思います。そしてそのテーマの実現のためには、今大会のコンセプト/考えの一つである「多様性と調和」が十分に尊重されなければならないのだと思っています。
 ところがです。ところが、今回の、私たち人類の不意を突くような新型コロナウイルスの登場によって、これまで言われてきた、いわゆるグローバル資本主義の進展によってすでに顕わになりつつあった私たちの間に厳然とある格差と、そこから派生してくる意識的、あるいは無意識的な差別感情は拡がりこそすれ、私たちの間の多様性を調和する方向には進んで行っていない、かえって多様性を分断する方向に進んで行っているというのが現状ではないでしょうか。
 私たちの前に見えているのは、希望に満ちた、理想像としての“One world, One dream”ではなく、色褪せて、偏ってしまった“One world, One dream”なのではないかとの思いが残念ながら強いのです。光が見えてきそうに思うのですが、やはり闇はその光を覆うほどに強いということでしょうか。

 けれども私たちは先週、この闇の支配は、死者の中から復活させられた方、死者の中から甦らされた方の支配へと私たちが服従することによって変えられ、そこで私たちは死に至る実ではなく、神さまに対する実を結ぶことができるのだということを学びました。それは、神さまから私たちに与えられた嗣業であるこの地で、一つひとつの、一人ひとりのかけがえのないいのちを育み、養うことへと私たちを、そして教会を向かわせるものでした。
 そこへと向かう力が主イエス・キリストを通して私たちに与えられる時、私たちはこの地上の闇の業を支配する力に対して、あることを明らかにすることができます。それは、それら闇の業を支配する力は、自分たちが考えているほどには、自ら考えるほどには支配的な力を持っているわけではないということです。いや、もっと進んで、皆さんはアンデルセンの童話『裸の王様』をご存知だと思いますが、「王様は裸です。キリストのみが主です。」と宣言することができるということです。
 5年前から始めた「聖書と祈りの会」では、木曜日の夜に行っているものですが、旧約聖書の詩編を第1編から読み始めていて、今週から7ヵ月振りに再開の予定ですが、ちょうど1年前の9月に学んだ詩編123編は、4節しかない短いものなのでお読みくださるといいのですが、その詩編123編は、主の憐れみに賭ける切実さと、安逸をむさぼり、傲り高ぶって生きる者たちの侮り、嘲りを訴える切実さとがよく対照された詩編でした。読んでみてください。
 主の憐れみに賭ける切実さと、安逸をむさぼり、傲り高ぶって生きる者たちの侮り、嘲りを訴える切実さとがよく対照されたこうした詩編も、「王様は裸です。キリストのみが主です。」と詠っていると言ってよいでしょう。けれども、私たちは本当に宣言できるでしょうか。「王様は裸です。キリストのみが主です。」と。

 実は使徒パウロの時代においても、2000年前ですが、キリスト者の生活について、今までお話ししたことと同じような関心が持たれていました。パウロはコロサイの信徒への手紙の2章15節で次のように述べています。「神は…もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました」。
 神さまは支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさった。この言葉も、「王様は裸です。キリストのみが主です。」ということだと思うのです。

 今日後からお読みした新約聖書のエフェソの信徒への手紙は、このコロサイ書を下敷きにして記された手紙ですが、ここでの関心もまた、私たち読者を、キリスト者としての自分、そして自分がキリスト者とされた時の召命へと呼び戻すことにありました。
 そのキリスト者たちの呼称、呼び名がこの5章の最初、1節の「神に愛されている子供」であり、3節の「聖なる者」であり、7節の、たいへん有名な「光の子」というわけです。そしてこれら呼称の、呼び名の因って来る所、どこからこうした呼び名が出てきたのかをもう一度明らかにするために、今日お読みした14節のところに日本語では(ギリシア語でも)3行の洗礼歌が組み込まれているのです。
「眠りについている者、起きよ。
 死者の中から立ち上がれ。
 そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」と。
 「眠りについている者、起きよ」とは、私たちが「起きて、目を覚ましている」とは、まず私たちがこの世界を、それが神の前にあるがままに見るということです。この世界を神の前にあるがままに見るということです。それは、神さまの創造とその御業を、私たちが心から愛するということです。
 それだけでなく、それと同時に、造られた者の苦しみや困窮をも私たちが見、その苦しみ、困窮からの訴えを、それらが言い表されている所ではもちろん、言い表されていない所でもよく聞くことのできる想像力を私たちが持ち、なおかつ私たち自身の永遠の罪責を私たちが知っているということです。
 そしてこれは、私一人のなし得ることではもちろんありません。罪の中にある私たち人間のなし得ることではないのです。ですから神さまが、そのように私たちが目を覚ましているように、私たちを召し出してくださらなければならないのです。従って、「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。」とは、神さまの前で、神さまに造られた者として生きるように私たちを召し出される、神さまご自身の新しい創造の言葉と言うことができるでしょう。

 そのように召し出された者たちが神さまの光を受け、キリストによって照らされるのです。「キリストによって照らされる」とは、キリストが、私たちの罪の贖いとしての十字架の死に至るまで、その中へと入って行かれた悲嘆と悲惨とを私たちが知ることです。そして、死者の中から甦らされた主を通して、あらゆる悲嘆と悲惨を超える希望に私たちが生きることです。
 それはまた、すべてのものにまさって神さまを愛し、そのように生かされているあなた自身のように人々を愛する、あなたの隣人を愛するということです。
 すべての人がこの生へと、このいのちへと召し出されているということ、これがこの3行の洗礼歌が当時の不安の中にあったキリスト者たちに向けて、そして現代の新たな格差社会の中にある私たちに向けて語っていることではないでしょうか。

 そしてこのように召し出された者たちの具体的な生き方について、今日の15節以下の所で、例えば「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」というように旧約聖書以来の伝統である知恵をよく用いることと、そこから霊の、聖霊の満たしを得て、喜びに満ちた礼拝をささげることが勧められているのです。
 そしてここに記されている15節から20節の言葉も、実はあの言葉で言い替えることができるのではないかと思うのです。「王様は裸です。キリストのみが主です。」と。

 私たちの教会の壁は本来透明なはずですから、この中にはもちろん裸の王様も入ってきますが、それと同時に、ここから、「キリストのみが主です」との宣言もこの世へと働きかけていくことができます。
 私たちが、読まれ、説き明かされる神さまの御言葉に聴き、賛歌と祈りにおいてその御言葉に応え、「キリストのみが主です」との証しに生きる時、「昼は雲の柱をもって私たちを導き、夜は火の柱をもって私たちを照らされる」(出13:22)神さまが、その知恵である甦りの主イエス・キリストと共に私たちと歩んでくださいます。
 その時、私たちの世界は“One world, One dream in Christ”-「キリストにおいて、一つの世界、一つの夢」となるのではないでしょうか。祈りましょう。

主なる神さま、あなたのみ手にこの世界をゆだねます。
地は、災害や争いによって脅かされています。あなたのみ手にゆだねます。
私たちが今、話し合い、書き記し、心の中で沈黙のうちに思い起こした人々や状況を覚え、平和と正義を求める私たちの意志を強めてください。
国々の指導者を導き、律してください。
平和と正義を求めて闘うすべての人と運動を支え、守ってください。
「愛と真実が出会い、義と平和が抱き合う」(詩編85:11)あなたのみ国への信仰を強めてください。
みこころが天で行われるとおり、地にも行われますように。
              (cf.)『世界の礼拝』(日本キリスト教団出版局)133頁)
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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