牧師メッセージ

11月8日(日)降誕前第7主日礼拝説教 「別 れ」

更新日: 2020.11.14

降誕前第7主日(2020.11.8)礼拝説教     牧師 野田和人
創世記13章1~18節、ガラテヤの信徒への手紙3章1~14節

牧会祈祷
 慈しみと憐れみに富みたもう、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2020年、降誕前の第7主日にあって、私たちが愛し、また私たちを愛してくださった永眠者の方々と共に主の日の礼拝に与ることのできる恵みを、心より感謝いたします。

 神さま、あなたは世界が創られる前から、永遠の先に至るまで主であられます。大水が現れる前から、嵐が吹き止む後に至るまで、あなたは主です。万物の不変と変化の中で、あなたは主です。宇宙の広大さと、私たちの心の中の忘れられた片隅において、あなたは主です。
 「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。」(イザヤ43:19)
とあなたは語られます。
 「主よ、私たちは待っています。私たちのただ中で新しいことを行ってください。」
 「わたしは決して声を立てず、黙して、自分を抑えてきた。今、わたしは子を産む女のようにあえぎ、激しく息を吸い、また息を吐く。」(イザヤ42:14)とあなたは語られます。
 「主よ、私たちは待っています。私たちのただ中で新しいことを行ってください。」
 「乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。」(イザヤ53:2)  しかし
 「主よ、私たちは待っています。私たちのただ中で新しいことを行ってください。」

 神さま、私たちが絶望や孤独の中でもあなたを待ち望むことができますように、私たちの心をあなたの希望で満たしてください。
 キリストと共に死ぬことを学び、その復活の栄光に与ることができますよう、私たちの信仰の先達の方々にあなたがしてくださったように、あなたの命の種を私たちの内に、そして私たちの未来に蒔いてください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

説  教            「別  れ」
 私はこの神戸栄光教会に来てまだ8年目ですが、昨日午後、今日の永眠者記念礼拝のために礼拝堂前方にこのように飾られた永眠者の方々のお写真を拝見しながら、「あぁこの方、あぁこの方も……」と、本当にたくさんの信仰の先達の方々を御許へとお送りしたのだなあと、お一人おひとりとの最期の時を思い起こしながら、その信仰が今も確かに受け継がれていることに感謝しました。今日この場に集っておられる皆さんが証人です。
 8年間在籍した長崎県の諫早教会で御許にお送りしたのは確かお二人か三人でしたし、私の母教会である香川県の多度津教会では、2014年に私の母を見送って以来6年が経っていますが、どなたも召天しておられないことを思うと、葬儀を通してですけれども、この神戸栄光教会での神さまとの近さがより感じられます。
 今日お配りしている神戸栄光教会のこの一年間の召天者リストの教会員の方々の最後は文田君代さんですが、ご事情で何年間も教会から離れておられた君代さんが、最期の時とはいえ、大好きだった愛するこの神戸栄光教会に戻ってくることができたことを、ご家族の皆さんは本当に喜んでおられました。お母さまの君代さんが一番喜んでいるだろうと、ご家族の皆さんも仰っていました。
 君代さんと一度もお会いすることのなかった私も確かにそう思いました。そして永眠者記念日の礼拝でよく読まれる、新約聖書のヘブライ人への手紙11章16節を思い起こしました。「彼らは、出て来た土地よりも更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」。私は葬儀の度にこの言葉に励まされます。
 そしてこの「彼ら」、私たちの信仰の先達たちの中でも聖書で最初に言及される人物が、今日最初にお読みした旧約聖書の創世記12章に登場してくるアブラハムなのです。

 彼の召命と移住の記事は、創世記12章1節2節に記されています。「主はアブラムに言われた。-アブラムは、神さまからアブラハム(多くの国民の父)と名乗るように言われる前の名前です-『あたなは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。』」(後半部は教会学校の今月の暗唱聖句です)。
 この言葉に従って、アブラムが75歳の時、一族もろとも行き先も知らずに旅立ったのがイスラエルの民の始まりとなりました。彼らが現在のパレスチナ、カナン地方に入った時に主が現れ、「あなたの子孫にこの土地を与える」と言われたのが約束の地カナンとなりましたが、その約束の地をひどい飢饉が襲った時、アブラムはエジプトへ逃れる決断をします。その時、祝福を受けているはずのアブラムの取った行動は、妻であるサライを妹と偽ることでした。そして結局そのことでサライは宮廷へと召し入れられ、アブラムは豊かに富むこととなります。
 私たちはここでアブラムの抜け目のなさ、不信仰、卑怯さを責めることもできますが、聖書には、「主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」(創12:17)と記してあります。アブラムの行為は主の呪いをもたらしました。ただ、主は計算高いアブラムではなく、ファラオの方を罰したのです。
 アブラムの不信仰はファラオの側に死をもたらしました。私たちにはたいへん理解しにくいことですが、これは、この所で働く神さまの力は、呪いにしろ祝福にしろ、アブラムにも、もちろんファラオにも、どちらにもコントロールすることのできないものであるということを表しています。神ご自身が自由な仕方で支配されるということです。そしてここでは、アブラムの不信仰にもかかわらず、主はアブラムとサライの二人をイスラエルの救済史の中を進み行く者として選び出されたことが伝えられています。

 この創世記が編集されたのは、イスラエルの民が最も困難な状況にあったバビロン捕囚の時期であったことを思い起こします。何千年も前のことではなく、紀元前6世紀のことです。信仰において、信じるということにおいて、イスラエルにはその最も初めの試みにおいて欠けがあった、裏切りがあったことがここで明らかにされています。にもかかわらず、主はその救いの御業を放り出されるようなことはなさらなかったのです。
 約束は守られる。このことに賭ける、捕囚の苦しみの中にあったイスラエルの民の思いがひしひしと伝わってくるようです。

 アブラムは、結局エジプトで増し加えられた財産をそのまま、何一つ失うことなく、サライや甥のロトと共にカナンへと戻ってきます。そのカナンには、すでにいたカナン人に加えてペリジ人も定住していた上に、アブラムら自身の持つ家畜などの財産の多さゆえに、牧草地や水場のことも考え合わせると、以前彼らが天幕を張った所で一緒に住むことはできそうにありませんでした。
 そこでアブラムは甥のロトにそれぞれ別々に分かれることを提案しますが、左、右、どちらに行くか、その選択はロトに任せます。ただ選択とは言っても、一方は主の園、エデンの園のように美しい、よく潤った遊牧には最適の土地であり、もう一方は、カナンとは言っても荒れた山地でしたから、ロトに選択権を与えるということは、自ずとアブラム自身のみならず、彼に属する一族の繁栄の道を閉ざすことにも繋がります。
 したがってこの提案は、エジプトでは保身や打算に走ったアブラムの姿とは対照的に、寛大で慈悲深い彼の態度を表しているように見えますが、果たしてそうでしょうか。大方の理解はそうですが、少し疑ってみることもできます。アブラムは最初から主の約束に信頼して荒れた山地を選び取ったのでしょうか。

 主は14節で「さあ、目を上げて、見渡しなさい」とアブラムに言われています。そうなんです。ロト一族が彼に別れを告げて去った後、アブラムはうつむいて目を落としていたのです。エジプトでの自分の取った行動に負い目を感じていたのかも知れません。またいくら財産があるとはいえ、荒れた山地でのこれからの生活の先行きを考えれば不安でいっぱいだったのかも知れません。
 この状況に、主の約束の言葉が響いたのです。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」。
 かつての抜け目のなさ、不信仰を超えてアブラムに祝福を与えられた主が、今度は、そのことへの後悔やこれから生きていく上での不安にさいなまれているアブラムに対して、「さあ、目を上げて、見渡しなさい」と仰るのです。この主の尽きることのない誠実さが、アブラムを主への信頼へと導き、そしてこのことが、今日後からお読みした新約聖書のガラテヤの信徒への手紙3章6節で使徒パウロが引用している創世記15章6節の言葉へと繋がっていきます。-「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。」-この言葉へと繋がっていきます。

 後悔や負い目、不安に満ちた、本当は思いがけなかったロトとの別れは、アブラムにとっては”end“-終わりではなく、神さまの約束の内にある”re-start”-再出発となりました。
 アブラハムと言えば、私たちの信仰の父であり、祝福の代名詞のような存在ですが、欠けがあり、弱さや愚かさ、不信をも合わせ持った存在でもありました。その彼を、彼の信仰の決断いかんにかかわらず、神さまが選び、導き、守り、祝福しました。彼の死んだ後は、その祝福はイサクへと受け継がれていきます。イスラエルの民は、バビロン捕囚という自分たちの歴史の最も困難な時にあって、この神さまの祝福の約束を繰り返し繰り返し自らに言い聞かせてきたのではないでしょうか。

 今日お読みしたガラテヤの信徒への手紙の箇所の少し後、3章18節に次のように記されています。「神から相続財産のように与えられる恵みは、律法に由来するものではなく、約束に由来するものであり、神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです」と。
 私たちにとって、この恵みは今日のアブラムとロトの「別れ」から繋がっているイエス・キリストという約束を通して与えられました。そして、私たちはこの約束をただ受け入れるだけなのです。それが今日の御言葉です。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。
 これを、私と神さまとの会話に直してみるとこんな風になるでしょうか。「私は信じます。それでよろしい」と。今度はもっと簡単に英語に意訳するとこんな風になるでしょうか。“I am O.K. You are O.K.” “I‘m O.K. You’re O.K.”「私は信じます。それでよろしい」と。
 祈りましょう。

 アブラハムに祝福の約束を与えられた神さま、あなたはアブラハムを決して見放されませんでした。ありのままのアブラハムと共に歩み、彼を導いて行かれました。そして、アブラハムもあなたを信じる道を歩み続けました。私たちもあなたからいただいているものに目を留め、ありのままを受け入れていただいていることに気づかせてください。

 今日から始まる障がい者週間を覚えて祈ります。
 私たちはあなたから計り知れない恵みを与えられているのにもかかわらず、差別し合ったり、お互いを受け入れ合ったりすることができずにいます。強い力や武力に頼り、経済優先の考え方によって人間の価値を決めてしまう社会や教育、偏見やゆがんだ習慣を作り出してしまった私たちの罪をお赦しください。
 どうか私たちが御言葉に従い、声にならない声にも耳を傾け、お互いによく聞き合い、差別のない社会を作り出していくことができますよう、私たちに知恵と勇気と信仰をお与えください。
 様々な障がいを負う人々と共にイエス・キリストの和解と平和の福音を伝え、すべての人々が生きる喜びを見出す社会を実現することができますよう、お導きください。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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