11月29日(日)待降節第1主日礼拝説教 「この日」
更新日: 2020.12.04
待降節第1主日(2020.11.29)礼拝説教 牧師 野田和人
イザヤ書2章1~5節、ローマの信徒への手紙13章8~14節
牧会祈祷
慈しみと憐れみに満ちたもう、私たちの復活と命の主イエス・キリストの父なる神さま、主の年2020年のアドヴェント第1の主日にあって、あなたの御子の再び来られるのを待ち望む主の民の一人ひとりと共に、この礼拝をささげることのできる恵みを心から感謝します。感染症への用心のために、あるいは様々な事情でこの場で共に礼拝をささげることのできないお一人おひとりともあなたがその傍らにいてくださって、尽きない慰めとあふれる恵みを分かち与えてくださっていることも心から感謝します。
アドヴェント・クランツに最初の明かりが灯されました。私たちは悪より目覚めて主の来臨を待ち望む期節に入ります。どうか私たちを造りかえ、私たちが私たちの隣人の内にあなたを認めることができるようにしてください。そして私たちの身の回りのすべての事柄をあなたへと向けて為し、私たちを、あなたに尋ね求めつつあなたに仕える者としてください。
今週から12月のクリスマスに向けて予定されている、教会に関わる様々な行事の上に与えられる大きな恵みを心から感謝します。子どもたちと共に、あなたへの信頼のうちに私たちのすべてを主に委ね、その主からの愛を私たちの内に迎え入れることができますよう、お導きください。
私たちの隣人と共に、私たちを憎みさえする人たちと共に、あなたの民の内に、私たちの平和の主イエス・キリストを迎え入れることができますように。
主の御名によって祈ります。アーメン。
説 教 「この日」
「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」(ローマ13:12)。私たちは今朝、教会暦の一年の新しい始まりの時、アドヴェント/待降節を迎えました。アドヴェントとは、今日皆さんにお配りしている、受付の所にたくさん置いています「アドヴェント・クランツMemo」にも記してありますように、ラテン語で「到来、到着」という意味ですが、ロマ書の使徒パウロの言葉を借りれば、「夜は更け、日は近づいた」ことを知らされる時だとも言うことができるでしょう。
この「時」とは、私たちが普段用いている時間、経過としての時間-ギリシア語で「クロノス」-を表すものではなく、反復不可能な-クロノスももちろん反復不可能なものであるのに違いはないのですが-、一度捕らえ損なうと、後から追いかけてももう決して捕まえることはできない、一度限りの、特別に定められた時間-ギリシア語で「カイロス」-を表しています。言わば出会いの瞬間としての時間と言うことができます。
「出会い」ということであれば、私たち一人ひとりの人生も、この出会いの瞬間としての時間の積み重ねではないでしょうか。私たちは、「あの時、こうしておけば良かった」、「いや、あの時はあれで良かった。だから今の自分がある…」というように、後悔しつつ、あるいは自分を納得させたりしながらこの地上の時を歩んできていますが、とにもかくにも、今この時を私が生きることができているのは、振り返ってみると、自分が自分で生きてきたというよりも、やはり生かされてきたという思いを持つことが多いのではないかと思います。
先週の播磨社会復帰促進センター(加古川市内にある刑務所)での収容者の方との集合教誨の時、こんなお話をしました。集合教誨では今はあらためて「主の祈り」を学んでいて、その時は「主の祈り」の最初の祈り、「御名をあがめさせたまえ」について学んでいたのですが、「私たちが神さまの名をあがめる-神さまの存在を尊いものとして大切に思う-ことができるのは、私たちの存在がその神さまによって守られている、私たちの存在がその神さまによって保証されているからこそできることで、『御名をあがめる』ことは、私がその方によって生かされていることとしっかり繋がっているからこそできるのだと思います」と。
するとそこでお一人の方がこんな風に言われたのです。「先生、よく分かります。先生は”Something Great”って知ってますか。僕の存在は遥かな先祖から繋がって来ていて、(その方が言うには)70兆分の1の確率で僕が生きてるってことで、それは本当に自分が生かされていることなんだと思う、”Something Great”な存在なんだと思います」と。この方が社会に復帰されるとこんな話もできなくなるのですが、それでもやはり、こんな思いを持っておられるのなら、「ああ、早く社会に復帰してほしい」と思ったものです。
夜の闇の中、そしてその夜が更けてますます暗くなっていく中で、夜が更ければ更けるほど確かに闇は深まるけれども、それだけ朝は近くなる。もうすぐ明るくなる。こうした時間の経過を私たちが私たちの人生に投影しつつ、希望を失うことなく生きる機会を今与えられているのは、やはりそこで私たちが生かされているからだと思うのです。
闇の最も深い所でなお私を生かしてくださる方がおられる。そこで私と出会ってくださる方がおられる。これも先週の「聖書と祈りの会」で学んだ詩編139編には次のようにあります。「闇でさえあなたのゆえに暗くなく、夜も昼のように輝く」。
聖書が証しする神さまは、闇の中にあっても定められているこの「時」を正しく捕らえて、私たち人間と出会い、私たち人間をあるいは裁き、あるいは助けてくださる神さまだと言うことができるでしょう。「神のなされることは皆その時にかなって美しく」(伝道3:11)、この神さまの働きを知らされる時、私たちは「私の時はあなたの御手の内にあります」との感謝の告白ができるのです。
そして、この神さまの最も「時宜にかなった」(コヘレト3:11)、「美しい」働きが、その御子イエス・キリストを通して私たち人間の歴史の中に入って来られたことなのだと、新約聖書は証ししています。その御子イエスさまは「王の王」(黙示録17:14)として私たちの所へ来られたのですが、それは「屠られた小羊」(黙13:8)としての王なるキリストでした。
私たちの現実は、確かに私たちがもう回復不可能な破局に向かって進んでいるのではないかという不安へと私たちを陥らせますが、私の罪をご自身の罪とされ、ご自身の潔さと力とを私のもの、私たちのものとしてくださったこの小羊である王なるキリストの告げる福音は、私たちの前にあるこの闇は決して闇で終わるものではなく、その先には必ず光があること、その先に見える光を指し示すものです。
そしてこの光を見据える姿勢こそが、使徒パウロが今日のロマ書で語った「時を知る」ということではないでしょうか。「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」(ローマ13:11)と。
そしてその「時」は、今日最初にお読みした預言者イザヤの語る「終わりの日」、「終末の時」でもあることを私たちは知らされるのです。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ2:4)。
しかし、時代が下って、ヨエル書4章9節~10節にはこう記してあります。「諸国の民にこう呼ばわり、戦いを布告せよ。勇士を奮い立たせ、兵士をことごとく集めて上らせよ。お前たちの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ。弱い者も、わたしは勇士だと言え」。
ヨエルの方がイザヤよりも時代が新しいものですので、これはヨエルがイザヤの詞を、あるいはイザヤと同時代に活躍し、イザヤと同じ詞が記されている預言者ミカの詞(ミカ4:3)をひっくり返したということですが、実はこのヨエルの詞は、こうしてヨエル書に記されるまで、典型的な戦いへの呼びかけとして数世紀に亘って伝えられてきたものでした。「鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ。弱い者も、わたしは勇士だと言え」と。
ということは、もともと伝えられていた戦いへの呼びかけを、預言者イザヤがひっくり返したということになります。紀元前8世紀、強国アッシリアの攻勢を前にしていたユダの民にとっては、まことに衝撃的な呼びかけではなかったでしょうか。「鋤を剣にではなく、剣を鋤にだって!」と。
しかし、私たちも実は主イエス・キリストとの出会いを通して、同じような「この日」の衝撃を受け継いでいるのではないでしょうか。主イエスの出来事が私たちに示していることは、ここで預言者イザヤの語る事柄が何ら絵空事ではなく、何の幻想でも、あるいは理想で終わるのでもなく、現実であるということです。だから衝撃なのです。
イザヤ書でお読みした最後、2章5節の「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。」との言葉は、キリストが「この日」の、「剣を鋤に打ち直す」終末の現実の証人であるということを私たちに告げています。ニューヨークの国連本部のイザヤの壁に刻まれているこの言葉の現実を生きるために、私たちは再び巡り来たアドヴェントの中で新たに主に出会い、その主の光の中を進みたいと心から願います。
祈りましょう。
神さま、あなたがイエスさまを通して私たちに与えてくださった平和の現実を感謝します。この、私たちに突きつけられた現実を私たちが突き返すことなく、私たちのあらゆる勇気と知恵とをもって受け入れていくことができますよう、私たちを助け導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。